小説「和音が重なる場所」/群像/居酒屋人間ドラマ/長編③
第三話:宿り木
少しだけ優しくなった風が、引き戸の隙間から入り込んだ。
彼女が俺の顔を見て、微かに微笑んだ。
その足元でカズネが小さく鳴き、体を擦りつける。
彼女は前と同じように入口でほんの一瞬迷ってから、引き戸を閉めた。
「……こんばんは」
「……そこ、空いてるよ」
カウンターの端を指差すと彼女は小さく頷き、一度店内を見まわして腰を下ろした。俺は焼き上がった串を皿に並べながら、チラッと視線を投げる。
「また、生でいいか?」
「はい、お願いします」
ヤヨイが伝票を書き、コウがグラスを用意する。
俺は焼き台の前から腕を伸ばし、皿を差し出した。
「ヒロミ、……三番。串先」
「はーい」
「コウ、冷蔵庫から豆腐出してくれ」
「はい、了解です」
コウは威勢よく返事をすると、何故か冷凍庫を開けて中を覗き込む。生ビールを注ぎながら見ていたヒロミが、ふふっと笑った。
「コウってさ、了解って言う割にイマイチ聞いてないよね」
「ひどっ!聞いてますよ」
「にしては……そこ冷凍庫だけど?」
「……あれ?」
「はいはいコウ君、ドンマイでーす」
「……う」
ヒロミは生ビールを手にホールに出る。
くすくすと笑う声が、コウの顔を赤くした。
「通常運転だな、コウ……何か安心するわ」
ザキが少しからかうように笑う。カズネは、カウンター下のいつもの場所からそのやり取りを少しだけ目を細めて見ていた。
彼女の前にヒロミが生ビールを置き、微笑む。
「どうぞ。お待たせしました」
「あ、ありがとうございます」
泡を一口飲んで、彼女は小さく息をつき、店内を見回す。
焼き台の前にいる俺と、賑やかな店内、仲良く話すヒロミとタカヤとザキ。刺し場で包丁を引くヤヨイ、ドリンクを注ぐコウ。
ひと通りそんな風景を眺め、グラスを傾けふうっと息をつくと、少し目を閉じ、心地よさそうな微笑みを浮かべた。
やがて目を開け、それからもう一度店内を眺めながらぽろっと呟いた。
「……落ち着きますね、ここ」
「そうか?」
「はい。みんな、何と言うか……自分の場所にいる感じがして」
「……なら良かった」
俺は微かに笑い返し、焼き台に視線を戻した。
彼女は安心したように肩を下げ、頬を緩ませる。指先でカウンターを愛おしそうに撫で、椅子に深く座り直した。
俺は彼女を見つめ、勤めて穏やかな声を出す。
「久し振りだな……イズミ」
「……え」
「見違えたよ」
「……気付いてたんですか」
「いや、最初分からなかった……すまん」
イズミは一瞬息を呑み、それからふふっと笑った。
「……お久し振りです。コンドウさん」
「彼女は……タマキは元気か?」
「……はい」
ヒロミが驚いた顔で、俺とイズミを交互に指差す。
「あれ?知り合いなんですか?」
「……ああ」
俺はヒロミを見て軽く頷いた。
「昔、付き合ってた彼女の……妹だ」
「え!そうなんですか!」
「ああ、もう十年以上前だがな」
「へえ」
俺はイズミに視線を戻し、曖昧に笑いかけた。
イズミも小さく笑い返し、グラスを見つめる。
焼き台に視線を戻し、指先を見つめながら少しだけあの頃を思い出す。
その頃俺は捜査一課にいた。
ある日臨場した暴行事件、その現場がタマキの自宅だった。
現場の隅で震えて涙を流すタマキの姿は、今でもはっきりと覚えている。
姉のそばにいて、と泣くイズミを振り切り、我を忘れて捜査に奔走した。
逮捕状が出た夜、イズミから姉が薬を大量に飲み搬送されたと連絡を受け、俺は病院に駆け付けた。
タマキは病院の天井をじっと見つめ、ただ静かに涙を流していた。
その目には何も映っていなかった。
俺は自分の間違いに気づき、愕然とした。
そばにいるべきだった……守れなかったうえに、ひとりにした。
イズミは姉の傍らで、何も言わずに俺を見据えた。
その目があまりに辛くて……俺は手を離した。
それから毎晩夢に見た。後悔は消えない傷となって胸の奥に沈み、カズネが最初に夢に出てきたあの夜まで、俺は傷を持て余しては泣いた。
焼き台から顔を上げふと見ると、ヤヨイは少し硬い顔をしていた。
俺はイズミに頭を下げ、声を絞り出す。
「……すまなかった」
「……え」
「俺のせいで……タマキを」
「……はい」
「お前のことも、俺は……ひとりにした」
「……もういいんです、コンドウさん」
「え?」
「終わったことですから」
俺は少し眉を上げた。イズミはグラスを傾け、ふふっと笑う。
「……そうか」
「はい」
イズミは店内を見回し一瞬ヤヨイに視線を止め、俺を見上げて微笑んだ。
「出版社、この近くなんです」
「え?」
「この前ここに来た日、たまたまコンドウさんを見かけて」
「そうだったのか」
「それで……会いたくなって」
「……くっ」
イズミの穏やかに微笑む顔を見て、俺は喉が詰まり、奥歯を噛みしめ俯く。黙り込んだ俺の背中を、ヤヨイがそっと擦った。
その感触に胸の奥から熱い塊がこみ上げ、瞼を押さえる。
俺は顔を上げ、イズミをじっと見つめた。
「……よく来てくれた」
「……え」
「ありがとう……イズミ」
イズミは一瞬息を呑み、小さく頷く。
俺は天井を見上げ、ふうっと強く息をついた。
カズネがいつもの場所から出てイズミの足元に寄り、額を擦りつける。
「あ……」
イズミは、少し屈んでカズネに手を伸ばした。
「いるだろ。勝手にいついたんだ」
少し泣いたのをごまかすように言うと、
となりでヤヨイが、ふふっと笑って俺を見上げた。
「……自分で拾ったくせに」
「……そうだったか?」
「そうよ」
イズミは、くすっと笑いカズネに視線を戻す。カズネは逃げずに、距離も測らないでただそこにいる。それが、当たり前のように。
カズネはイズミの靴先に鼻先を近づけ、それから静かに丸くなった。
ヒロミがイズミの横から空いた皿を手に取り、笑った。
「カズネ、人見知りしないんですよ」
「……え?」
「気に入った人のそばに寄って、じっとそこにいるんです」
「そうなんだ……私、好かれてんのかな?」
「うーんと、そうですね……疲れてそうな人が好きかもですね」
ヒロミが当たり前のようにそう答えると、イズミがふっ、と吹き出した。
俺は焦って、小さく手を振る。
「ヒロミ、余計なこと言うな」
「えー……だってそうじゃないですか」
ヒロミが俺の顔を見て口を尖らせた。タカヤが眉をひそめる。
「……猫に好かれるとか、正直、よく分かんないっす。
何か、合理的じゃないってか……」
「出た!合理的。好きだね、それ」
ヒロミが即座に返す。
「タカヤはさあ、よく人の気持ちを計算しようとするよね」
「だって、その方が早いし」
「早いかもだけど、雑だよ……気持ちって計算して分かるの?」
「じゃあ、どう言えばいいんすか」
「知らないけど、それこそ合理的じゃないよ」
「え?どういう意味っすか?」
「だから」
「何すか」
イズミがふっと吹き出す。ヒロミが慌てて口を押えた。
「あっ、ごめんなさい。うるさくして」
「いいの……ちょっと面白かったし」
「すみません」
ヒロミは気まずい顔で、頭を掻いた。
タカヤはまだ納得していないような顔で、黙り込む。
「そういえば、コラム、読みました」
「……え」
ヤヨイが俺の横からイズミに笑いかけた。
俺はほっと息をつき、ヒロミとタカヤに向かって払うように軽く手を振る。ふたりは一瞬顔を見合わし、その場を離れた。
イズミはヤヨイに向かって小さく頭を下げる。
「……ありがとうございます」
「言葉の選び方が優しいな、って思って」
ヤヨイが微笑む。イズミは少し視線を落とし、グラスを見つめた。
優しい、という評価に戸惑っているように見えた。
俺はチラッとイズミを見て、言葉を重ねる。
「人を突き放さない文章って、書く方はしんどいよな」
「……え?」
焼き台から顔を上げないまま続ける。
「普通は……逃げ道用意するだろ?」
イズミは、黙ってグラスを傾け、
ふいに天井を見上げて、ふう、と息をつき、ぽつり、と言った。
「……でも、何故か、辞めたいとは思わないんです」
「そうか」
「……不思議ですよね」
タカヤが俺を見て、堪え切れないように口をはさんだ。
「……でも、それって結局、自分で選んでるんすよね?」
「まあ……そうだ」
「なら、そんなに悩むこと、あるっすか?」
「……何?」
また、空気が止まる。
「自分で選んでんのに、何で悩むんすか」
「……違う」
……そういうことじゃねえんだよ。
俺は少しイラついて、タカヤを一瞬睨む。
ヒロミがこめかみを抑え、あー、と声を漏らした。
コウはタカヤの顔を何も言わず、じっと見る。
ヤヨイが、ふう、と小さく息をついた。
「選んだって……楽だとは限らないだろ」
「そうなんすか?」
「……もういい」
俺は何だかアホらしくなって途中で話を止め、大きなため息をついた。
ザキが、グラスを片手に笑う。
「店長、だから若者に最後まで教えてやれって」
「うるせえ。自分で考えろ」
タカヤは首を傾げ、コウと顔を見合わす。
「どゆこと?」
「……さあ」
コウはお手上げというようにふーっと息をついて首を振った。
ふいにカズネが顔を上げ、イズミを見上げた。イズミはカズネを見て、一瞬はっと目を見開く。そのままじっと見つめ、ふっと微笑むと深く息をついた。イズミは少し屈んでその鼻先を軽く撫で、カズネに小さく囁く。
「私……ここにいてもいい?」
微笑んだままカズネの頭を撫で、イズミは俺の顔に視線を移した。
「……また、来てもいいですか」
「ああ、もちろんだ」
イズミは少し視線を落とし、消えそうな声を出した。
「答えは……まだ出ないんですけど」
「答えなんていらないさ」
「……そうですよ」
ヤヨイがニコッと笑い、言葉を重ねる。
「いつでもいらして下さい。待ってます」
「……ありがとう」
イズミの肩が、少し安心したように下がった。
音が、重なる。
しばらく過ごした後、イズミは笑って小さく手を振り、振り返らずに帰っていった。俺は閉じた引き戸を見て、ふうっと息をつき微笑む。
カズネがいつもの場所で小さくあくびをして、くるっと丸くなった。
つづく
読んで頂きありがとうございます。
スキ、コメント、フォローお待ちしてます!
お気に召しましたらサポートいただけると嬉しいです。
あなたの全てが、ワタシの創作の励みです!
創作大賞にエントリーしました。コンドウの過去編、刑事モノです。
いいなと思ったら応援しよう!
面白い物語を書いて届け続けるには、原動力が必要です。
あなたのチップは、わたしの原動力のひとつです。
本当に感謝します。ありがとう。愛してます。