さよならを教える♯5 ∴ 別れ話
公園へ向かう途中、コンビニを見つけた彼は「今日は金持ってるから、ヤヨイにジュースくらいなら奢ってやろう!」と、鼻息を荒くしながら偉そうに宣言した。その高慢な態度は、まるで私から感謝の言葉を待っているかのようだったので、「別に奢ってくれなくていいよ」とそっけなく断った。
私はこれまで何度も彼に酒や食事を奢ってきたし、私の年上の知り合いも彼に何度となくご馳走をしてきた。それでも彼は、お返しをするという感覚がまるでない。相手に支払いをさせては、お礼の言葉を口にするだけで平然とし、散々お世話になっても感謝の念を持たず、自己中心的に自分の好きなものにだけお金を注ぎ込む、浅ましい人間だった。
そんな彼の性質は十分に知っていたが、たかがジュース一本でここまで偉そうに振る舞うその姿には驚きと憤りを覚えた。彼の中には「お返し」という概念など存在しない。ただ受け取るだけ受け取り、自分が少しでも施しをするときには、相手に最大限の感謝を求めるような態度に、ただ気持ち悪さしか感じなかった。
これまで彼に尽くしてきた自分が、心底馬鹿らしく感じられた。お金も時間も、精神的な消耗も、すべてが自分から彼へと吸い取られ、散々利用されてきただけだったと痛感した。
彼がコンビニで買い物をしているこの数秒間でさえ、自分の貴重な時間が無意味に搾取されているように思えてならなかった。
店から出てきた彼は、お気に入りのモナカのアイスクリームをバリバリと音を立てながら、ほおばっていた。そんな彼に向かって、私は「僕は長い旅に出るから、今日はショウイチさんにお別れを言いに来たんだ」と告げた。そして、「これからは自分のために時間を使いたいから、もうショウイチさんとは会わない」と静かに伝えた。
私の言葉に静かに宿る、彼への嫌悪感を感じ取ったのか、苛立った様子で「俺の友達はヤヨイだけじゃないから別にどうでもいいよ」と、興味なさげに返事をしてきた。
それは、予想通りの反応だった。彼は自分が寂しくなったり、誰かと会いたくなった時だけ、手当たり次第に色んな人に電話をかけている事は知っていた。結果的に、彼のわがままに一番頻繁に付き合わされていたのが私で、だから接点が多かっただけの話だ。
無視を決め込んでも、結局、何かの拍子に彼が悲しんでいる姿を思い浮かべてしまい、どうしても放っておけなくて、無理をして彼と会い、また嫌な気持ちを味わう。その繰り返しだった。それがもう限界だった。彼の存在を頭に思い浮かべることすら、ストレスでしかない。
彼からの連絡を無視することすらも自分にとっての負担になると感じていた。だからこそ、完全に一切の接点を断つと決意したのだ。
これを最後に、私は彼の存在を頭の中から完全に消し去る。彼という人物がこの世にいたという痕跡さえ残さないように。彼を思い出すたびに感じる自分の胸の中で渦巻いている不快感を、徹底的に取り除きたい一心だ。
「友達なんて他に幾らでも居る」と、私に興味なさそうな彼へ怒りが込み上げた。彼と再び会う事で不愉快な思いをする事は十分過ぎるほど覚悟していたし、怒りに耐えきれず怒鳴ったり言い争うくらいなら黙って去ろうと心に決めてた。それでも此処で無言のままお別れをするのは違う気がした。
彼は私を気に留めることなく、一方的に最近会った友人や知人の話を延々と語り、自分があたかも人気者であるかのように誇示していた。突然、「ヤヨイさんには、この人みたいになりたいと思えるほど尊敬している人がいる?」と尋ねてきたので、「釈迦を尊敬しているよ」と答えると、「生きてる人で」と注文をつけてきた。そこで「美輪明宏を尊敬している」と答えたが、さらに「芸能人とかじゃなくて実際に会える人で」と注文が続く。仕方なく「そういう人はいないかなぁ。いたら弟子入りしてると思う」と答えると、彼は間髪入れずに「私はいるよ」と、聞いたこともない人物の名前を出してきた。
私がその人物について詳しく尋ねると、その人物は空手部の元主将で、今もたまに連絡を取っている彼の友人だという。
「なんで今、その話をしたの?」と私が尋ねると、彼は黙り込んだ。恐らく、自分には心から尊敬できる友人がいるということを示し、自分が私よりも優れている。自分は幸せだとアピールしたかったのだろう。彼の会話は常にこんな調子だ。自分をすごい人間に見せるために相手に質問を投げかけ、自分が気持ちよく答えたい言葉を引き出すように巧妙に誘導していく。彼を『偉大な主人公』と見せかけるためだけの、退屈で自己陶酔的な演劇に付き合うのは、うんざりだった。
私が「僕たちは次元が違いすぎて意思の疎通が取れないから、会話にならない」と伝えると、彼は「次元って何だよ?この世は3次元だろ」と食ってかかってきた。そこで、「精神的な次元の話だよ。別に自分が上でショウイチさんが下だと言いたいわけじゃない。ただ、目指している場所や、大切にしているものがあまりにも違いすぎるんだ」と答えた。
彼には『思いやり』、つまり他者への気遣いが一切なく、会話はただ、相手と自分のどちらが優れているかを示し、彼自身が上に立とうとするためのものに過ぎなかった。そんな姿にうんざりし、人としての器が違いすぎると感じていた。私の目には、彼が低次元な世界に生きているように映っていたのだ。
自分の思惑通りの会話展開にならず、苛立ってる彼に最後の別れの言葉を伝えた。「普通、別れの言葉なんて言わない。不愉快な相手とは黙って離れる。でも、俺たちは10年の付き合いだ。最後に、俺が贈れる精一杯のギフトをあげようと思ったんだよ。ショウイチさんはこれからも色んな人と出会うだろう。もし、人から好かれないと感じたり、好きな相手が自分から離れていくと思ったとき、俺との会話が役立てば良いなと思ってね。」
彼は怒鳴るように、「ヤヨイさんには分からないと思うけど、君と違って私は家族と仲が良いんだ。無理してまで友達なんか作らなくても良いんだよ」と吐き捨てた。この言い回しは何度も聞いてきたものだったので、今さら腹も立たない。彼はいつも、相手を自分より劣っていると決めつけ、馬鹿にするような物言いで誹謗し、自分の優位を主張しようとする。
だが、今の私は不思議なほど穏やかな気持ちだった。彼の嫌味を聞くのも、これが最後なのだ。数分後、私たちは永遠に別れることになる——そう思うと、怒りも悲しみもなく、ただ同情と哀れみ、慈悲の心が湧いてきた。きっと彼は、この低い場所にとどまったまま、何も変わらない人生を歩んでいくのだろう。もしかしたら、死ぬまでずっとここにいるのかもしれない。そう思うと、心がどこまでも優しくなった。
低次元の世界で苦しみ、周囲から嫌われながら生きる彼。その憎まれ口が逆に私の心を穏やかにし、むしろ彼に対して温かい気持ちを抱かせ、私の心を優しくして行くのを感じた。
私は冷静に穏やかな口調で、興奮状態の彼に言った。「これが二人が言葉を交わす最後の機会になる。最後くらい、人の話を聞いたらどうだ?」
彼は一瞬びくりとし、押し黙った。さっきまで顔を真っ赤にして自己主張を捲し立てていた彼は、急に言葉を飲み込むようにしてこちらを伺った。
私は続けた。「今言ったことは初めてじゃない。これまで何度も伝えて来た。それでも、ショウイチさんは変わらなかったし、同じことを繰り返した。俺は、ショウイチさんと話すたびに不愉快な気持ちになる。特に、よく言う『ヤヨイさんには分からないと思うけど』という台詞。相手を見下して、自分が優れているとアピールするその口癖を聞くたび、自分自身もそんな言葉を誰かに言ってしまうんじゃ無いかと心配になる。それが怖いんだ。俺は、人から嫌われるような言葉を吐く人間になりたくないからね。」
すると彼は「ヤヨイさんがそう思っているだけで、自分にそんな意図はなかった」と反論した。私は彼に「相手がどう感じるかが重要なんだよ」と伝えると彼は黙って下を向いた。
