【短編小説】温めホテリエはじめました
私は自分を解剖した事がないから、今食している美味い冷やし中華が何処へ行くのか知り得ない。喉を通って食道を経由し胃袋へ行くというのは知っているけれど、冷やし中華が私の喉を介して『冷やし中華界』に入門するかもしれないじゃない。それを誰も証明出来ないの。
だから、知らない。
見たことがないものは、知らないのと同じ。
いないとは、死だ。
「外科医がいれば知ることは可能です。胃袋をズバッと開ければそこに冷やし中華が存在してるって証明できますよね。どうしてメシア先輩は外科医の存在を勝手にこの町から消してるんですか? 頑張って日々お仕事されてる外科医の方々に失礼だと思わないんですか?」
説教の導入として語った筈の例え話にマジなニュアンスのレスポンスを返してくるのは見習いホテリエのシャカリン・ハーマインだった。シャカリン・ハーマイン――ハタチ。女性。慇懃無礼。私との付き合いは五年。後は勝手に想像して。
「だけども、外科医には私の身体を解剖できないよ。メスで金属のお腹は裂けない」
私がカカシという身分なりに考えてみた小粋な冗談を打ち返すと、シャカリンは「じゃあ先輩にはそもそもの話、胃袋無いじゃないですか。はなから前提がですねぇ」と気の抜けたヘロヘロ声でカップ麺を雑に啜る。こちらにまで届いてくるくらい味の濃そうな醤油味のスープをごくごくと胃に収めていくその仕草、大変汚い。新人とはいえ妙齢のホテリエがしていい所作ではなく、もう一度叱るかと一瞬考えたが、しかし私はシャカリンの反論にも一理あるねと考えてしまった。
この町に生きる私のようなカカシという人にそっくりなロボットの種族を、ヒト用の外科医達は決して解剖出来ないだろう。メスでお腹は裂けないし心電図に鼓動が表示されることもないし、ということはつまり私の出した例えが悪かった。私は幾重にも重なったシャカリンのホテリエとしての仕事上のミスに対して、それはもう本当にウンザリしてしまって「それらの小さなミス共が今後どんな影響を連鎖的に及ぼすか、もっとしっかり考えて」という指導に繋げたかったのである。喉を越えた後の冷やし中華と同じように、行方が分からないモノは、行った先の未知なる新天地でどんな変容を遂げるか知ったものではない。私は私の目の届く範囲は思い通りにならないと、そうでないと気が済まないものである。
これと言って全く面白くない雑談が一段落すると、口が寂しかったのか、シャカリンはカップラーメンをちゅるちゅる食べながら私たちの目の前に広がる馴染み深いホテル屋上からの光景を無惨に扱き下ろし始めた。
「相変わらずヤな景色ですね。『見習い』になる前からずっと。露天風呂の名が泣きますよ」
二人で並べた四本の脚をぶらぶらさせて、今日の日中の業務を労い合う――毎夜の休憩時間の恒例行事。機械の私にとってあまり脚を温める必要性はないが、こういうものはやること自体に意味がある。ホテル屋上露天風呂での足湯休憩は私とシャカリンの日常だった。
じゃぶじゃぶだよ。
「『ヒツジ楼』を侮辱するのは許さないよ。そしてそこの所属ホテリエが堂々と上司にそれを愚痴るのもね。本日のミス、更に一個追加」
「今日は何個になったんですか」
「二から先は数えてない」
「カカシのクセして大雑把すぎます」
ハイ、カカシ差別ーッ。
私は自分の頭に付いている、古典的な目覚まし時計のようなベルを中指でチーンと鳴らした。一見して犬の耳のように目立つ私のチャームポイントだ。これはタリメシア・拝電という個体に生まれつきカスタマイズ済みのもので、ヒトで言うホクロに近似する。私は相手に何か言い聞かせようとするとき、必ずこの仕草をしてしまう――それはプログラムに刻み込まれた変えようのない癖だった。
ハイ、ドシガターッ。
度し難いという意味ね。
「私は好きですけどね? 一周回って、愛着がありますよ。欠点ある方が、人もホテルも可愛いです」
「欠点なんて、無くせるならその方が凄いと思うけど」
「分かってませんねぇ。完璧過ぎたら、怖いだけです。違和感のほうがデカくなっちゃって、理解できない存在になっちゃいそうで」
「……そうかな。理解できないのかな」
「あ、いや、メシア先輩のことを揶揄した訳ではなくて」
私は完璧な女だからね。若干にして傷つく心理もプログラムとして持ち合わせている。
ただ、正確には、そう見えるようニンゲンの前で演技をするプログラムかな。
キミ。私のこと、怖いか?
「まぁ、怖いですよ。でも憧れる怖さです」
「そう」
九階建て、ゴシック風、シングルルーム一泊六千信の当ホテル『ヒツジ楼』の規模はコンパクトで、すぐ側をここの二倍も三倍も高いビルに全方位を囲まれているから、屋上露天風呂の唯一の売りになるはずだったポイントは建設当時から死んでいる。ヒツジ楼の屋上から身を乗り出せば向こうのビルに手のひらがつくと言えば、皆驚く。四方がそれだ。馬鹿げているが本当である。
景観を取り締まるそういう法律は拝電町にはないし、この条件の悪さによって安くなった価格に目が眩んで私はこんなボロっちいビルを買った。目が眩んだというのは、正しい表現だ――開業当初の私に潤沢な資金なんてものはなかった。私はゼロから一人で作り上げてきた『ヒツジ楼』を何よりも愛しているし、そういう訳で、ふざけた立地くらいで今更目くじらを立てたりもしない。個性だ、個性なのよ。ちょっと好待遇な囚人気分を味わえるかもと躊躇を振り切って思い切って一度そういう方向性で宣伝したが、むしろ客室稼働は下落の一途を辿った。結論、二ヶ月に一度の客が三ヶ月に一度になっただけだった。
今だって誰も宿泊していない夜を、こうして最近唯一の部下になったシャカリンと過ごしている――本当はこの時間は、冷やし中華を食べているんじゃなくて、エレベーターの操作パネルを拭いている予定だったのに。
「シャカリンは、怖くなりたいの?」
「どうでしょう。『凄い』と『怖い』は似てると思うんですけど、『怖い』は『理解できない』ってことでもある気がしてて。私『理解できない』人にはなりたくないですけど、『凄く』はなりたいです。良いとこ取りの合体を求めます!」
「求めるって何さ。じゃあ、なんにせよ努力しないと」
「うえー努力かぁー。努力したら、凄いんだけど、理解もできる、怖い人になれますかね」
「そうなりたいって考え続けてたら、多分なれるんだと思うよ。考えるってことは、未来のレールを敷くってことだ。それも努力の一つだろうね」
「努力ぅー……未来ぃー、合体ぃー……」
夏の蒸し暑い空気と露天風呂の湯気が混じって、私たちの間に妙な空気が流れた。詰まっているような、ぼうっとするような。私は気持ちの悪い熱気に当てられたそのまま、今朝のシャカリンの発言を思い出していた。
「――夏こそ、露天と、冷やし中華でしょう」
「どこから出てどこへ行くのかな、キミの思い付きは」
「合体させるんですよ。今日の夜、やりましょう!」
朝、仕事始め直後のシャカリンが叫んだ提案を拒否するのは容易かった。私はしっかりと自分を持った「考えられる」カカシだから――たかが人間一人の愚かな奇行に付き合ってやる義理はない。しかし「どうしても」とシャカリンがごねた。普段はあまり無理を通さない子なのにと困惑し、それから私は搭載された優秀な頭脳でぐるぐる考えた。毎日毎日、客も来ず、予約も入らず、問い合わせの電話一つ鳴らない――同じルーチンワークの事務作業をこなすだけの有能で最強のホテリエとして無為で無駄で無茶な最低の、心躍らない世界。起こすお客様の存在しない、朝の来ない眠れるホテル『ヒツジ楼』――シャカリンのような人間なら、心が壊れたっておかしくはない。彼女はもしや、そんな代わり映えの無い生活に、人間の取り柄である素晴らしく豊かな心を腐らせて。
「――放っておけない。従業員の疲労はホテルの疲労!」
そこで私だ。私は優秀なホテリエカカシ。私なら、冷やし中華たった一食だけでシャカリンの気持ちをリフレッシュさせられる可能性がある。私はゲストのためなら何でも出来るし、出来て当然だし、そのために生まれたと確信しているし、だから今を生きている。
私は、私の生き方の証明をしたいと考えた。
それは単純な、機械特有の極端な行動原理に見えるのかもしれない。違います。これは私が私でしっかり考えた上での結論である。誰にも私のナイスアイデアを否定させたりしない。私は考えうる限り最も美味しい冷やし中華を考えて、盛り付けや調理手順も綿密に考えて、至高の一品を作り上げてから、高級ラップをかけ、事務所にある小さな冷蔵庫でそれをキンと冷やしておいた。
夜休憩時、しばらく屋上で待って、あろうことかシャカリンは蓋がついたままのカップ麺と割り箸を持参してのこのこと現れた。私はとびきりに張り切った冷やし中華を抱えたまましばらく何も言えなかった。
ハイ、絶許ーッ。
「まさか本当に作ってくるとは思いませんでした……言ってみるもんですね」
「私に出来ないことなんてない」
「代役に出張ってもらったラーメンを二人で半分こしようと思ってたんですけど」
「うん。この優秀な私を無駄に働かせた罰として、このミシュランレベルの絶品は私が、私だけが、頂くよ」
「……私もいつか、メシア先輩みたいに凄いホテリエになれますかね」
「たかが冷やし中華如きでそれを感じられても、困るけど」
今はミスだらけでも、サボり癖が酷くても、先輩に対する態度がなってなくても、未来、シャカリンはきっと素晴らしいホテリエになれる。怠けず、努力を続けていれば必ず。人間とはそういう生き物だ。カカシは時間を重ねてもあまり性質が変わらないけど、ヒトは学習によって目まぐるしい速度で変化することが出来る。学んだ記憶を定着させるために、何度も寝て起きてを繰り返す。
人類は昔からずっと、どんな奴だって寝て起きてを反復し学習してきた――眠れない私とは、決定的に異なる存在である。シャカリンはこれで夜更かしをせず、早寝早起きを欠かさないのだ。私がこっそり確認しに毎夜彼女の部屋に入っているから間違いない。
「凄いホテリエ、か。なれる気がしないな……えっと、だからですね、新天地を求めて、転職、実は考えてまして」
「寝言は寝室で言いなさい」
「いや、言ってませんよ」
「はい? 言ったじゃないか」
「言ってません。考えてるだけです」
「どういうこと。キミは何を言ってるの」
「言ったことにしたら、間髪入れず、有無を言わさず、本当になっちゃうかもしれないじゃないですか。言霊ってやつです。だから、今は考えてるだけなんです」
「それは、ただの言葉選びの範疇なんじゃないの?」
考えること。考えられること。
それは誰もが軽視する、凄く不思議な力。
そんな素敵な魔法を睡眠如きで途切れさせるなど、なんて勿体ないのだろう。
ヒトとは損な生き物だね。
思考は私を別の世界へ連れて羽ばたいてくれる。
「……ん。ラッキー。当たりました」
「当たり?」
「これです。当たり付きラーメン『ないとめあ』。おんなじ醤油ラーメン、タダで二杯分」
塩分が凝縮された醤油スープが丸ごと飲み干されたカップラーメンの底には、無駄に大仰な書体で『2』と印字されている。
「最大『100』まであるんですよ。私は『11』までしか当てたことないんですけどね……先輩にも、今度買ってあげます。勝負しましょ。私がヒツジ楼を旅立つまでに、どっちがより多くの『タダないとめあ』にありつけるか」
さっきまでの話題なんて忘れたかのように、にへらと首を傾げて笑うシャカリンを前に、私は頭のアラームをつついて可愛い音を鳴らし、四方に聳えるビル壁面に叩きつける気持ちで溜息を出す。
言えば、言霊で現実になるかもと彼女は言った。
だから「旅立つこと」も「『タダないとめあ』勝負」も現実の未来だと言い張る気である。
「私の言ってること、理解りましたか?」
まったく、理解できないな。
ニンゲンとは怖い種族だ。
「今すぐその低俗なラーメンのリピーターをやめなさい」
阿呆ほど――阿呆すぎて阿呆梅なほど――詰まらないジャンクフードに私が調理した冷やし中華が負けたことが無茶苦茶に悔しいのだけれど、そんなことで今彼女にアーダコーダ文句を言っても仕方がないので、だから未来の看板ホテリエの健康を害するという名目で、今度製造メーカーにホテル支配人の名義からクレーム電話を入れて溜飲を下げようと思った。
寝苦しい暑さの夜が更けていき、冷やし中華は腹の中で温まり、脚元も風呂で温もったから、そろそろ乾いたタオルと、脱いでいた室内用ヒールの出番だった。
