「ピソ職人新聞社の道標」 第2話
第2話
無からの最初の感覚が、匂いなんだ。香ばしく仄かに甘い香り。この匂いを嗅いでいると安心できる。匂いがどんどんと濃密になり、それに反応して、お腹がその匂いのもとを取り込もうとしてグーっと鳴った。匂いに気付いてしまってからは肉体が黙っちゃいない。とてつもない空腹を感じる。あたりは暗闇のまま。食べ物にありつくにしても、光を探さなければ目的にたどり着けない。グワッと重い瞼をこじ開けた。強い光が差し込み、目が慣れるまで真っ白い世界だ。白い世界に色がついていき、見えるものの像がはっきりしたところで、出会ったのは見知らぬお兄さんとおじさんだった。
「え、だれ?」
そう声を発するけれども、言葉にならない音が漏れるだけだった。
「目覚めたか。お腹がすいているだろう?」
話かけるおじさんの口の周りから顎にかけて生えている髭が目につく。
「朝ごはんにしよう。最近できたばかりのピソもたくさんある」
お兄さんは白い歯を見せて満面の笑顔。
「起き上がれるか?」
おじさんが言って、腕をひっぱろうとしたから反射的に腕をひっこめて、腹筋に力をいれて上体を起こした。
少女はベッドに寝かされていたようだった。部屋を見回してみるけれど、ここはどこなのかが全くわからない。見覚えのない場所だ。
「じゃあ、俺はピソとってくるんで」
お兄さんが部屋から出ていった。おじさんは少女を観察したままだ。少し気まずいなと少女は思う。
「夜中にうなされていたようだが、大丈夫か? どこか痛むか?」
首を振って、平気だと言おうとするが、口からでてくるのはあーあー、うーうーという言葉にならない音だった。
「そうか、話すことができないのか」
おじさんはそう呟いて、そこから黙った。
黙ったまま少女を見つめるのも、気まずいと思ったのか、座っていた椅子から立ち上がり、少し離れたところにあった小さなテーブルをベッドサイトに寄せた。
しばらくして、お兄さんが、かご黄色い食べ物をのせて部屋にもどってきた。
「あ、テーブルを寄せといてくれたんですね。ありがとうございます」
お兄さんはそう言って、テーブルにこんもり黄色いかたまりがのった籠を置いた。
「いや、たくさんのせすぎだろ」
「おなかぺこぺこかもしれないじゃないですか」
目覚める前に嗅いだ、香ばしく甘い匂いの正体はこの黄色の食べ物だったのだ。気が付けば、右手が伸び、その食べ物を掴んで口元に持って行った。
「お、いいですね。遠慮なくたくさん食べて」
お兄さんが満面の笑みを浮かべながら少女が食べる様子を眺めている。
ひとくち食べると、口内に香ばしい香りが広がる。えっ!と思ってもう一口、さらにもう一口と食べる。止まらない。噛めば噛むほどに、香ばしい香りとともに、仄かな甘みが優しく広がっていく。がぶりがぶりと、夢中になって食べる。大口を開けて、口の中に詰め込めるだけ詰め込むのに、少し咀嚼したら、溶けるように消えていく。まだ、もっと、食べたい、もっと、もっとと思ってどんどんとかぶりついていく。最初に感じていた香ばしい香りと仄かな甘み以外にも、かすかな酸味と苦みを感じる。より多重的なうまみを感じる。一口ごとに違う表情をみせてくるのだ。これは、と思って目をつぶって味わうと、瞼の裏に黄色く輝く穂がたくさんゆらめくいている。広大な畑が見える。優しく温かい安心する場所だ。身をまかせたい。
目を開けると、涙が一粒落ちた。
「ねえ、どう? 美味しい?」
少女はうんうんとうなずいた。
「そっか、それはよかった。あまり噛む力がなくて食べられなかったらだめだと思って、柔らかいものをもってきたんだけど、見ている感じ、もっと食べ応えあるやつでも大丈夫そうだね。これも食べてみて、うまいからさ」
先ほど食べていたものより、薄い黄色の細長いものを少女に手渡してきた。少女は受け取りながら、お兄さんの太くたくましい腕と、太く力強い指を見た。白い粉がところどころついている。
食べようと口に近づけている段階から香ばしい香りが漂っている。がぶりと噛みつく。前歯を立てた瞬間は結構硬いなと思ったが、歯に力を入れて噛んでいけばいくほど、どんどんと進んでいき、嚙み切るときに少し弾力を感じた。奥歯で咀嚼すると口の中から畑の香りがした。咀嚼して喉を通って口の中が空になると、また満たしたくて、がぶりと噛みついた。止まらなかった。
「ははは、いい食べっぷりだよ! 嬉しいなぁ。どんどん食べろ。俺またつくるからさ」
美味しさを夢中でかみしめているうちに、涙もなぜだかわからないけれど、ほろほろと流れ落ちた。
「うますぎて、感動しているじゃないか、フィリッポ。これだけ、食べられるのであれば、だいぶ元気になったのかもなあ」
口の中が完全に空になっているわけではないのに、もっともっとと噛みついて食べていると、食べ物を飲み込むタイミングと呼吸をするタイミングがずれて、盛大にむせる。
ケホケホとする少女の様子をみて、おじさんがコップを差し出す。コップの中には赤い飲み物が入っていて、少女はひるむ。
「やだなぁ、エラディン殿。さすがに子どもに赤ヴァイリーはだめでしょ」
「すまぬ、つい反射的に手近なものを渡してしまった」
「俺ミルクもってくるんで」
戻ってきたお兄さんから、ミルクの入ったコップを受け取ってごくごくと飲んだ。体があたたまり、お腹も満たされて気持ちが落ち着いた。
少女が落ち着くのを待って、おじさんが尋ねる。
「われわれが話している言葉は理解できるかい?」
少女はうんうんとうなづく。
「そっか、よかった。私の名前はエラディン。きのう、となりの集落で倒れそうになっているところを保護させてもらった。そして、この素敵なごちそうをふるまってくれたのが・・・」
「フィリッポです。よろしくね」
お兄さんがまた、白い歯をニッと見せて笑いかける。
「それで、君の名は?」
少女は名前を言うが、言葉としてうまく発音できない。あーあーという音が漏れるだけ。それでも何とか伝えようと、言葉にならない音を復唱する。
「…えっと、ハンナ? アンナ?」
なかなか伝わらなくて歯がゆい。あ、惜しい。おじさんたちが名前を当てようとするのに対して、表情で応える。
「あ!ジョアンナ?」
少女はぶんぶんと頭を前に振って肯定する。
「そうか、君の名はジョアンナか!」
名前が伝わったことがうれしい。
エラディンはジョアンナに、旅を終えて帰路についている途中で見かけて保護したことと、あくまで一時的に保護しているだけだから、家族のもとに送りたいということを説明した。それで、どこまで送ればよいのかを知りたいから、ジョアンナについてもう少し教えてほしいと尋ねる。
しかし、ジョアンナの記憶は大部分が抜け落ちていたし、そもそも、うまく話せないので、互いのコミュニケーションに難航していた。
ジョアンナの食べ終えた食器類を片付けて工房にもどっていたフィリッポが、部屋に入ってきて、紙とペンを差し出した。
「もしかしたら、文字が書けるんじゃないですかね?」
「たしかに、試していなかったな。では早速」
紙とペンを渡されたジョアンナは、かすかに残っている記憶を頼りにペンを走らせていく。その時間は3分ほどか。
そして書き終わった紙を渡すと、エラディンとフィリッポは顔を見合わせた。
「えっと、これは、何を伝えようとしているんだろうか?」
ジョアンナは、差し出した紙を指さしたあと、自分のこめかみをトントンとたたいた。そして、両手を開いて頭の横でひらひらと振った。
「これは、君の記憶?」
ジョアンナが紙に書いたのは、文字ではなく、絵だった。黒々と鬱蒼とした森を手前に書き、奥のほうに、小さく町のようなシルエットが描かれていた。
「それにしても、うまいですね」フィリッポが言う。
3分で描いたにしては、うまく描けている。10歳くらいの少女が描いたにしては写実的だった。遠近法がうまく活用されている。
「でも、ここはどこだろうね。景色のアングルから考えるに、どこかの高台から見た景色だろうか。ジョアンナ、他に思い出せることはない?」
ジョアンナは記憶を探ろうとしたが、あるのは真っ黒い闇だけで、その他に伝えられることはなかった。
第3話(つづき)
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