なぜ人は『死』に直面した時、ベートーヴェンを聴くのか?
上記、偏愛コンテストに参加している記事にコメントがつきました。
私の母は、生前はクラシックなどを聞くタイプでは全くなかったのですが、死の直前、なぜかベートーヴェンばかり聞いていました。
母が病室で楽しめるかなと思って渡したアイポッドタッチでYouTubeを見ていたみたいですが、一番最後の再生画面はベートーヴェンの『田園』でした。
私の友人の母も、亡くなる前はベートーヴェンが好きだったみたいです。
死に直面すると感じる何かが、ベートーヴェンにはあるのかなと感じた、ということを思い出しました。
ベートーヴェンに関しては、私は全く何も知らず、手塚治虫先生の『ルートヴィヒ・B』を読んだぐらいの知識しかありません。
でも、よく考えてみると、あんなにものすごい作品数がある手塚治虫先生が、漫画に描こうと選んだ音楽家は、唯一『ルートヴィヒ・B』だけです。
しかも、これは未完の作品となっております。なぜなら、途中で手塚治虫先生が亡くなってしまったからです。
ということは、手塚先生も亡くなる前にベートーヴェンに興味を持たれたということなのかな、と感じました。
うおおおおおおおー!!!!
なんと嬉しい!!!!
読んだ瞬間、ふがふがと大興奮しました!!!!
今回は、こちらのコメントで色々感じること思うことを文章にいたしました。
死に直面すると感じる何かが、ベートーヴェンにはあるのかなと感じた、ということを思い出しました。
特に上記部分、「なるほどなぁ~」と唸らせられました。
ベートーヴェン自身、聴力の回復を諦めた時、つまりハイリゲンシュタットの遺書を書いた時から『死』を意識&覚悟しているんですよね。
難聴に加えて、ベートーヴェンは慢性的な腹痛や下痢に悩まされていました。
『自殺はせーへんって決めたけど、このまま耳は治らんみたいやし、体調はなんかずっと悪いし、多分いつ死んでもおかしくないわ……』
みたいな潜在的な不安を常に抱えていたと思うんですよね。
『できれば少しでも遅い方がええけど、いつでも死を迎える覚悟はできとるぞ! 来るんやったら来いやぁ!!!』
的なニュアンスな文章も遺書の中には残っているのですが、やっぱり死ぬのは誰でも嫌だし怖いと思います。
実際には遺書を書いてから約25年後に亡くなられるのですが、その間ずっと限界ギリギリまで、いや常に限界を超えながら芸術活動をされていたんだろうなと。
第九の合唱指導をしてくださったバリトン歌手の方が
「ベートーヴェンの曲は、楽器の出せる音の限界ギリギリまで要求してくる」
とおっしゃっていました。
声楽の先生も第九のソプラノパートに対して、
「こ、これ、ほんとにキ〇ガイみたいな曲ですね……! こんなの最初から最後まで全力で歌ってたら声帯痛めますよ……!」
なんて戦慄しておりましたし。
まるでベートーヴェン先生が音楽の中で
『俺は常に自分の限界を超えて表現してるんやし、お前らもできるやろ!? やってくれや!! やろうや!!』
ってな感じで、ひたすら鼓舞しているかのようです。
ちなみに私がベートーヴェンの曲を好きな理由は、聴く度に『"自分"であるための活力』が得られるからなんです。
体中の細胞一つ一つがイキイキしてキラキラ輝いて、
「ああ、自分って最高だなぁぁ。生きてるって最高だなぁぁ!!」
なんて感じの、命の喜びを感じるのです。
まさに歓喜。Freude!!(フロイデ)
そして意識は宇宙に飛んでいく感覚で……深い瞑想&覚醒状態になるというか。
見えない大いなる力、人知の及ばない大自然の摂理に対して、畏怖の念を抱くのです。
そんなわけなので、死を目前にした人がベートーヴェンに惹かれるのは、
『自分の命を最後まで、本気で味わい尽くしてから自然に還りたい』
という欲求が湧いて音楽と共鳴するからじゃないか、と私の中で仮説を立てました。うむ。
田園、いいですよねぇ。
今回、「コメントを元に記事を書いていいでしょうか?」とお願いしてご快諾いただきました安怒厚志さん、ありがとうございました!
お母さまは、『楽しめるように』とiPod touchを渡してくれた息子さんの思いやりと愛が、何より嬉しかったと思います。
『ルードウィヒ・B』も、存じていたのですが手つかずだったので読んでみます!
(早速最初だけ読んでみたのですが、幼少期のベートーヴェンの境遇がより立体的に感じられて胸が熱くなりました。未完なのが惜しい……)
貴重なお話を心から感謝いたします。
安怒厚志さんのnoteページ↓
