【小説・ヴィーナス症候群】(68)トルソーを買うのではなく「雇う」ということ
第1章 事務室で待ちぼうけ
水着とダンスウェアに特化したブランド「Confeito」の本社は、都内の住宅街にひっそりと建っている。半地下の作業室と、ガラス張りのミーティングスペース、2階にデザイン室と事務室。洗練というより、こぢんまりとした工房といった方がしっくりくる。
「はい、ひかりちゃん立ってー。いま背中ちょっと引っ張るねー」
ピンクと白のチアリーダー風ユニフォームを着た大里ひかりが、くるりと半回転して立った。小柄な体にぴったりフィットするよう調整されたサンプルの生地が、脇から腰にかけて斜めのラインで走っている。
「やっぱ、この子だと服の落ち感がちゃんと見えるんだよなー。プラスチックのトルソーよりわかりやすい」
「腕ついてないぶん、袖ぐりの形がそのまま見えるからでしょ。あと背中にしわが寄らないのがでかい」
縫製スタッフとデザイナーがそんな風にひかりを評価するのを、彼女自身は淡々と聞いている。言われ慣れているのだ。トルソーさん――両腕のない試着モデルというこの仕事において、彼女がいかに“都合よく”重宝されているかは、とうに理解している。
「じゃ、次のやつ着てもらう……あ、ちょっと待って。いまミーティングルーム押さえられてるかも。搬入の荷物も来てたし」
「あー、それならさ、ひかりちゃん、ちょっとだけ事務室で待っててもらえる?」
「控え室じゃなくて……?」
「ごめん、控え室もいま着替え中で。5分くらいだから、ね」
ひかりは頷いて、言われた通り階段を上がった。
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事務室は、壁際に書棚と書類棚がずらりと並ぶ、いかにも「会社の中の部屋」だった。革張りのソファに座ると、背中にひやりとした感触が伝わる。ひかりは制服の裾を整えながら、ちらりと周囲を見た。
向こうのデスクでは、事務員の辻さんがパソコンに向かって何かを打ち込んでいる。年齢は40代後半くらい。清潔感のあるスーツに、落ち着いた茶色のショートボブ。

「ごめんね、びっくりしたでしょ。こんなとこ通されて」
辻久乃は手を止めずに、笑いながら言った。
「ううん、大丈夫です」
ひかりは少し小さな声で返した。とはいえ、さすがにこの格好で事務室に座っているのは、なかなか落ち着かない。
「なんか、チアガールが待ちぼうけ食ってるみたいになっちゃってるわね」
冗談交じりの口調に、ひかりもつい、口元だけで笑った。
時計の針は、約束の「5分」をすでに過ぎていた。
(ま、こういうのも、たまにあることだ)
第2章 そんなに簡単な話じゃないのよ
「辻さん、なにやってるの?」
ひかりがぽつりと聞くと、デスクでキーボードを叩いていた辻久乃が、メガネをくいっと上げて振り返った。
「ん? ああ、厚生労働省向けの書類よ。今月の実績報告」
「へえ……何それ。そんなのあるの?」
「あるのよー。助成金ってね、出すときだけ申請すればいいと思ってる人多いけど、ほんとの地獄は“もらったあと”なのよ」
ひかりは、思わず眉をひそめた。
「でも、うちってそんな大げさなことやってたんだ?」
「そりゃあね、うち“トルソーさん”3人雇ってるでしょ? 条件満たせば1人あたり数十万の支給があるんだから」
「えっ! そんなにもらえるの!?」
「その代わり、書く書類も倍よ。まず“雇入計画”出して、雇用契約書つけて、職場環境の配慮事項も書いて、就労日報を週ごとにまとめて、さらに月次報告。で、これが“特開金”。正式には“特定求職者雇用開発助成金”」
ひかりは、あわててソファに座り直した。
「……その“とくかいきん”?って、どこに出すの?」
「まずはハローワークよ。就業前に“雇います”って事前相談しないと、全部無効」
「えっ? ハローワークって、失業者のとこじゃないの?」
「そう思うでしょ。でもね、助成金関係はほとんどがハローワーク窓口なの。採用する会社側が“障害者雇って補助を受けます”って言いに行くのよ。だから就職する本人がハロワに行く必要はなくて、私たち事務方が行くの」
「……なんか、大変そう」
「そうよ。おまけに“雇いました”って言ったら終わりじゃないの。“この子はこんな作業をしています”って書類で説明して、“働けている理由”を毎月出すの。“工夫してます”って言わなきゃ補助が出ないのよ」
「へえ……。なんかちょっとめんど……」
「でしょ。でもね、ちゃんと書けば、うちのトルソーさんたちの仕事が、きちんと“価値のある労働”だって認められるの」
辻は、そう言ってマグカップに手を伸ばした。ひかりは、ぽそっと口を開いた。
「でもさ……私、服着て立ってるだけだよ?」
「それが大事なのよ。プラトルソーじゃできない“自然な落ち感”を見せるでしょ? 肩線、ネックライン、背中の丸み。ぜーんぶ、あなたがいるから分かるの。あれ、プロじゃないとできないのよ」
「へぇ……」
「でも、助成金の審査官はそんなこと知らないから、“チア衣装を着る仕事”って書くだけじゃダメ。“アームホールの設計において肩回りのシルエット確認業務を行った”とか、そう書かないと納得してくれないのよ」
「……なんか、急に漢字ばっかになった」
「でしょ? だからね、こっちは“この子は立ってるだけ”なんて一言も書かないの。“立ってる姿にこそ意味がある”って、毎月作文してるのよ」
そのとき、ひかりはなぜか少しだけ、胸が熱くなるのを感じた。
「……そんなふうに書いてくれてたんだ」
「そりゃそうよ。“ピーチクパーチクうるさいけど、現場で一番頼れるトルソー”ってね」
「またそれ……」
辻は笑いながら、画面に視線を戻した。
「助成金って、もらうのも大変だけど、もらってからの方がもっと大変なの。でもね、あなたたちが“ここに立つ意味”を説明できれば、制度の方もちゃんとついてくるのよ。……たぶんね」
第3章 カラフルで重たい書類たち
「でも、厚労省の方がまだマシって言いたくなる日もあるのよね……」
辻がぼそっとつぶやくと、ひかりは「えっ?」と首を傾げた。
「さっきの“とくかいきん”より大変なの、あるの?」
「あるある。経済産業省の“多様性推進モデル事業”とか、“障害者等の社会参加促進補助金”とか、もうね、名前からしてこっちの首がまわんなくなるような制度ばっか」
「そっちにも出してるの?」
「出してるわよ。うちらみたいなアパレルはね、試着モデルっていう特殊な働き方で障害者を雇ってるわけでしょ? そういう“ちょっと変わった事例”が経産省は好きなのよ。モデルケースとして報告書に使いたいとか、インタビュー載せたいとか」
「え……あたし、そんなの聞いてないけど……?」
「だから事前に断ってるわよ。“今回は社内のみで利用”って。でもね、それでも一応、“写真添付”は必須なの。業務中の様子、職場の様子、あと“共に働くスタッフの声”なんてのも」
「うわ、やばい……なんか小学校の壁新聞みたい」
「まさにそれよ。レイアウトまで指示あるの。“できればカラーで、印象的な見出しを”とか。補助金の書類って、白黒の世界じゃなくて“感動”を要求されるのよ」
辻は書類の山からクリアファイルを一枚取り出した。中には、まるで広報誌のような仕上がりのA4両面が入っていた。
「これが、うちが前回出した“職場紹介パネル”。タイトルは“一着の服に命を吹き込む仕事”」
「ださっ」
「それを言わないの。でも、これが通るのよ。こういうのを経産省は喜ぶの。“障害者雇用の多様な形”とか“ノーマライゼーションの新地平”とか、なんとかかんとか」
「そんなこと言って……実際にやってるのは?」
「ひたすら写真撮って、スタッフのコメント集めて、そして“障害者に配慮してるって見える職場”の演出よ」
ひかりは黙った。なんとなく知ってはいたけれど、言葉にされると複雑だった。
「……それって、やだな。なんか、私たちが“使われてる”感じする」
「でしょ。でもね、それを使わないと、今度は助成金が“配られない”。制度ってのはそういうものなの。“現場の良さ”を制度に届けるんじゃなくて、“制度の形”に現場を合わせないと通らない」
「うわ、それ……やな言い方だけど、ちょっとわかる」
辻は、机の引き出しからホチキスを取り出しながら続けた。
「私はね、制度を嫌ってるわけじゃないの。ちゃんと通せば、あなたたちの存在が“ちゃんと価値がある”ってことが、書類の上で証明される。だからやる。でも……やっぱり、しんどいのよ。毎年毎年、“感動しました!”って見出し考えるのは」
ひかりはそっと辻の方を見た。
「……じゃあ、今度、見出し私が考えてみようか?」
「え?」
「“ピーチクパーチクうるさいけど頼れるトルソー”とか、“今日も笑顔で袖ぐりチェック”とか、どう?」
辻は吹き出した。
「そんなの採用されたら、全国の経産官僚が泣くわよ……笑いすぎて」
ふたりはしばらく笑った。事務室の窓から差し込む陽の光が、A4の報告書の角を照らしていた。
第4章 “優先枠”の罠
「……でね、ひかりちゃん。助成金って、国だけじゃ終わらないのよ。地獄の第二幕は、自治体」
辻久乃は書棚から白いファイルを引っ張り出しながら、ため息まじりに言った。
「え、まだあるの?」
「あるのよ。“障害者就労推進企業認定制度”とか、“優先発注制度”とか。東京だけでも、区によってバラバラ。書式も出すタイミングも、担当部署も違うの」
ひかりは軽くうなずいた。正直、話の半分も理解できていない。それでも、この事務室に流れる“面倒くさい何か”の空気は、なんとなく伝わる。
「たとえばね、都内のある区の“体操服のデザイン”をうちが受けたことがあるの。チアユニフォームの流れで声がかかって、トルソーさんにも立ってもらって、フィッティングや丈感のチェックもきちんとやった」
「へえ、そんな仕事もあるんだ」
「あるのよ。でもね、その時、発注側の役所の人にこう言われたの。“今回は障害者雇用枠なので、品質にはこだわりません”って」
「……えっ?」
ひかりの足が、無意識にぴたりと揃った。声を出さずとも、「それ、今なんて?」という気配が全身からにじむ。
「つまりね。“障害者雇ってる会社=チャリティ扱い”って思ってる人、まだまだ多いの。“優先枠”って言ってるけど、裏を返せば“本気で期待してないから任せる”ってことなのよ」
「……それ、ひどいね」
「そう。“特別扱い”って、一歩間違えると“見下し”なの。うちは、ちゃんとプロとしての仕事してるのに、“お情けで発注した”ってことにされちゃう」
辻はデスクに戻り、パソコンのマウスをカチッと鳴らした。画面には自治体の支援制度一覧と、提出期限のカレンダー。
「そういう現場を経験するたびに思うの。“支援”って、下手すると“免罪符”になっちゃうのよ。“支援してるから、多少雑でも許されるでしょ”って」
ひかりは少しだけ顔を伏せて、足の指先に力を込めた。怒っているのか、戸惑っているのか、自分でもうまくわからなかった。
「……じゃあ、うちはどうして、その制度使ってるの?」
「だって、制度を使わなきゃ、あなたを“ちゃんと雇ってる”って証明できないのよ」
辻はマグカップを持ち上げ、ふぅっと息をついた。
「世の中には、まだ“見た目だけで判断する人”が多いでしょ? “あんなの飾りでしょ”“税金の無駄”とか言う人もいるの。だからこそ、うちみたいな会社が、“こうやってちゃんと業務に組み込んでます”って書面で見せていかなきゃ、何も変わらないのよ」
「……」
「だから私は、“ピーチクパーチクうるさいトルソーさん1人雇うのに書類30枚”でも、やるの。ちゃんと働いてる人が、ちゃんと認められるように」
そのとき、階下からスタッフの声が響いた。
「ひかりちゃん、準備できましたー!」
「……はーい!」
ひかりはそっと立ち上がり、背筋を伸ばした。スカートのすそが揺れるのを感じながら、静かに一礼する。
「じゃ、行くね」
「行ってらっしゃい。“ちゃんと働いてる証拠”さん」
「……その言い方やめてー」
階段を降りていく足音のあとに、辻のひとりごとが残った。
「ほんと、“人間1人”って、プラトルソーよりずっと重たいのよ」
第5章 “仕事”としての身体
階段を降りていく途中、ひかりは少しだけ歩幅を狭くした。
意識したわけじゃない。ただ、さっき辻さんに言われた言葉が、まだ体のどこかに残っていて、そうさせた。
“ちゃんと働いてる証拠さん”
なんて言い方。照れくさいけど、変な話でもなかった。
作業室ではすでに準備が整っていた。デザイナーの坂井が、新しいサンプルを手にして待っている。
パステルグリーンの、チアユニフォーム。今度はスカートのプリーツが少し短めになっていた。
「あ、ひかりちゃん戻った? この丈感ちょっと見たいんだけど、お願いしていい?」
「うん、大丈夫」
手早く着替えを済ませる。義手は最初から使っていないから、腕ぐりの広いこのデザインには都合がよかった。サンプルを滑り込ませ、肩の位置を合わせ、背筋を伸ばして立つ。
「うーん、いいね。やっぱりひかりちゃんだと、背中のラインがちゃんと見えるわ」
「プラトルソーじゃこうはいかないからねー」
スタッフの言葉は、いつもの軽口だ。でも、今日は少しだけ違って聞こえた。
これは、“わたしの身体”じゃなくて、“わたしの仕事”なんだ。
袖ぐりが、背中のアールが、胸元の縫い合わせが。
自分の肩に沿って、それらが“形”になる。人の目で確認され、記録され、寸法が直される。
たぶんそれが、辻さんが言ってた「働いてるって証明すること」なんだろう。
「ひかりちゃん、ちょっとそのまま90度回ってー」
「はーい」
足元の丸いターン台に乗り、くるりと半回転。
昔は視線が気になった。今でもゼロではないけれど、それよりも“どこを見せるべきか”の方に意識が向いている。
「……いいね。こっちの仕様で進めようか」
坂井が小さく頷き、チェックシートに印を入れた。
ふいに、その隣にいた若いスタッフがぽつりと言った。
「こういうとき、やっぱ人間のほうがわかりやすいっすね。布のたるみとか、めっちゃ生地の参考になりますもん」
「そうね。特にひかりちゃんは、余計なシルエットが出ないから、布の素直な落ち方が見えるの」
「“余計なシルエット”って言うと失礼っぽいけど、あえて言うと、だからこそプロだよね」
ひかりは、思わず笑った。
「“失礼っぽいけどプロ”って、なんかすごい表現だね」
「いやいや、褒めてますって。ほんとに」
笑いながら、その場の空気が少しだけ温かくなった気がした。
ひかりは姿勢を保ったまま、心の中でひとつだけ、確認するようにつぶやいた。
“ちゃんと働いてる”って、たぶんこういうことなんだ。
