さよならを教える♯6 ∴ 別れという贈り物
私は彼に伝えた。「ショウイチさんは僕の話なんて何も聞いてなかった。ただ自分が話したいことを一方的に喋ってるだけ。あんなのは会話じゃないよ」と。すると彼はすかさず否定した。「俺はヤヨイの話をちゃんと聞いていたよ」と、過去を懐かしむように、何年も前に名古屋へ遊びに行ったことや、知人たちと集まって食事をしたことなどを語り始めた。
言われてみれば思い出せることもあったが、私の中ではそれらは遠い過去の出来事で、彼の印象はただ「嫌な人間」だということだけが全ての記憶を覆い尽くして居た。彼と共に過ごした時間の中で、私の記憶に刻まれているのは、彼が私を不快にする言葉を浴びせ続け、我慢を強いられたというものばかりだった。私が彼に対して気を遣い、彼が気持ちよく過ごせるように、ずっと我慢していた事など、彼には何一つ理解出来無いのだろう。
彼にとって、私との思い出は楽しい出来事で満たされているのかもしれない。一方で、私にとってのショウイチとの思い出は、耐え難い嫌悪と我慢の連続だった。彼が二人で体験した過去の出来事を楽しげに語る様子を見ていると、その思い出が私の中にあるものと正反対で、少し可哀想にも感じた。
子供にとって家族で遊園地に行ったことが楽しい思い出でも、面倒を見ていた親にとっては、ただ疲れただけの印象しか残って居ない。彼と私の記憶の食い違いは、それに似たものなのかもしれない。
懐かしい思い出を語るショウイチを見てると、遠い過去の自分を見てるような気がした。
それは、私が30代になったばかりの頃のことだ。当時の恋人は私に尽くしてくれる優しい人で、いつも私のことを最優先に考え、まるで母親のように一生懸命に尽くしてくれた。そんな愛情に甘え、いつしか彼女の存在が「当たり前」になり、彼女の愛をただ受け取るばかりで、彼女を何度も悲しませていたことに気づきもしなかった。
彼女が去ってからしばらくして、私にもまた好きな人ができた。しかし、その人は残念ながら私を愛してはくれなかった。けれど、その片思いを通して、初めて人を愛するとはどういうことかを知った。愛することは、自分の気持ちが相手にどう受け取られるかを気にしながら、ただその人の幸せを願うこと。その感覚は新鮮で、痛みを伴うものだったが、同時に心が満たされる不思議な感覚でもあった。
そうして私は気づいたのだ。今まで「好きだ」と言ってくれた人たちが、どれほどの思いで私に無償の愛を捧げてくれていたのかを。自分がその愛を当然のように受け取ってばかりで、何一つ返してなかったことを、その時初めて自覚した。人に愛されることばかりを望み、自分が誰かと比べて優れてるから愛されるのだと誤認し思い上がってた自分の浅はかさを知った。
私の事を愛してくれ、そして去って居た人は、きっと私に対して同じような気持ちを抱いていたのだろう。愛して、愛して、それでも私から返ってくるのは無関心と自己中心的な態度だけ。彼女が去って行ったのは、愛を注ぎ尽くし空っぽになったからだ。
別れ話を切り出された時、私は彼女を抱き寄せ、強引に口づけをした。彼女は全く嫌がらなかった。それでも、「嫌いになったわけじゃないけど、もう好きでもないから、絶対に復縁はしない」と静かに言い残し、私のもとを去っていった。
その時は、彼女が他に自分よりも良い相手を見つけて私を捨てたのだと感じていた。でも、今こうしてサヨナラを伝える側になって初めて分かった。もし彼女が男を乗り換えただけなら、わざわざ別れ際に「サヨナラ」を伝える必要などなかっただろう。あの時、彼女は最後の贈り物として、後の私の人生の幸せを願って「サヨナラ」を教えてくれたのだと。
ショウイチはきっと私の事を心のそから友達だと思い大好きなのだろう。けれど私からの愛情が当たり前になって居て、自分がどれほど私に甘えて利用しているかを自分でも認識出来てない。『さよなら』を知って初めて、自分の愚かさを理解するのだろう。
別れた彼女が抱いて居た気持ちが、ショウイチに対する私の気持ちと同じかは判らないが、彼女は私に尽くして、嫌になるほど我慢し、最後の最後に去っていったのだと今では分かる。
私はショウイチが土下座しようが、どんなに泣き叫ぼうが、もう友達を続ける気は無い。自分にとって何の益もないし、彼の為に一秒だって時間を使って人生を無駄にしたく無い。だけど愛情のようなものは残ってる。別の世界で元気で生きて居てほしいと心から感じる。遠い国で戦争に苦しんでる人達へ向ける気持ちと近い感覚だ。
ショウイチは、「どんなに離れ離れになっても、友達は永遠だと思う」と自信ありげに言った。その耳障りの良い言葉も、彼にとっての友達の定義は、自分を愛してくれる都合の良い存在でしかない。私は少しも感動せずただ冷静に、正直な気持ちを伝えた。
「俺たちは、二度と会うことはないと思う。正直、俺の中には嫌な思い出しか残ってないよ。」
その言葉に一瞬、彼の表情が硬くなるのが見えた。けれど、これで彼が少しでも私の気持ちを理解できるようにと、さらに続けた。
「今、すぐに思い出せる嫌だった事は、ついさっき『ジュースくらいなら奢ってやる』なんて偉そうに言ってきた事かな。こっちは何度も奢ってきたのに、たかが100円のジュースでそんなことを言えるなんて……ショウイチさんみたいな利己主義な人を見たことがないよ。」
ショウイチは感情をむき出しにして、怒ったように言い放った。「ヤヨイさんは私のことを何も分かってない!私は利己主義なんかじゃない。募金だってしてるんだ!」
その言葉を聞いた瞬間、内心で呆れ返った。こいつ、見ず知らずの人へ募金はするくせに俺にジュース一本奢るだけでも恩着せがましく振る舞うとは、どこまでも舐めた野郎だ!いっそ最後に、1発殴って終わろうかなと一瞬思った。
