小説「和音が重なる場所」/群像/居酒屋人間ドラマ/長編
第一話:居酒屋「かずね」
浮ついた正月気分が抜け、街はため息を連れ日常に戻って行く。
空は真っ青に広がり、雲ひとつ見当たらない。
冷たい風が鋭い音を立てて街路樹の隙間を吹き抜け、人々はコートの襟を立て、足早に通りを行き交う。
シャッターは、まだ半分しか開いていない。
東京の、結構大きな繁華街の路地裏に居酒屋〈かずね〉はある。
貼り付けたように街に馴染む小さな店だ。カウンター八席と、四人掛けのテーブルが三席。俺が引き継いで六年。メインメニューは焼鳥と刺身。だが、まあ……メニューに無くても大概は出せる。気易くて、美味しくて居心地がいいと、なかなかの評判だ。
仕込み終わりの夕暮れ時、まだ五時前なのに外はもうだいぶ暗い。
炭がはぜる音と、包丁がまな板に当たる硬いリズムが店の中に響いている。俺はカウンターの内側で焼き台を整えながら、無意識に時計を見た。
「あと二十分だ」
「はいはーい」
返事をしたヤヨイは、発注書を片手に冷蔵庫を覗き込んでいる。
ヤヨイとは俺が刑事だった頃に知り合い、店を引き継いだ頃から同居している。お互い消えない傷はあるが、今は前を向いて笑う。
「発注、刺身少なめにしとくー?」
「天気悪くないし、いつも通りでいい」
「了解」
いつものやり取りで店の空気が整っていく。俺は、こういう時間が嫌いじゃない。
「コンドウさん、これ、もうちょっと切っときますか」
ネギのみじん切りが八割ほど入ったボウルを手に、顔を出したのはコウだ。地元の大学に通う二年生で、まあ、可愛いヤツだ。キッチンリーダーのくせに少し頼りない。腰のサロンの紐がまた少し緩んでいる。
「ああ、切りすぎるな」
「はい」
素直に引っ込むコウの背中を見て、ヤヨイが小さく笑った。
カウンターの端、いつもの場所に茶虎の猫が座っている。店を継いだ頃路地裏で拾ったんだが、この猫は少し変わっている。何せ最初の出会いは夢の中だった。まあ、俺にとってカズネは同士、みたいなもんだ。
俺はカズネを見て、いつものように声をかける。
「お前、今日も一番乗りだな」
カズネは瞬きひとつしない。ただ、店の奥と入口を交互に見ている。
「何か来る?」
ヤヨイがしゃがみ顔を覗き込む。
カズネは入口を見て、ひげをピンと立てた。
「いらっしゃいましたー」
ヒロミの明るい声が響く。
シャッターが全開になり、店の空気に光が差し込んだ。
ホールリーダーのヒロミは、三歳の娘がいるシンママだ。その快活さは人気で、ヒロミに会いに通ってくる常連も多い。
「おはよう、ヒロミ。ヒラリちゃん、保育園ぐずらなかった?」
ヤヨイが笑顔を向ける。
「先生に、成長早いですねって言われました」
「それ、毎回言われてない?」
「はは、気のせいです」
ヒロミとヤヨイの軽口が飛び交い、店はいつもの夜に向かって動き出した。
暖簾を出し提灯に灯りをともす。
最初の客は、毎日のように見る馴染の顔だ。
お約束の賑やかなやり取りと、笑顔。
「やってる?」
「いらっしゃい、ザキさん。いつもの?」
「おう、ヒロミ、久し振り」
「もう、昨日も会ったじゃない」
「はは、そうか」
「シンさんも、いらっしゃい」
「……どうも」
ヒロミがザキの後ろにいるシンに笑顔を向けると、シンはどことなく嬉しそうに笑い返しわずかに首を下げた。
カウンターのいつもの席に生ビールが置かれ、やがて愚痴が始まる。
仕事の話、部下の話。分かり合えない話。
俺はその話を聞き流しつつ時々拾って口をはさんだ。たまに説教じみる俺の癖も笑って受け入れる、ザキはそんな、付き合いの長い友人だ。
暖簾がふわっと揺れる。引き戸の向こうで影が揺れ、女性が少し俯いて入ってきた。手を止め、目を細めて女性の顔を見つめる。胸の内が騒いだ。
……あれ、どこかで。
「……いらっしゃい」
「……ひとりですけど」
「ああ……どうぞ」
彼女は、コートを脱ぎながら店を一度見回した。探しているものがあるようで、ないような目。カウンターの端に座り、俺の横に立つヤヨイに微かな笑顔を向けた。
「生、ください」
「はい」
ヤヨイが頷き、コウがグラスを用意する。
俺は煙の向こうからじっと彼女を見つめた。ヤヨイが俺の腕をつつき、首を傾げる。
「ねえ」
「何だ」
「……知ってる人?」
「いや……」
「……変なの」
ヤヨイに曖昧な笑いを返す。生ビールを差し出しながらヤヨイが、彼女に笑顔を向けた。
「いらっしゃいませ……今日は寒かったですね」
「……ええ」
そのやり取りに彼女の肩が少し下がる。
俺は軽く首を振り、彼女に笑いかけた。
「仕事帰り?」
「……え」
初対面でも俺の口調が気易いのはいつものことだ。
彼女は一瞬ひるんだが、すぐに笑顔を返してきた。
「はい……原稿、出してきました」
「ほう」
「締切日……なんで」
その言い方が、どこか辛そうな笑いを含んでいる。
「なあなあ、お姉さん」
ザキがすぐに絡んだ。俺は黙って焼き台に視線を戻し、会話に耳を傾けた。彼女は雑誌でコラムの連載をしている、と話した。同世代の女性に向けた人生相談みたいなものらしい。迷い立ち止まる人の背中を押し、支える言葉。
カウンター下のいつもの場所で、カズネのしっぽがゆらり、と揺れる。
ザキは頷きながら聞いていたが、ふと息をついて、言葉を重ねた。
「大変だな、それ……答えなきゃいけないんだろ?」
「答えは……」
彼女はグラスを見つめたまま、小さく息をつく。
「出してるようで、出してないです」
「どういうこと?」
「……その人が選びやすい言葉を、並べてるだけ」
……この声、誰かに似てる。
俺は違和感の正体がつかめず、少しイラつき舌打ちを漏らす。ヤヨイが一瞬眉をひそめて、じろっと俺を見上げた。少しだけ、店の空気が沈む。
シンがザキの肩越しに身を乗り出した。
「それ、前に進めるの?所詮は都合のいい言葉じゃない?」
「分からないです」
彼女は少し首を振り、息をつく。
「背中を押せてるのか、自分も進んでるのか……迷います」
「進んでるだろ」
「……え?」
俺は焼き台から顔を上げず、チラッと視線だけ投げた。
彼女の眉が微かに上がる。
「迷ってる自覚があるうちは、進んでる」
「……あ」
「迷ってないふりしてる人の方が……止まってるんじゃないか?」
彼女は俺の顔を見つめ、少し眉を潜ませた。その目を見た瞬間、思いがけず胸の内の傷が疼き、俺は思わず目を逸らす。その時カズネが、カウンターに飛び乗り彼女のグラスの横で丸くなった。彼女は何故か懐かしむような目をして、微笑む。
「……猫」
「そいつは迷わない」
「え?」
俺は少し気まずい顔で、低い声を出した。
「腹減ったら動く、行きたい所に行って、眠くなったら寝る」
「……名前何ていうんですか?」
「カズネ」
「……カズネ」
「この店と、同じ名だ」
彼女はカズネを見つめ、ふっと息をつく。黙って聞いていたコウが、ぽつりと呟いた。
「いいなカズネ……楽で」
「……楽じゃない日もあるだろ」
「え?」
「ただ生きるって……意外と難しいからな」
俺は視線をカズネからコウに移し微かに笑う。ヤヨイがふと俺を見上げた。
俺は焼き台に視線を移す。彼女は一瞬俺に視線を投げ、すぐにカズネに戻した。何故かその表情が少し曇る。俺は串を返す指を止め、視界の隅の気配に意識を集中した。ヤヨイは俺から視線を彼女に移し、じっと見つめる。
やがて彼女はポツリ、と言葉を漏らした。
「……答え、出そうにありませんね」
ヤヨイは彼女を見たまま、穏やかに笑いかける。
「……答えのない夜だって、あるんじゃないですか?」
彼女はヤヨイを見て一瞬目を伏せ、ぎゅっと唇を引き結んだ。俺は焼き台から顔を上げ、無意識に目を細める。
……この表情の癖、誰だ。
傍らでは、常連ふたりとヒロミの楽しげな笑い声がしていた。
会計を済ませ、ごちそうさまでした、また来ます、そう言い残して彼女は席を立つ。ガラガラと引き戸が開き、刺すように冷たい風が入り込んだ。
後ろ手で閉じられた引き戸の外で少し立ち止まる気配がして、やがて足音が遠ざかる。
……そういえば、名前を聞いてなかった。
俺は引き戸を見つめ、息をついた。ヤヨイは何も言わなかった。
ザキとシンが、ごちそうさん、もう来ないよー、とお決まりのセリフ残して帰り、しばらくして最後の客の背中を見送る。
暖簾を仕舞い、提灯の灯りを消す。
俺は何だか急に疲れてコールドテーブルに手をつき、深く息をついた。
ヤヨイが刺し場のまな板を洗いながら、俺を見上げる。
「……疲れた?」
「いや……大丈夫だ」
「...…そう」
ヤヨイは何故か少し寂しそうに微笑み、蛇口をひねった。水音が止まる。
そのままテーブルダスターを手にホールへ出て行った。
俺は顔を上げふっと強く息をつく。キッチンから笑い声が響いた。
ヒロミとコウは片付けの最中もやかましい。
俺は舌打ちをして、奥に声を飛ばした。
「賄い、あるからな」
「はーい、ありがとうございまーす!」
調子のいいヒロミの声がして、止みそうにないやかましさは続く。
……コイツら、まだ喋り足りないのか。
俺はふっと鼻で笑い、焼き台に視線を移す。炭を片付ける俺の前で、ヤヨイがカウンターを拭きながら呟いた。
「さっきの人、何か思い詰めてるみたいだった……無理しなきゃいいね」
「……そうだな」
俺は手を止めずに相槌を返す。ヤヨイは手を止め、俺をじっと見つめたまま静かに言葉を重ねる。カズネがカウンターに飛び乗り、小さく鳴いた。
「ねえ……あの人、誰なの?」
「……え?」
「知り合いなんでしょう?」
「……いや」
ヤヨイと目が合い、慌てて逸らした。そのままカズネの横顔を見つめ小さく首を振る。
ヤヨイは少しだけ息を呑み早足にホールの奥に消えた。
胸の傷が、微かに痛む。
カズネは入口と俺の顔を一度ずつ見て大きなあくびをすると、カウンターを下り、視界から消えた。
俺は焼き台に視線を戻し、ぎゅっと手を握りしめた。
つづく
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