鏡の揺らぎの共犯者 04|第三章 場の空気との共犯

第三章 場の空気との共犯
黙って、待つことを覚えた。
店の空気は、そうやって戻ってくる。
以前の私はミーティングのたびに、
スタッフの顔を見られなくなっていた。
グラフを広げる。
目標との差を読み上げる。
「来月は巻き返そう」と言う。
言いながら、
誰の顔も見ていなかった。
見たくなかったのだと思う。
数字を追わせているのは私だ。
疲れているのは、私のせいだ。
そう思うと、顔が見られなかった。
ある夜、一人で店を閉めた。
鏡を拭きながら、
ふと手が止まった。
鏡の中の自分が、私を見ていた。
売上を持ってくる経営者の顔ではなかった。
何かに追われている人間の顔だった。
私は、何を売らせようとしているのだろう。
スタッフに、何を背負わせているのだろう。
答えは出なかった。
机に座る。
引き出しを開けた。
売上の表。
目標シート。
進捗グラフ。
一枚ずつ、しまった。
紙のすれる音だけが、
店に残った。
捨てたわけではない。
見なくなったわけでもない。
ただ、スタッフの目に
最初に入る場所から、下ろした。
その夜は眠れなかった。
布団の中で、スタッフの顔が
ひとりずつ浮かんだ。
家族がいる。
これから家を建てる。
子どもが小さい。
その人たちの生活が、
私の判断の上に乗っていた。
寝返りを打った。
天井の闇が、近かった。
誰のせいにも、できなかった。
明け方、ようやく眠ったとき、
夢は見なかった。
翌朝、私はいつものように店を開けた。
タオルを畳む。
鏡を拭く。
シャンプー台に湯を流す。
何も、変わらなかった。
それなのに、
鍵を握る手は、少しだけ重かった。
その週のミーティングがはじまる。
やり方を変えた。
テーブルの上には、
コーヒーだけを置いた。
スタッフたちは、黙っていた。
私も、黙っていた。
窓の外で、車が一台、通り過ぎた。
「最近、どう」
そう聞いた。
私の声だけが、少し浮いていた。
しばらく誰も答えなかった。
ひとりが、コーヒーをひとくち飲んだ。
「この前のお客様、
髪が落ち着いたって、笑ってくれて」
別のひとりが、うなずいた。
「私のお客様も、
最近よく話してくれるようになって」
それだけだった。
売上の話は、誰もしなかった。
私もしなかった。
胸の奥で、何かが静かに外れた音がした。
机の引き出しを、閉めた夜
私がしまったのは、紙だけではなかった。
長いあいだ握りしめていた問いを
そこに置いてきた。
夜、一人になると
その問いがまた戻ってくる。
このままで、いいのだろうか。
そう思いながら、
いくつもの夜をやり過ごしてきた。
でもその夜、問いがひとりでに
やわらかくなった。
何のために、売るのか。
答えは、なかった。
今は、それでよかった。
その日から、私は待つことにした。
ただ、毎日、店を開ける。
タオルを畳む。
鏡を拭く。
スタッフの「おはようございます」を、
ちゃんと聞く。
それだけを、続けた。
二週間が経った頃、
ドアの前で、ふと立ち止まった。
何かが、違った。
ドアを開けると、
ひとりのスタッフが、もう来ていた。
「おはようございます」
その声が、少しだけ、やわらかい。
その日のミーティングで、
別のスタッフがこんな話をした。
「昨日のお客様、息子さんが
受験で、って話してくれて。
ちょっと長く話してました」
売上の話ではなかった。
お客様の、家族の話だった。
スタッフが、それを、自分から話していた。
それから、少しずつ、店が変わった。
朝の挨拶が、やわらかくなった。
ミーティングの沈黙が、怖くなくなった。
お客様の名前が、売上表より
先に、会話に出るようになった。
帰り際、お客様が言うようになった。
「また来ますね」ではなく、
「また話、聞いてね」と。
数字を下ろした店に、
あたたかい空気が、少しずつ戻ってきていた。
それは、私が作ったものではなかった。
スタッフが、お客様と一緒に、
ゆっくり戻してくれたものだった。
ある夜、最後に鏡を拭いていた。
鏡の中の自分は、
あの夜とは、少しだけ違う顔をしていた。
疲れは、変わらない。
売上も、まだ大きくは変わっていない。
けれど、
何かに追われている顔は、していなかった。
その夜の私は、まだ、何も知らなかった。
ただ、鏡を拭いて、
店を閉めた。
〔共犯メモ〕 場の空気との共犯
・あの朝、私はコーヒーだけをテーブルに
持っていった。
売上の表も、目標シートも、置かなかった。
それだけで、空気が変わる。
・問いを変える。
問いが変わると、スタッフは数字ではなく、
人を見る。
・変化は、目に見えない場所から始まる。
まずは、待つ人になる。
言葉にしなくても、その違いはかならず伝わる。
