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縁界《ENKAI》本編| 2話 : 残された記録


0章:縁界《ENKAI》 ━ 世界の外側 ━


ラグナードはしばらくその場に立ち尽くしていた。追いかけようとは思わない。追いつけるとも思わない。それでも視線だけは、何度も白いそれが消えた方向へ向かってしまう。

森は静かだった。

先ほどまで魔物たちが潜み、牙を剥いていた場所とは思えないほど静かだった。だが、それは元の静けさではない。何か強いものが通り過ぎたあとに残る静けさだった。森そのものが息を潜めているような、余計な音を立てることすら避けているような、不自然な静けさだった。

やがて視線を落としたとき、不自然なものが目に入る。

地面の上に、小さな紙の切れ端が落ちていた。

木の皮でもない。魔物の骨でもない。白く薄いその紙は、この森の中では異物そのものだった。

ラグナードはゆっくりとしゃがみ込み、それを拾い上げる。指先に返ってきた感触は思ったよりも硬かった。端は裂けている。もともとはもっと大きな紙だったのだろう。

その瞬間、頭に浮かんだのは白いそれの姿だった。

あいつは何かを書いていた。そして大型の魔物の気配を察知したあと、慌ただしくその場を離れた。確信はない。だが、わざと捨てていったようには思えなかった。

ラグナードは紙へ目を落とす。

文字が並んでいる。

だが意味は分からない。

見たことのない文字ではない。一文字ずつなら理解できる。それなのに文章になると途端に意味が曖昧になる。頭の中へ入ってこない。

『声のような反応を確認』

『大型個体に言語性なし』

『弱小個体――』

そこで文章は途切れていた。

裂けた先に続きがあったのだろう。何について書かれているのか分からない。誰のための記録なのかも分からない。それでも紙を握る指は離れなかった。

白いそれが見ていたもの。

白いそれが残したもの。

そう思うだけで、不思議と手放す気になれなかった。


ラグナードは静かに立ち上がり、森の奥へ向かって歩き出す。

赤黒い空は相変わらず低く垂れ込み、枝葉の隙間から差し込む光も弱い。踏みしめる落ち葉の感触も、湿った土の匂いも、ここへ来る前と何も変わらない。

いつもの森だった。

何ひとつ変わっていない。

そのはずなのに落ち着かない。

気づけば後ろを振り返っている。気づけば手の中の紙を握り直している。なぜそうしているのか自分でも分からなかった。ただ、身体のどこかに小さな棘が刺さったままになっているような感覚だけが残り続けている。

どれほど歩いただろうか。

時間の感覚は曖昧だった。

森は静かで、足音だけが土の上へ沈んでいく。

その静けさの中で、不意に足が止まった。

止まろうと思ったわけではない。

次の一歩を踏み出そうとした瞬間、身体が勝手に動きを拒んだのだ。

ラグナードはゆっくりと顔を上げる。

何かがいる。

見えたわけではない。音がしたわけでもない。匂いを感じたわけでもない。それでも、そこに何かがいることだけは疑えなかった。

周囲を見渡す。

木々が並び、落ち葉が積もり、赤黒い空が枝の隙間から覗いている。見慣れた森の景色だった。ここへ入ってから何度も見てきた光景と何ひとつ変わらない。

だが視線だけが同じ場所へ引き寄せられる。

何かを見つけたわけではない。

それでも、そこを見なければならない気がした。

魔物なら分かる。

隠れているのか、獲物を待っているのか、逃げようとしているのか。完全ではなくても予想はできる。生き残るために必要な感覚として、それはずっと身体に刻まれていた。

だが今感じているものは違う。

近いのか遠いのかも分からない。動いているのか止まっているのかも分からない。気配を探ろうとしても輪郭が掴めず、目を凝らしても何も見えない。

それなのに、そこにいることだけは分かる。


森の奥から風が吹く。

枝が揺れ、葉が擦れ、乾いた音が木々の間を流れていく。

ただそれだけだった。

普段なら気にも留めない音だった。

それなのにラグナードは反射的に顔を上げ振り返る。

誰かがいた気がした。

誰かが何かを言った気がした。

もちろん、そんなはずはない。

周囲には誰もいない。耳を澄ましても聞こえるのは風の音だけだ。それでも喉の奥がわずかに動く。返事をしそうになった自分に気づき、ラグナードは眉をひそめた。

なぜそんなことを思ったのか分からない。

遠くで葉が落ちる音が聞こえる。木の幹が軋む音も聞こえる。どこかで小さな生き物が走った音も聞こえる。

普段なら気にも留めない音ばかりが耳に入ってくる。

そして、そのどれとも違う何かが混ざっている気がした。

ラグナードはゆっくりと息を吐く。

気づけば紙を握る手に汗が滲んでいた。

森の奥には何かがいる。

根拠はない。

姿も見ていない。

それでも、そこにいることだけは疑えなかった。

そして、その何かもまた。

こちらがここにいることを知っている気がした。

ラグナードは視線を逸らせないまま、森の奥を見つめ続ける。

静かな森の中で、何かが始まろうとしていた。


■ 登場人物


■ ラグナード

深淵の森で生きる魔神。強い力も大きな縄張りも持たず、生き残るためだけに森を彷徨っている。この日、ラグナードは初めて理解できない存在と出会う。


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