縁界《ENKAI》本編| 1話 : 見逃された理由
0章:縁界《ENKAI》 ━ 世界の外側 ━
魔界の空は赤黒く濁り、見上げるほどに重く沈んでいる。息を吸うたびに喉の奥が引っかかり、深く吸い込もうとすると、そのまま呼吸が止まりそうになる。それでも歩みは緩めない。止まれば終わると、感覚で分かっていた。
森に入った瞬間から、何かが違っていた。
静まりかえっていた。
音が消えているわけではない。枝葉は揺れ、どこかで小さな生き物が動く気配もある。それなのに、それらがひとつの流れになっていない。風は吹いているはずなのに流れを感じない。音も存在しているはずなのに、どこかで押し留められているようだった。
足を進めるたびに、その違和感は強くなる。
一歩ごとに地面を確かめる。視線は自然と足元へ落ちていた。地面には浅い溝が走っている。幅も間隔も揃っているが、ただの地形には見えなかった。知らずに踏み込めば確実に足を取られる位置にある。だが、それだけではない。溝の並び方そのものに意図があるように感じた。
視線を上げる。
木々の間には細い隙間が続いていた。通れる幅は限られている。逃げるならそこしかないように見える。だが、違う。
そう感じたときには、もう身体が動いていた。
まっすぐは進まない。一歩目をわずかに横へずらし、溝を跨ぐ。次は木の根元へ足を置き、地面に触れる時間を短くする。用意された道には入らない。細い隙間には近づかない。影から影へ移りながら、何かに誘導されるような感覚だけを避けて進んでいく。
理由はない。
ただ、そちらへ行けばまずいと身体が判断していた。
そのときだった。
短い音が重なった。
ひとつではない。
足が止まる。
呼吸を浅くし、木の陰へ身を寄せる。視線だけを動かした先に見えたのは白だった。
最初、自分が何を見ているのか分からなかった。
この森には存在しない色だったからだ。
赤黒い空。黒ずんだ木々。湿った土。視界に入るものすべてが暗い色で染まっている。その中で、その白だけが異様だった。周囲から切り離されているように見えるほど浮いていた。
その周囲で魔物が動いている。
いや、正確には動こうとしていた。
最初の一体が飛び出す。
だが、その動きは途中で止まった。
次の瞬間、首がずれ、身体が崩れ落ちる。
何が起きたのか分からない。
距離はあった。
それだけは覚えている。
白いそれは動いたようにも見えなかった。
次は追えなかった。
横から回り込もうとした個体が間合いへ入る前に消える。遅れて焼けた匂いだけが風に乗って流れてきた。
速いのではない。
認識が追いついていない。
その事実だけがはっきりしていた。
魔物たちは決して弱くない。この森で生きている以上、それなりの強さを持っている。だが、その差すら意味を持たないようだった。近づく。消える。倒れる。ただそれだけが繰り返される。
近づけば終わる。
それだけは理解できた。
それでも目を離せなかった。
白いそれは戦っているようには見えなかった。この場そのものを支配しているように見えた。用意された地形も、潜んでいた魔物も、その前では意味を失っている。流れそのものが白いそれを中心に動いているように見えた。
やがて音が消える。
動くものはいなくなる。
静けさが戻る。
だが、元の静けさではなかった。
魔物たちが消えたあとに残った空白だけが森に広がっている。
そして、その中で立っているのはひとつだけだった。
自分だ。
その認識が浮かんだ瞬間、白いそれの視線が動いた。
こちらを見ていた。
見つかった。
理解より先に身体が止まる。
逃げるべきだと分かっている。
だが動けない。
足ではない。
選択そのものが遅れていた。
目が合う。
距離はある。
だが、それは意味を持たない距離だった。
来る。
そう思った。
来なければおかしい。
この場にいる以上、見逃される理由がない。
だが、来ない。
白いそれは動かなかった。
ただ静かにこちらを見ている。
時間だけがゆっくり流れていく。
短いはずの沈黙が妙に長く感じられた。
なぜ来ない。
なぜ自分は生きている。
答えは出ない。
白いそれの考えなど分かるはずもなかった。
ラグナードには、それがまだ何か分からなかった。
■ 登場人物
■ ラグナード
深淵の森で生きる魔神。強い力も大きな縄張りも持たず、生き残るためだけに森を彷徨っている。この日、ラグナードは初めて理解できない存在と出会う。
