小説「和音が重なる場所」/群像/居酒屋人間ドラマ/長編②
第二話:夜の先と、重なる声
少し低くなった雲の間から、柔らかくなり始めた太陽の光が降り注ぎ、
街路樹の葉の上で揺れた。違和感をそのままに粛々と季節は移ろう。
彼女は顔を見せない。忙しいのか、違う理由があるのか。
カズネが俺をじっと見つめ、小さく鳴いた。
よく晴れた風の穏やかな昼下がり、店の裏口のカギはすでに開いている。
キッチンではミチコが仕込みをしていた。
ミチコは、この店の先代からいる仕込みメインのパートで、五十代半ばとは思えない水気の多さと、人懐こい笑顔が魅力的な人だ。付き合いは長い。
この街で俺とヤヨイの昔を知る、数少ない中のひとりだ。
裏口を入り、キッチンにいるミチコに笑顔を向ける。
「ミッちゃん、おはよう」
「おはよう、ミチコさん」
「はい、おはよう。今日は串少し多めね。あと、もつ煮も」
「うん」
ヤヨイはデニムのサロンを腰に巻き、野菜を洗い始めた。
俺は焼き場の横の冷蔵庫を開ける。
やがてキッチンから、ふたりの会話が小さく聞こえてきた。
「ミチコさん、あのね」
「ん?何?」
「この前、気になるお客さんが来て」
「へえ」
「寂しそうで……何か疲れてる感じで」
「……ふーん」
ミチコがまな板から顔を上げ、微笑む。
「ひょっとしてその人、支える側の人?」
「……昔、そうだったって」
「そう」
「今は、人生相談のコラム書いてる人」
「やっぱりね……わかるわ。私もそうだったもの」
「え?」
ヤヨイが手を止め、ミチコの顔を見た。
「昔……妹が」
「……ああ」
「背中支えてるとね、私は誰に弱音吐くの?って不安になるの」
「……うん」
「孤独になると分かっても、放り出すことも出来ないのよね」
ヤヨイは、ふう、と小さく息をついた。
「……そんな、無理して」
ミチコはまな板に視線を戻し、笑いながら言葉を重ねた。
「そういう無理をしない人は、そもそも悩まないわよ」
「……そんなんじゃ、いつか壊れちゃう」
「……癖になってるのよ。分かってても、変えられないのね」
焼き台で炭を熾しながら、俺は黙って耳を傾けた。
でも、大丈夫、とミチコは笑う。
「そういう人は、ちゃんと前に進んで行けるから」
「……え?」
「ただ、寄り添ってあげればいい」
ミチコは確信に満ちた力強い声でそう言い、小さく頷く。
「え?」
「私も……どれだけ助けられたか」
「……そう」
俺は焼き台から顔を上げ、ふうっと息をついた。
ヤヨイは俺を見つめて、少し困ったように微笑んだ。
裏口が開く音がして、コウの元気な声が響く。
ミチコがコウに笑顔を向けた。
「おはようございます!」
「おはよう、コウ。早いわね」
「はい、金曜ですし」
「いらっしゃいましたー」
ヒロミの賑やかな声とシャッターの開く音が響き、店の景色が少し明るくなる。俺は焼き台から顔を上げた。
「おはよう、ヒロミ」
ヒロミはホールを横切り、ロッカーに向かう。
やがてミチコは仕込みを終え、じゃあ、あとはよろしくね、
と軽く手を振り裏口を出て行った。
暖簾を出し、提灯に灯りをともす。
しばらくして暖簾が割れ、安定の出勤率を誇る常連客、ザキが顔を出した。
「やってる?」
「いらっしゃい、ザキ」
ザキは俺に向かって軽く手を上げ、いつもの席に腰を下ろした。
「いらっしゃい、ザキさん」
「ヒロミー!今日も無事生き延びたぞー!」
「うわ、大げさ」
ヒロミが生ビールのグラスを手にザキに笑顔を向ける。ザキがおどけてガッツポーズした。ヤヨイが何気ない感じでヒロミの顔を見る。
「ねえ、この前のお客さんさ……」
「え?」
「誰?」
ヒロミとコウが同時に振り向いた。
「ほら……あの、コラム書いてる人」
「ああ、疲れてそうだった」
「その人が、どうしたんですか?」
「……少し気になって。辛そうだったから」
「……そうですね」
「私も、ちょっと心配になった」
みんなで話をしていると、裏口からタカヤが顔を出した。
「おはようっす!」
タカヤは、有名私立大二年生のバイトだ。若さと偏差値の高さゆえの上から発言が多少鼻につくが、その素直さと笑顔は何故か憎めない。
ヤヨイがタカヤに笑顔を向ける。
「おはよう、タカヤ」
「盛り上がってますねえ、何の話すか?」
ヒロミがかいつまんでタカヤに話す。
タカヤは黙って聞いていたが、しばらくして顔を上げ、眉をひそめた。
「でもその人、そこで悩むなんて……正直甘くないすか?」
「……は?」
ヒロミが少し呆れた顔で、タカヤを見つめる。
店の空気が、一瞬止まった。
「支える側の孤独とか、マジ意味わかんないっす。
だって仕事なんでしょ?……そこ、割り切れないんすかね?」
「……おい」
俺はタカヤを見据え、少し声を波立たせた。
「タカヤ、分かったふうに言うな」
「は?……何がすか?」
面食らったような顔でタカヤが俺を見る。
俺は少しイラつき、低い声を出した。
「支えるって簡単じゃない。孤独になりやすいんだ」
「……はあ」
「本人が気づいてもそばにいる人が……ああ」
俺はタカヤを見つめて軽く首を振り、鼻で笑った。
「……言っても分かんねえか」
「……え?」
俺は言葉を切り、焼き台に視線を戻した。
ザキが少し呆れたような声を上げる。
「お前……説教なら最後まで話せよ」
「うるせえ」
「はは、タカヤ、これは事故だね」
「……ひでえ」
ヒロミが笑ってタカヤを軽く指差し、タカヤは不貞腐れた顔で鼻を鳴らす。ヤヨイが笑顔でタカヤの肩を、ポン、と叩いた。
コウはチラッと俺を見て、タカヤと顔を見合わせ小さく笑う。
俺は微かに舌打ちし、炭を見つめ息をついた。
「……そんなことしか、出来ないか」
誰に言うわけでもない言葉が漏れた。
そこから暖簾が立て続けに割れ、店の速度が上がる。
俺はふうっと息をつき、指先に集中した。
夜は更け店は徐々に速度を落とし、やがて最後の客の背中を見送る。
暖簾を仕舞い提灯の灯りを消し、俺は炭を片付け始めた。
それぞれ賑やかに片づけを終え、お疲れ様でした、と帰って行き、
裏口を出て、俺はいつもの道をヤヨイと並んで家路につく。
路地裏を抜ける風は少しだけ優しい。
空を見上げると、月がぼんやりと霞んで見えた。
眠る支度を済ませそれぞれ自室に入る。壁の向こうにヤヨイの微かな体温を感じた。俺はベッドの上で、ぼんやりと彼女のことを考える。
胸の傷が痛み深く息をつくと、そのまま目を閉じた。
薄暗い店のカウンターに、静かな空気が沈む。
目の前に、茶虎の猫がぼんやりと浮かび上がった。
俺はカズネの顔を見て、ふうっ、と息をつく。
「……お前か」
「やあ、コンドウ」
カズネは出会った頃から頻繁に俺の夢に顔を出しては語る。どうしてそんなことが出来るのかは分からないが、俺は何故かそれを自然と受け入れていた。波長が合うんだろう。それに何だか、少し懐かしい感じがする。夢の中だけで会話する時間は、俺にとって当たり前になっていた。
「……今夜は?何だ」
カズネはしっぽを一度だけ床に打ちつけ、俺を見据えた。
頭の中に、声が響く。
「あの頃だよ」
「……え?」
「そばにいた」
俺は目を細め腕を組み、猫を見つめた。
ふいに息を呑み、目を見開き低い声を出す。
「……もしかして」
「また、ひとりにするの?」
パンッと放たれた言葉が、傷に刺さる。
俺はふうっと息をつき、じっとカズネを見つめた。
カズネはしっぽをゆらゆらと揺らし、言葉を重ねる。
「怖がってるんだ」
「……何を」
「誰かに寄りかかることを……孤独を」
その言葉が胸に落ち、傷を疼かせる。
俺は低く唸り、深く息をついた。
「お前には……分かるんだな」
「聞こえた」
俺はカズネの鼻先を撫でた。カズネは俺の指を少し舐め、額を擦りつける。
「答えはいらない」
「……え?」
「少し、そばにいてあげて」
「……そばに」
「ここは和音の場所だから。いろんな音が、重なる場所」
その言葉を残して、カズネの輪郭がゆっくりと闇に溶けた。
カタン。
皿が重なる音がして目が覚めた。
キッチンから、フライパンの音と湯気の匂いがしている。
カーテンの隙間から青空の欠片が見えた。
寝室を出て、キッチンに顔を出す。
「……おはよう。サンキューな」
「おはよう……少しうなされてたよ」
ヤヨイはテーブルに卵焼きの乗った皿を運びながら、笑顔を返した。
その皿を目で追いつつ、ぼそっと呟く。
「いつもの夢を、見た」
「……カズネ?」
「思い出したよ……彼女」
ヤヨイは食卓を整えていた手を止め、一瞬息を呑んで俺を見つめた。
「……え?」
「昔、一緒にいたんだ」
「そう……」
「……話す」
顔を洗い着替えると、食卓にヤヨイと向かい合って座る。
いただきます、と手を合わせ、夢を思い返しながらポツポツと話した。
ヤヨイは小さく息を呑み、何も言わずにゆっくりと頷く。
その夜の営業中、店の速度が少し落ち着いた頃、カウンターの端でカズネがしっぽを揺らし、入口を見て立ち上がった。
暖簾が揺れ、ガラガラと引き戸が開く。
ヒロミとコウが振り返り同時に声を上げた。
「いらっしゃいませー……あ」
「……こんばんは」
そこに立っていたのは、彼女だった。
「いらっしゃい」
焼き台の前からかけた声が無意識に低くなる。
カズネが鼻を鳴らして、彼女の足元に近づいて行った。
つづく
読んで頂きありがとうございます。
スキ、コメント、フォローお待ちしてます!
お気に召しましたらサポートいただけると嬉しいです。
あなたの全てが、ワタシの創作の励みです!
創作大賞にエントリーしました。コンドウの過去編、刑事モノです。
いいなと思ったら応援しよう!
面白い物語を書いて届け続けるには、原動力が必要です。
あなたのチップは、わたしの原動力のひとつです。
本当に感謝します。ありがとう。愛してます。