【小説・ヴィーナス症候群】[618]カイロ確定申告始発
貧乏なトルソー・弓張渚にも確定申告の季節は来る。
生まれつき両腕のないヴィーナス児に多い職業として、アパレル産業で着用モデル、いわゆる「トルソーさん」という仕事がある。
渚はそのフリーだ。机の上には領収書の束、ノートパソコンには会計アプリの未分類一覧。
義手の指先でタップしては戻し、またタップする。
交通費、衣装代、通信費。数字は容赦がない。
今日は一日、これに充てるつもりだった。
そのとき通知音が鳴った。京洛マテリアルズからだ。
渚が使っている筋電義手の肩パッドを製造している会社で、ウェルフェア事業部は社内では負け組部署と囁かれているらしい。カーレースにレースクイーンを出しているのは、このウェルフェア事業部が存在感を示したいからだという噂も聞いた。鈴鹿だの富士だの、縁のない場所に何度か呼ばれたことがある。(第284話)
この前など、社内報向けにレースクイーン姿で新型筋電測定器の試験に立ち会ったばかりだ。(第598話)
「また西土浦です。国立先端医工学研究センターで」
電話口の声は弾んでいた。今回はスポンサー候補が来るのだそうだ。
美容整形外科で有名な鳴海成久が研究資金を出してくれるかもしれないという。
両腕のない渚がレースクイーンとして立つ姿に心を打たれたのだ、と。
鳴海成久。
♪あなたも今日からナルシスト〜ナルミ美容外科〜
あの耳に残るサウンドロゴの院長だ。SNSでサヨクやフェミニストを攻撃しては炎上している、あの人。ナルナル。
というか、女性相手の仕事なのにフェミニストが嫌いって、それで商売になるんだろうか。
気づけば渚は小田急線の始発に乗っていた。ポケットにはカイロ。確定申告の未入力欄が頭の片隅で光っている。なんで今日なんだろうね、と小さく呟く。
車内広告に、あのナルミ美容外科のポスターが揺れている。
SNSを開くと、鳴海院長がホーチミン院で院長を解雇したとかで騒ぎになっている。「ナルミの方針に従えないなら自分で美容外科を立ち上げればいい。それだけのこと」と投稿していた。日本だけでなくベトナムのホーチミンまで展開しているのかと思えば、今度は「次はエジプトのカイロに進出します。クレオパトラの国で女性を美しくする」と息巻いている。
こちらは安いカイロを買うにも時間をかけて迷うのに。
代々木上原から千代田線に乗り換え、二重橋前で降りて東京駅へ。高速バスで土浦新治インターまで揺られ、さらに筑波参宮線に乗り換えて西土浦へ向かう。遠い。確定申告の画面が、遠ざかる。
国立先端医工学研究センターに着くと、京洛マテリアルズの担当者と研究センターの偉い人が待っていた。「遠いところ申し訳ないね。遠かったでしょう?」とにこやかに言われる。遠かったでしょ、ではない。始発だ。
更衣室で、例のレースクイーン衣装に着替える。鏡の前に立つと、肩の滑らかなラインがむき出しになる。そこに筋電パッドを貼られる。数字を取るための身体だ。
試験室に入ると、あの院長がいた。画面越しでしか見たことのない顔が、実物の距離にある。
渚を見るなり、鳴海は言った。
「おお、あの子か。フェイスライン、顎下を0.5削ればもっと締まるんじゃない?」
いきなりそれか、と渚は思う。余計なお世話だ。
京洛の偉い人が筋電測定器の説明を始める。リアルタイム波形、筋出力の可視化、アスリート応用。鳴海は腕を組んで聞いている。視線はずっと低い位置にあるように見えた。それが筋電パッドなのか、衣装なのか、渚にはわからない。気のせいかもしれない。
確定申告の数字よりも、いま目の前の視線のほうが、ずっと冷たい気がした。

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