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【小説・ヴィーナス症候群】(114)転職のオファーはドバイで乞食

第1章 24時間働けますか

大学四年の春、舘合翠(たてあい・みどり)は、誰よりも早く内定を決めた。
しかも、鎮貪舎(ちんどんしゃ)。
言わずと知れた、就活偏差値の頂点に位置する大手広告代理店だ。

ゼミの友人たちは、驚きと羨望を隠そうともしなかった。

「すごいね、鎮貪舎なんて」
「東京中央銀行とか初芝電産並みの勝ち組じゃん」

そんな声に、翠はただ笑って頷いた。
生まれつき両腕のないヴィーナス児──
だが、義手を使えば大抵の事務作業はこなせたし、知能も学力も一般社員と変わらなかった。

障害者採用枠であっても、戦力になりうることを証明したかった。
そして、それを企業も望んでいた。

翠は心から思っていた。

──私は特別なんだ。
──私は、勝ったんだ。

あの頃は、何も知らなかった。

社会に出て、舘合翠が配属されたのは、庶務課だった。

備品の手配、社内便の仕分け、会議室の予約管理。
誰かが求める前に、そっと手を差し出す仕事。
給料は悪くなかった。
安定もしていた。
けれど、心の奥にはいつも、言葉にならない違和感が燻っていた。

──こんなはずじゃなかった。

翠は日々、辟易していた。

直属の係長、西松。
ふとした拍子に「ウンコ……チンポ……」と小声で呟き、
会議室へ備品を届ける途中で、ふらふらと違うフロアへ迷い込んでしまう。

課長に真顔で注意される光景も、もはや日常だった。

「会社に来るときはちゃんと服を着てください」
「エロ本読んでシコるのはおうちでやってください」

それは、社会人以前、人として最低限のマナーすら守れていないことへの指摘だった。
西松は素直に頷き、そして翌日にはまた同じことを繰り返した。
翠自身が障害者採用でこの会社に入ったように、この西松さんも発達か知的か、そっち系の障害者採用なのかもしれない。
翠はそう思うことにした。

当然、庶務の雑務はまともに回らず、翠が陰で尻拭いをしていた。
書類の仕分け、備品の管理、会議室の調整。
金属義手の指先で、静かにミスをカバーしていく毎日だった。

──何で、あんな人がこの会社に入って係長になれるんだろう。

素朴な疑問が、ふと心に浮かんだ。

そんなある日。
給湯スペースで湯を注いでいると、背後から庶務課のおばさんたちの小声が聞こえてきた。

「あの係長、ああ見えてね、都立小日向から東大の経済学部出て、うちに入ったんだってさ」

翠は思わず振り返った。

「都立小日向って、あの小日向高校ですか!?」

声が少し上ずった。
翠自身も、同じ第4学区の音羽高校出身だった。
小日向高校は、23区の北西側の高校受験生なら誰もが憧れる存在であり、「旧制小日向中学」であった戦前から錚々たる卒業生を輩出してきた。
対米外交の第一人者として駐米大使を務めた国沢幸太郎、東大総長を経て文部科学大臣に就任した花房信一、そして芥川賞作家の西川咲子──代表作『少女たちの四季報』は、進学校の女子生徒たちの進路選択を株式銘柄に見立てて描いた異色作で、一部の高校では副教材として使われている。
都立としては銀座高校・渋谷高校・淀橋高校・松沢高校・言問高校などと並ぶ名門だった。

おばさんたちは、懐かしそうに頷いた。

「最初はグローバルブランド戦略部でバリバリやってたのよ」
「海外案件もすごくて、今のロンドン支社とかニューヨーク支社があるのも、西松さんの功績なんだって」
「外資系の大型クライアントも一人で口説き落として、大手飲料メーカーの国際キャンペーンも動かしたらしいよ」
「それで国際広告賞も獲ったって話。……あの頃の西松さんは、本当に社の星だったんだから」

舘合翠は、壊れた西松係長の姿と、語られる栄光のイメージを、どうしても結びつけることができなかった。

おばさんたちはさらに続けた。

「当時は本当にすごかったのよ。いつ寝てるのか分からないくらい働いてたって」
「夜中でもメール返ってくるし、土日も全部仕事。あれはもう、異常だったわね」

誰かが小さく笑ったが、その声には、どこか苦味が滲んでいた。

「でも、ある日突然いなくなったのよね」
「何日かして、人事に瀋陽の日本領事館から電話がかかってきたんだって」
「『西松という男を保護しているが、御社にお勤めの方で間違いないか』って」
「北朝鮮に密入国しようとしてたらしいわよ」

乾いた笑い声が漏れた。

「総務課長、顔真っ青だったって」
「本部長まで動いて、マスコミに漏れないように必死だったらしいわよ」
「結局、“体調不良による部署異動”ってことで、庶務課に幽閉されたの」

紙コップを持つ義手の指先に、翠はぎゅっと力を込めた。
湯気の向こうに、虚ろな目をした西松係長の姿が揺れる。

──そういう世界なんだ。

舘合翠は、誰にも聞かれないように、静かに天井を見上げた。

第2章 空気のような存在

その日も庶務課の内線が鳴った。

「4階コンテンツデザイン部ですが、蛍光灯が切れたので交換をお願いできますか?」

舘合翠は、備品室から脚立と蛍光灯を抱え、エレベーターに乗った。
脚立を持ったままでは義手のバランスが取りにくい。
それでも、慣れた動作で自然にこなす。

4階、コンテンツデザイン部。

──CD部って、ほんと活気あるよな。

翠はそんなことを思いながらフロアに足を踏み入れた。

壁一面に貼られたホワイトボード、積み上げられたサンプル。
若い社員たちが、立ったまま白熱した議論を交わしていた。

「“若年層離れ”って概念自体、そろそろ疑っていいと思うんですよ」
「うん、リーチはしてる。深度が足りないだけ。反応しないのは無関心じゃなくて、情報密度が足りない」
「じゃあ、ここで“情緒接続”の方向に振る? でも、それやるとバズ狙いになって質が崩れる」
「いや、むしろ質を一段落として、可読性上げた方がいい。UXよりナラティブ優先」
「……それ、クライアント通すロジック立てられる?」
「KGIは“熱量換算”で提示。数値の根拠は、あのインスタ検証の第三波使えば、言える」

そこには、東大、慶應、早稲田──
そんな名門大学を卒業した社員たちが、自らの知力の限りを尽して戦っていた。

そして本当は、その光景を見たときに、
翠は気づくべきだった。

自分のような中堅私大卒が、ここにいるだけで奇跡だったこと。
彼らと肩を並べるのではなく、
ただ、同じ空間に置かれているだけだったことを。

翠は、その隅で脚立を立て、そっと蛍光灯を交換した。

誰も彼女に目を向けない。
翠も、それを気にせず、手際よく作業を終えた。

脚立をたたみ、蛍光灯の空き箱を抱えて部屋を出る。

庶務課に戻ると、次の依頼が舞い込んでいた。

「7階ブランドマーケティング本部で急な会議が入ったので、ケータリング手配と資料搬入をお願いします」

──BM部、また大きな案件か。

翠は備品台帳を確認しながら小さく息をついた。

まず提携しているケータリング業者に連絡を入れた。
軽食とドリンク、二十名分。
時間と場所を告げ、手配は無事完了する。

次に資料の確認。
庶務課に共有されている大量の資料から、7階ブランドマーケティング本部関係のものを探し出す。
金属義手の指先でページを繰り、必要な資料を特定する。

一応、内線で確認を取った。

「資料、こちらで間違いないでしょうか?」

先方からOKの返事が来た。

翠は資料をファイリングし、抱えて再びエレベーターに乗った。



7階、ブランドマーケティング本部。

──BM部の人たちも、やっぱりすごい。

フロアはまた違った種類の熱気に包まれていた。

「ターゲットレイヤーがズレてる。このままだと刺さらない」
「エモーション優先なら、世界観設計からやり直しだろう」
「アーンドメディアだけじゃ限界ある。自社発信も取り込まなきゃ」

若い社員たちが、腕を組みながら、机を叩きながら、
鋭い言葉を次々にぶつけ合っていた。

翠は、その議論の隅をすり抜け、指定された会議テーブルの脇に資料をそっと置いた。

誰も声をかけない。
誰も彼女に気づかない。

翠は、何も言わずにエレベーターへ戻った。



エレベーター前で待っていると、後ろから駆けてきた若い男性社員──新卒らしい子が、翠をチラリと見て、小さく舌打ちした。

「……邪魔」

翠は、何も言わずにほんのわずか身を引いた。

その直後、別の若い男性社員が新卒に追いつき、肩を軽く小突いた。

「おい、やめとけよ」

新卒がムッとしかけたが、先輩は構わず続けた。

「縁の下で頑張ってくれてる総務の人に当たり散らすとか、負け組ムーブかましてんじゃねえよ!」

それだけ言うと、先輩は翠に向き直り、すまなそうに頭を下げた。

「あ、うちのバカがすみません。このバカにはよく言って聞かせますんで」

舘合翠は、静かに笑みを作って会釈を返した。

──縁の下にいることは、許されている。
でも、その「うち」──彼らが守る輪の内側に、私は入れないんだ。

怒られている新卒も、怒っている先輩も、
同じ匂いをまとっていた。
同じ空気を吸っていた。

舘合翠は、何も言わずにエレベーターに乗り込んだ。

脚立と空き箱を抱えたまま、静かに扉が閉まった。

義手越しに押したボタンの冷たさだけが、妙に鮮明だった。

第3章 その光の届かない場所で

本社庶務課。
窓際の壁に設置されたスクリーンには、鎮貪舎(ちんどんしゃ)の社長が映し出されていた。

「──我々鎮貪舎は、江戸時代末期の街頭宣伝“チンドン屋”を原点としています」

社長は、落ち着いたが確かな重みを帯びた声で語った。

「“鎮”は混乱を鎮め、“貪”は貪欲を戒める。“舎”は、志を同じくする者たちが集う場所。
私たちは、誠実な広告活動を通じ、社会に秩序をもたらす存在でありたいのです」

舘合翠(たてあい・みどり)は、金属義手を膝に置きながら、静かにスクリーンを見つめた。

社長──この鎮貪舎という就職偏差値トップクラスの超難関企業の中で、
さらに熾烈な競争を勝ち抜き、頂点に立った男。

勝者中の勝者。

そのことは、説明されなくても、スクリーン越しに伝わってくる。

社長は、力強く言葉を締めくくった。

「今こそ原点に立ち返り、誠実な広告活動を実践していこうではありませんか!」

機械的な拍手が、どこかで響いた。

翠は、無表情のまま瞬きをした。

──立派な話だ。

──でも私は、コピー用紙の補充と、壊れた椅子のリスト作成に追われているだけ。

理想と現実の、あまりに広い冷たい隔たりを、
翠は静かに見つめていた。



昼休み。庶務課の隅。

缶コーヒーを片手に、スマホを眺めていた翠は、
【たった5分で!あなたにぴったりの転職先診断】
という広告に指を止めた。

──ぴったり、ね。

翠は、何の気なしにタップした。

名前、年齢、学歴、職歴──
最低限のプロフィールを入力し、送信。

するとすぐに、スマホが震えた。

【あなたにマッチした特別オファーが届いています!】

さらに対面面談が設定された。



雑居ビル五階。
剥がれかけたプレートには
【Global Career Opportunities】──GCO、とあった。

案内された応接スペース。
色あせた「グローバルキャリア」「世界へ羽ばたけ!」といったポスター。

そこに現れたのは、若く、爽やかな笑顔を浮かべた男だった。

「こんにちは!担当の田代です!」

田代は名刺を差し出した。

【田代 柊哉(たしろ・しゅうや)
キャリアアップコーディネーター】

翠は、無表情のまま名刺を受け取った。

田代は、勢いよくタブレットを操作する。

「舘合さんにぴったりの案件、あります!」

彼は得意げに言った。

「勤務地は──ドバイです!」

翠は眉をわずかにひそめた。

「……ドバイ、ですか」

「はい!舘合さんには最高のチャンスです!」

田代は、身を乗り出して声を潜めた。

「具体的には──路上に立って、存在感を発揮していただきます!」

翠は慎重に言葉を選んだ。

「……つまり?」

田代は、胸を張って答えた。

「乞食です!」


空気が、冷たく凍った。

しかし田代は、まるで構わず続けた。

「でも!違うんです!」

彼はタブレットを操作しながら語る。

「ドバイには、バクシーシ──“喜捨”という文化があるんです!」

翠は、少しだけ顔を上げた。

田代は熱っぽく続けた。

「イスラム圏では、施しを与えることが宗教的な美徳とされています!
路上に立っているだけで、人々は自然と寄付してくれるんです!」

画面には、モスク前に集まる路上パフォーマーたちの写真が映し出された。

「だから舘合さんも、堂々と胸を張って立っていられます!
誇りを持って、世界に存在を発信できるんです!」

翠は、無表情で聞いていた。

田代はさらにたたみかけた。

「それに──」

タブレットをスクロールし、話題を広げる。

「世界的にも、障害を持ったストリートパフォーマンスは注目されているんです!」

「インドでは、義肢ダンサーがSNSでバズって、月30万円以上!」
「バンコクでは、障害を活かしたミュージシャンが月50万円稼いでいます!」

翠は、ただ静かに目を伏せた。

──バズる、50万円。

田代は、満面の笑みで締めくくった。

「リアルで、ナチュラルで、エモーショナル!
舘合さんなら、月50万円も夢じゃありません!」

翠は、静かに立ち上がった。

「すみません、考えさせてください」

田代は屈託なく笑った。

「もちろん!ご連絡お待ちしてます!」

翠は、名刺を握りしめたまま、逃げるようにオフィスを後にした。



エレベーターに乗り、
閉まりかける扉を見つめる。

名刺を握る金属義手の手に、じんわりと汗が滲んでいた。

──お願い。

──お願い、悪い夢だって言って。

扉が、静かに閉まった。

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