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鏡の揺らぎの共犯者 07|第六章 絲との共犯

鏡の表と裏の回 ──三年前

第六章 絲(いと)との共犯



言葉は、ひとりでは生まれない。
そのことを、私はずっと知らなかった。



つま恋から帰った夜、
頭の中が、ぼんやりしていた。

何か大切なものを
受け取ってきた気がする。

でも、
それをまだ、形にできない。

そのもどかしさだけが、
胸の奥に、静かに残っていた。

数日後、スタッフと話す機会があった。
何を話すか、決めていたわけではなかった。

ただ、うまく言えないままでも、
誰かに渡してみたかった。

「みんな、フェスで自分なりの楽しみ方を
してたけど、なんか同じ方を向いてた気がして」

たどたどしく、話した。

話しながら、自分でも
何を言いたいのか、よく分からなかった。

でも、スタッフは黙って聞いていた。

「分かります」とも
「分かりません」とも言わなかった。

ただ、聞いていた。

しばらく、間があった。

怖い沈黙ではなかった。

誰かの中で、何かが結ばれるのを
待っているような、
やわらかい沈黙だった。

その沈黙の中に、まだ名前のないものが、
ひとつ浮かんでいた。

やがて、ひとりが、ぽつりと言った。

「お客様が鏡を見て、
あ、なんか変わった、って思える。
あの瞬間ですかね」

空気が静かに変わった。

スタッフは少し考えてから、続けた。

「自分史上最高の、って感じですよね。
お客様にとっての」


その言葉を聞いたとき、
胸の中に、灯りがひとつ、ともった。



自分史上最高の髪に、出会う体験。




これが、コンセプトになった。


スタッフが、私のたどたどしい話を
聞きながら、自分の中から
見つけてきてくれた言葉だった。

ありがとう、というのも少し違う。

すごい、というのも足りない。
ただ、その言葉を
口の中で何度も転がしていた。

転がすたびに、
胸の奥へ、静かに沈んでいく。

髪をきれいにすること。

鏡を見るのが、少し楽しみになること。
お客様が、自分をもう一度好きになること。

その言葉の中には、
私がずっと探していたものが、
ちゃんと入っていた。



コンセプトとは、
正しい言葉を見つけることではない。

一緒に信じられる言葉を、見つける事だった。



コンセプトが決まってから、
店の言葉は、少しずつ変わっていった。

「この商品、すすめた方がいいかな」

ではなく、

「この人にとっての、
自分史上最高って、何だろう」

そんなふうにスタッフが考えるようになった。
声が大きくなったわけでもない。
売り込みが上手くなったわけでもない。

でも、鏡の前で交わされる言葉が、
少しだけ深くなった。

「前より、乾燥しにくくなりましたね」

短い言葉だった。

けれど、その短さの中に、
ちゃんとお客様の未来が入っていた。

ある日、ひとりのスタッフが
小さなノートに何かを書き込んでいた。

「何、書いてるの?」

少し照れたように、見せてくれた。

それは、お客様ひとりひとりの
髪の記録だった。

前回どんなメニューをしたか。
そのとき、髪がどんな状態だったか。

お客様が何を気にしていたか。

次回までに、何が必要そうか。

——そこまで
考えてくれていたんだ。

その「そこまで」の重みを、
私はそのとき、初めて知った。


私はずっと、自分が引っ張らなくては
いけないと思っていた。

肩に力を入れて、
先を見て、
方向を示す。

それが、経営者というものだと
信じていた。

でも、本当は、違ったのだ。
スタッフは、もう見ていた。

お客様の髪を。
お客様の表情を。
お客様が、鏡を見る一瞬を。
私よりも、ずっと近くで。


ある日の帰り際、
ひとりのお客様が
鏡を見ながら言った。

「ここに来ると、ほんとに、
きれいになれる気がする」

お世辞ではなかった。
社交辞令でもなかった。

ただ感じたことが、
そのまま口からこぼれたような言葉だった。

押しつけたわけではない。
宣伝したわけでもない。

ただ、スタッフが
そのコンセプトを信じていた。

その信じる力が、
お客様にも、自然に伝わっていた。

縦の絲と、横の絲が
織り重なるように。

スタッフとお客様のあいだに、
言葉では説明できない、
でも確かにある空気が生まれていた。

年末、パソコンを開いた。
630万円という数字が、そこにあった。

しばらく、動けなかった。

数字の向こうに、スタッフの顔が見えた。

あの日の言葉も、
小さなノートも、
お客様の笑った顔も、
ぜんぶ、そこに重なっていた。

私はずっと、
ひとりで織ろうとしていたのかもしれない。

強い縦の絲を張れば、
店は前に進むと思っていた。

でも、ひとりでは、織れなかった。

縦の絲だけでは、
布にはならない。

横の絲が、必要だった。



スタッフの言葉。
スタッフの気づき。

スタッフが、お客様のそばで
受け取ってきたもの。

その横の絲が重なって、
初めて、店の景色は変わっていく。

スタッフはずっと、
横の絲を用意してくれていた。


閉店後、スタッフと話していた。

明日のお客様のこと。

最近、髪が扱いやすくなったと
笑ってくれたお客様のこと。

そういう、いつもの会話だった。

そのとき、ふと思った。
——私は、いま、ひとりじゃない。

ことばは、ひとりでは生まれない。

うまく言えないまま渡したものを、
誰かが言葉にしてくれる。

受け取った誰かが、
自分の言葉で返してくれる。

その言葉が、また誰かを、変えていく。

そして、お客様の表情を変えていく。


〔共犯メモ〕 絲を、織り重ねるために

・完成した答えを、持って行かなくていい。
「うまく言えないけど」と前置きして、
そのまま渡してみる。受け取った人の中から、
言葉が出てくる。

・コンセプトは、ひとりで決めるものではない。
リーダーの仕事は、正解を出すことではなく、
黙って、待つこと。
その沈黙の中から、言葉は出てくる。

・言葉が灯ると、細部が変わる。
「どう売るか」より「この人にとって何か」。
その問いひとつで、現場の言葉は、
少しずつ深くなっていく。



第七章 「ことば」との共犯

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