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小説「和音が重なる場所」/群像/居酒屋人間ドラマ/長編④

第四話:思い出の中の街

賑やかな店内も徐々に人が減り、少しずつ静かになっていった。
最後の客の背中を見送ると、ヤヨイがふうっと息をついて顔を上げた。

「良かったね」
「え?」
「また会えて」
「……ああ」

俺はヤヨイの顔を見て小さく頷き、引き戸を見つめて息をついた。
今、イズミと……タマキが笑えていて、本当に良かった。
それに、会いたいと思ってくれたこと、それが何よりも嬉しかった。
傷は多分ずっと消えないが、少しだけ、俺はあの頃の自分の背中を擦れた気がする。ヤヨイは俺の顔を見ると安心したように微笑んだ。

暖簾を仕舞い、提灯の灯りを消す。
コウが手元のグラスの水気を振りながら、話し出した。

「今日、何か時間が経つの早かったですね」
「中盤、バタバタしたからね。忙しいと時間経つの早いよね」

ヒロミがテーブルを拭きながら答える。
タカヤはゴミ袋を手に裏口を出た。
ヤヨイは仕込み表を手に冷蔵庫を覗き込んでいる。
俺は炭を片付けながら、いつも通り黙って耳を傾けた。
コウはグラスを片付け、焼き台を締める俺の顔を見た。

「また来ると思います?イズミさん」
「来るだろ」
「答え、はやっ」
「こういうのは、縁、だからな」

俺は手を止めずに曖昧なことを言って、曖昧に笑う。

片付けが終わり、半分下がっていたシャッターが閉まると、
俺はグラスを振った。

「お疲れさん……じゃ、一杯やるか?」

わっ、と空気が揺れ、ささやかなお疲れ会が始まる。
賑やかに笑ってグラスを手に取り、それぞれの場所に座って俺を見上げた。

「じゃ、お疲れさん」

カウンターに座り、軽くグラスを掲げる。
グラスを合わせる乾いた音が響き、お疲れさまでーす、という声が
重なった。俺はテーブルの景色を眺めながら、黙ってグラスを傾ける。
ヒロミはふふっと笑い、グラスから顔を上げた。

「今日さ、私たち、ちゃんと居場所になった気がする」
「え?どういうこと?」

コウが首を傾げた。ヒロミの声が少し大きくなる。

「もう、褒めてんの。分かんないかなー、このニュアンス」

タカヤが手を叩いてヒロミに向き直る。

「あ、それって……機能したってことっすか?」
「機能って、言い方。人にしか作れない空気ってあるでしょ」
「違うんすか?」
「……まあ、そんな感じ」

ヒロミが口を尖らせる。
そのやり取りを聞きながら、息をつきカウンターに肘をつく。
急に眠気に襲われ、少しだけ目を閉じた。音が遠ざかる。

少し薄暗くなった誰もいないカウンターに、カズネがぴょんと飛び乗り、俺を見つめる。俺はふっと息をつき、カズネの鼻先をつついた。

「……分かってたんだろ?」
「少し、意地悪だったね」

頭の中に、声が響く。

「安心してたよ」
「……なら、いい」

しっぽを一度揺らし、カズネは言葉を重ねた。

「居場所って、思い出すんだよ」

俺は面食らい、鼻で笑った。

「何だ、それ」
「答えは、そいつにしかわからないだろう?」
「……え?」

カズネは小さくあくびをすると、丸くなった。
そのまま姿が暗闇に霞んでいく。

「……ねえ」
「……ん」
「ねえ、帰るよ」

肩を揺すられ目を開けると、覗き込んでいるヤヨイの顔が見えた。

「……ああ、寝てたか」
「ちょっとね」
「すまん」
「みんなもう帰ったよ。わたし達も帰ろ」
「ああ」

俺は立ち上がり、カズネをひと撫でして灯りを落とした。
ヤヨイと一緒に静けさを取り戻した街に出て、家路につく。
月明かりが、足元に影を伸ばした。
随分と柔らかくなった夜の空気が、頬を撫でる。
ヤヨイは俺の横で、穏やかに笑っていた。

二日後。毎週日曜日は定休日だ。
リビングのソファーに座り、ぼうっとテレビを眺める。
情報番組のキャスターが、桜の開花を伝えていた。
カズネが俺の足元で小さく鳴く。いつもは店に置きっぱなしだが、定休日の前日は家に連れて帰ってくる。昼前のキッチンでヤヨイが皿を出しながら俺の顔を見た。

「……今日は何か予定ある?」
「いや、特に決めてない」
「じゃ、買い物付き合ってよ」
「ああ」

テレビを消して立ち上がり、ヤヨイの横でコーヒーをふたつ淹れ、ひとつを差し出す。ヤヨイはマグカップを受け取ると、ありがと、と小さく言って、少し遅い朝食の支度にかかった。俺はリビングのソファーに戻り、コーヒーを啜りながら窓の外を眺める。青空が眩しい。遠くから自転車のブレーキ音が聞こえた。ベランダには洗濯物がはためいている。ヤヨイが食事を作る音を聞きながら、俺はぼうっと昔を思い出した。

タマキの事件で暴走した俺は捜一から外され、機捜隊に異動した。
俺は毎日疲弊し、景色は色を失くしていた。
分駐所の近所に居酒屋があった。フラッと入ったその店は、酒も料理も特別じゃなかったが、ただ、妙に居心地が良くて、俺は癒された。
風景に色が戻り、そこはかけがえのない宿り木になった。
それが〈かずね〉の前身の居酒屋〈いこい〉だ。ミチコとはここで顔馴染になった。
ある日、仲の良かった店主、カワハラを俺は逮捕した。
大した事件じゃなかったが、カワハラは半年の実刑になった。
自分の手で大切な宿り木と人を傷つけた、また守れなかった、そう思った。この事件をきっかけに俺は止める、より、守りたいと思うようになった。
機捜では出来ない。俺は志願して、機捜から生安に異動した。
ここなら事件が起きる前に、愛しい景色と人を守れる。カワハラは出所した後、しばらくしてまた店を開けた。久し振りに見た懐かしい景色と顔。
カワハラは少し瘦せていたが元気そうだった。

「もうあんなことは、やらねえよ……こりごりだ」

そう言って笑っていた。それから数年通っていたが、ある日、カワハラに重い病気が見つかった。それを打ち明けられた時、思わず尋ねた。

「……店、どうすんだ」
「店、あんたにやるよ、コンドウさん」

突然そう言われ、冗談だろ?と笑い飛ばした。
辛いこともあったが俺は仕事が好きだった。刑事を辞めるなんて未来、その時は想像出来なかった。
時を前後して、俺の元に一件の相談が届いた。
繁華街のパブで働く女性からのもので、客の男が執拗に絡んできて不安になったと、そんな内容だった。その女性がヤヨイだ。
ヤヨイの目は傷の中にある目と同じ色をしていた。俺は何だか気になって、その件を調べ始めた。
少し調べただけでもその男、エナミの行動は明らかに異常で、俺は上司に進言して立件し、ヤヨイをすぐに保護した。
エナミは反社絡みで、人を使ってヤヨイを監視しながら、しつこく気配を残し、巧妙に姿を隠す。ヤヨイにすでに両親はなく、頼れる親戚もない。
毎日ひとりで怯えて震え、眠れない夜を過ごしているだろうに、俺の前では気丈に笑って見せた。
その、少し空回りしている強がりが、逆にとても脆く見えた。
もう二度と同じ後悔はしない。絶対守ると心に決めた。
捜査が長引くにつれ、エナミの足取りが掴めなくなった。ヤヨイの顔から徐々に笑顔が消えていく。もう時間がない。
そんな矢先、ヤヨイがエナミに拉致された。それはかろうじて未遂で済んだが、俺は打ちのめされた。
カワハラに話してヤヨイを〈いこい〉にかくまい、出来る限りそばにいるようになった。エナミは裏を搔き、ヤヨイに迫る。俺は制度に縛られて身動きが取れない。ここにいたら守れない。悩んだ挙句、俺は刑事を辞めた。
後悔はなかった。すぐにヤヨイを連れてこの街に戻った。
カワハラは入院中で、頼れる宿り木はない。ヤヨイをミチコに預けたが、これ以上はミチコも危険にさらされる。
俺はいまだ震えているヤヨイをどうしたら守り切れるか考え、ある夜、パッと思いついたことを唐突にヤヨイに言った。

「なあ……一緒に暮らそうか」

ヤヨイは意外にも驚かなかった。ただ一瞬息を呑み、俺をじっと見つめた。
静かに、穏やかに微笑み、たった一言、言葉を紡いだ。

「うん……そうだね」

俺はただ、守りたいだけだった。
その頃カワハラは退院し、体は弱り店は続けられない、店をもらってくれ、と再度俺に頭を下げた。俺はヤヨイと店を継ぐことに決めた。自然な流れだった。ヤヨイもそれが当たり前のように受け入れた。
店を開ける少し前、俺は路地裏でカズネを拾った。夢の中でしか会えなかった子猫は、店の景色に新しい色を付けた。
カワハラは全てを俺たちに叩きこむと、ありがとう、コンドウさん、そう言い残し、娘とふたりでこの街を去った。
俺は店に新しく〈かずね〉と名をつけ、愛しい景色を作り続けている。

「ごはん、出来たよ」
「……ああ、サンキュ」

ヤヨイの声に、俺は思い出から引き戻される。足元にはカズネがいた。
テーブルの上には美味そうな焼き魚と、湯気を立てる飯が並んでいた。
味噌汁の匂いが、鼻先をくすぐる。俺は食卓に着き、軽く手を合わせた。

「いただきます」
「はい、いたたきます」

しばらく黙って箸を動かす。ヤヨイがふいに手を止め、首を傾げた。

「何考えてたの?」
「ん?」
「少し、嬉しそうだったから」
「あの頃を……思い出してたんだ」
「……そう」

ヤヨイは俺の顔を見て、ふわっと微笑んだ。

「一緒にいてくれて……ありがとう」
「……ああ」

俺は視線を上げて小さく頷き、味噌汁をすすった。

ヤヨイは穏やかに微笑み、箸を動かし、時折幸せそうに目を細める。
思わずヤヨイをじっとを見つめた。

「なあに?」
「……いや」

俺は少し首を振り、ふっと微笑んだ。

翌日。俺はカズネを抱き上げ、ヤヨイと並んで店まで歩く。
暖かい日差しが降り注ぎ、少し強い風が足元を吹き抜けた。
咲き始めた桜の枝が、春の訪れを街に知らせている。

店に着いてカズネを床に下ろす。
カズネは伸びをしてカウンター下のいつもの場所で丸くなり、
俺たちは店を開ける支度に取りかかった。

また、客が来る。
荷物を降ろしコートを脱いで、食べて飲んで笑う。
少しだけ安堵して、それぞれの夜に帰っていく。

それでいい。そうして日常は続いていくんだ。

                    つづく


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