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【小説・ヴィーナス症候群】(154)「トルソーさん」助成金を制度化した厚労官僚

第1章 資料に名前のない人

神俣葵は、インターホンを押す直前、ひとつ息を吐いた。

このドアの向こうにいるのは、かつて厚労省の障害者雇用対策課で制度設計に携わっていた人物──
……であり、同時に、“あの介護汚職”で名指しされた、元老健局長。

多久光武昌。
新聞各紙に写真入りで報じられ、週刊誌では「再炎上官僚」「介護利権の影」と見出しが躍った。
公的資金の随意契約、補助金処理の操作、そして天下り財団での不透明な資金流用──どこまでが真実で、どこまでが演出なのか、今もよくわからない。

だが少なくとも、彼の名前は“制度設計の功労者”としては記録されなかった。

インターホンを押すと、電子音のあとに、くぐもった男の声が返ってきた。

「……はい」

「神俣です。ご予約の件で参りました」

しばらく間があった。風の音が、庭木を揺らす。足元の砂利が、軽く鳴ったような気がした。

「……鍵、開いてます。入ってください」

玄関ドアを押すと、チェーンはかかっていなかった。ゆっくり開けると、少し古びた香りのする家。新聞で見た通りの顔が、廊下の奥からのぞいた。

「まあ……そのままで。上がってください。狭い家ですが」

「失礼します。ICレコーダーを使わせていただきます」

「ええ、構いませんよ。もう、誰に何を聞かれても怖くない歳でね」

通された居間には、昔の官製封筒や、厚労省の紋が印刷された会議資料の束が積み上がっていた。意図的に崩さずに置いてあるような、そんな整った乱雑さだった。


神俣は義手の肘でバッグを押さえ、リュックのフックを外し、左肩にかけたままICレコーダーを起動した。タブレットはテーブルの端に置き、画面には議事録の該当箇所を呼び出している。

「本日は、お時間ありがとうございます。“衣料展示支援従事者”制度について、当時の経緯を伺えればと」

「懐かしい名前ですね……。今じゃ“トルソーさん”なんて呼ばれてると聞いた」

「はい。けれど、制度設計の経緯をたどっても、どこにも“多久光武昌”という名前は出てこないんです。議事録では“障雇課補佐”とだけ」

「……そうですか」

「けれど、当事者団体の記録には、“多久光補佐の尽力に感謝”と、きちんと書かれていた。それを見て、私はここに来ようと思いました」

老人の手が、湯呑の縁を軽く叩いた。

音は乾いていたが、どこか、深かった。

「……懐かしいですね。本当に。じゃあ……話しましょうか。あれが、どんなふうに始まったかを」

そしてそのとき、部屋の空気が、ゆっくりと変わった。

次の言葉を発するその人は、もはや“元老健局長”ではなく、“ある日の百貨店のベンチにいた、ただの父親”に戻ろうとしていた。

第2章 子どもたちは、いつか大人になる

本省に戻ってきたのは、三十五歳の春だった。
愛媛県への出向を終え、二年ぶりに霞が関のデスクに座った私は、ある種の手応えと確信を持っていた。地方行政で感じた「制度の実施面」、つまり法令と現場の“わずかなズレ”が人を苦しめる、あの感覚。それを中央に持ち込んで修正できるかもしれないという、静かな使命感。

配属は厚労省職業安定局・障害者雇用対策課。課長補佐。キャリア官僚としては“脂の乗る時期”だった。

復帰して数カ月──職場では、まだ統計にもならないような“異変”が囁かれていた。

地方の保健所、医師会、母子保健センターから、ぽつぽつと届く報告書。
その末尾に、こういう文言が目立ち始めていた。

「生まれつき両上肢のない女児が確認されました。複数例あり。地域に偏在傾向あり」
「筋萎縮・代謝異常等の兆候はなし。知的遅滞も認められない」
「今後、教育・就労支援の視点で早期支援体制が必要」

これが何を意味するか、誰もはっきりとは言わなかった。

官房系の上司は「統計上の有意差が出るまでは慎重に」と言い、障害福祉課の同期は「現行制度で十分対応可能」と言った。

でも、違和感があった。
これは、ただの欠損ではない。数字で割り切れるものではない。
一部地域に偏って、一定数、生まれてきている。
──そして彼女たちは、いずれ成人する。

私は、地方勤務時代のネットワークを使って、改めてヒアリングを重ねた。
母子手帳に“記録されない子ども”が、いくつも報告されていた。
親たちの声は、行政文書には書ききれなかった。

そしてある日、一通の封書が課に届いた。
都内の公民館で活動している、小さな「親の会」からだった。

差出人名はなく、「○○区 育児サークル一同」とだけあった。
A4用紙に、パソコンで打たれた文字で、こう書かれていた。

「両腕のない娘がいます。身体には何の病気もありません。知的にも問題ありません。けれど、この子が大人になったとき、どう生きていけるのか、誰も答えてくれません」
「せめて“何か”を、行政が考えてくれていると知れたら、私たちは、もう少し安心できます」

その文面を読んだとき、私は黙って立ち上がっていた。
気がつけば、「話を聞かせてください」と手紙を書き、週末に一人で足を運んでいた。

会場は、都内の小さな区民館だった。座布団が並べられ、十数人の母親たちがいた。
床には、まだ就学前の子どもたち。腕が肩からない子。
声はよく通る。表情も豊かだ。でも、おもちゃを取るのは、全部足だった。

「まだいいんです、今は。だっこもできますし、手伝いもできます。でも──この子たちは、大人になります。
社会の中で“何もできない人”として扱われたくない。……私たちは、せめて、“できること”を一緒に探したいだけなんです」

泣きそうになりながらも、まっすぐ言葉を投げてきたひとりの母親を、私は忘れられない。

“お荷物にしたくない”──その言葉は、地方で見てきた作業所の空気や、企業面談の沈黙と重なった。

私は、本当に思ったんです。
この子たちに、“立てる場所”を作らなきゃいけない。

……あのとき、区民館の和室で、私は正座したまま動けなくなっていました。

言葉にならなかったのは、子どもたちの姿を前にしたからです。
確かに、“両腕がない”ということは聞いていた。でも、そこにいたのは、ただ“腕がない”子どもたちではありませんでした。

肩から先が、まるごとない。肘も、前腕も、手のかけらもない。
その、なめらかな肩口をのぞかせたまま、笑っていた子がいました。
両脚を使って床に積み木を並べていた。足の指の間に小さなブロックを挟み、何度も、崩れてはまた積みなおす。
何かを「できる」とは、このことかと思いました。

その後も、何度か親たちとやり取りを重ねました。
「家ではこういうことができる」「でも社会には、それを活かす“場所”がない」
そんな声ばかりだった。

霞が関に戻ってから、私は動き出しました。

非公式に集めた若手たちとのチーム。課長にはまだ話せませんでした。というより、話しても止められると思った。
だから、週末に集まって、模造紙とホワイトボードで「何ができるか」をひたすら書き出しました。

でも……出てくるのは、正直、ひどいアイデアばかりでした。

「握手しない文化を広めよう。アイコンタクト講師」
「動物は腕の有無を気にしない。ふくろうカフェで接客を」
「着ぐるみの中に入る“体の演者”なら、腕がなくてもいける」
「いっそ、“腕がないことを生かすキャラクター”を作って、グッズ販売を支援に繋げるのは?」

……本気で議論してました。ふざけてなんていなかった。
でも、どこか全部、“彼女たちを見ていない”発想だったんです。

ある日、チームのひとりが言った。

「こういう“特定の遺伝性疾患”って、海外にもありますよね。ユダヤ人に多いテイ・サックス病とか」
「あるいは福山型筋ジストロフィー。日本や東アジアで比較的頻度が高い、先天性の筋疾患。地域に偏りがある」

私は頷きながらも、思いました。

「でも、これは遺伝病でも、筋疾患でもない。少なくとも、そう診断されているわけじゃない」
医学的な原因が不明なまま、ただ“ある一定の比率で、腕のない子どもが生まれている”という現実だけがある。

それはつまり、“社会構造が受け止めなければならない事態”なんです。医学じゃない、社会の問題だと。

……それからまもなくして、日曜の百貨店でした。

娘にせがまれて出かけた、伊勢屋百貨店。
「プリキュアのパジャマ見たい!」って笑う娘と妻の後ろで、私は婦人服フロアの階段脇のベンチにへたり込んでいました。

もう、ぐったりしていて、目の前のディスプレイをぼんやりと眺めていた。
そのとき──立っていたんですよ、白いトルソーが。

ラベンダー色のブラウスを着て、じっと立っていた。
腕は、なかった。

当然です。トルソーですから。
でも私は、何かを見たような気がしたんです。

「……こういうふうに、“立っている”という在り方があるんだ」と。

あの子たち──両腕がまったくない彼女たちも、こうして社会の中に“立つ”ことができるんじゃないか。
トルソーのように──静かに、確かに、場所を持つことができるのではないか。

そう思ったとき、私の中で初めて、制度という構想が形を持ったんです。

それは、“補助”でも“保護”でもない。
“立つ”ための制度。

私は立ち上がって、帰宅したその晩、ノートに最初の文字を書いた。
「衣料展示支援従事者」──それが最初の言葉でした。

第3章 制度という名の場所

──「衣料展示支援従事者」

この言葉を最初にノートに書いた夜のことを、私はいまでもよく覚えている。
百貨店から帰ってすぐ、湯も沸かさず、コートも脱がず、机に向かった。
誰に見せるわけでもないメモ帳の上に、ペンを置いて──私は、ただ思いついたままの言葉を、試し書きのように繰り返した。

モデルでもない。
福祉作業所の従事者でもない。
あくまで、社会の一員として“立つ”人。

それが“従事者”という言葉に、どうしても辿り着いた理由だった。

制度として成立させるには、まず“どこに載せるか”を決める必要がある。
私は自分の所属である職業安定局・障害者雇用対策課の中でも、特に制度設計に明るい同僚に声をかけた。

「新しい職種として、障害者雇用促進法の“特定求職者雇用開発助成金”に載せられないか?」と。

先に助成枠に滑り込ませてしまえば、あとは地方自治体や雇用主との調整次第で運用が始められる。
そのために、職業安定局の雇用開発企画課に掛け合った。

正直、最初は「は?」という顔をされた。

「モデルですよね? 補助金の対象に?」
「それって、見世物的な扱いになる危険性は?」

でも、私は言い続けた。

「違う。見られる人ではなく、“展示を支える人”なんです。
腕がないからこそ、布の動きを邪魔しない。静止したまま、衣服のかたちを見せる役割を果たせる。
それを服飾の現場は“求めている”──それが、制度設計の根拠になるんです」

文化学園大学の教授にヒアリングをお願いした。
服飾学の側からの論拠を、政策提案に添えることで、「実在するニーズ」として話が通りやすくなる。

教授は、こう言ってくれた。

「本当に美しい服というのは、動かない人の上で見るものなんです。
腕がない身体は、衣服にとって“最も干渉しない平面”になりうる──そういう理解も、現場にはあります」

そこからは、まさに霞が関の“技術戦”だった。

障害者雇用促進法に基づく「特定求職者雇用開発助成金」は、原則として「身体・知的・精神に一定の障害があり、就労困難な者を雇用した企業に支払われる」制度である。
その中で「衣料展示支援従事者」という職種を、“新設職種の試行例”という位置づけで、実験的に運用要綱に加える。

通達ベースで始め、運用報告が一定数に達した段階で厚労省告示として整理し直す──
そういう流れを、社会・援護局の障害福祉課とともに組み立てていった。

正直、反対もあった。

「身体障害者の制度を、美学的価値観と結びつけてよいのか」
「“立っているだけで支援対象になる”という印象を与えるのでは」
「そもそも“腕のない人間”を制度で定義できるのか?」

でも私は、何度も繰り返した。

「これは“立たせる制度”です。誰かに向けて働く制度ではなく、“この子たち自身が立つための制度”なんです」

初めて制度が運用されたのは、銀座の小さなレンタルドレス会社だった。
成人式用の展示会で、“動かないモデル”が必要になった。

私は、どうしてもその現場が見たくて、プライベートで足を運んだ。

ショーウィンドウの奥に、袖のない真っ白なドレスを着て、まっすぐ立っている若い女性がいた。
両腕はなかった。肩からすっと下がる布のラインが、恐ろしくきれいだった。

表情は、笑っていた。

その笑顔を見て──私は、あの親の会のことを思い出した。

「いつか、大人になる子たちです」
「社会の中で、ただ“立てる場所”を──それだけでいいんです」

帰り道、電車の窓に映る自分を見て、私は耐えられなくなった。

「……腕のない子たちが……喜んでくれているなら……本当によかった……。本当によかったのに……」

声は出なかった。ただ、息がつかえ、喉が震えた。

いつから私は、こんなふうに汚れてしまったんだろう。

制度を守るためと称して、数字をごまかし、便宜を図り、結果として“利権”の側に落ちていた。
新聞は私を“介護利権の象徴”と書いた。
若い頃の私が、今の私を見たら──何と言うだろう。

……だけど、それでも。

あの子が、ドレスを着て立っていたことだけは、確かなものだった。

たしかに、制度は、あのとき、誰かのために生まれたんだ。

第4章 記録されなかった場所から

玄関を閉める音が、驚くほど静かだった。
そのまま小さく礼をして、神俣葵は門を出た。
午後の風が、ほんの少し強くなっていた。

振り返らずに歩き出す。
バッグの中でICレコーダーの録音がまだ続いているのに気づき、左の肩を寄せて停止ボタンを押した。義手は一切ぶれない。こういう動作はもう、反射の域だった。

嗚咽を聞いたのは、ほんの一瞬だった。
録音を止める前に、マイクが拾った。
「本当によかったのに……」という震える声。
一度だけ、ひくつくように息を吸い込む音。
そして、それきり何も聞こえなかった。

──神俣は、少し息を吐いて、駅までの坂道を歩き始めた。

制度が残ったことは、事実だ。
「衣料展示支援従事者」という名称で始まり、いまでは“トルソーさん”という呼び名が業界で一般化している。
撮影現場、展示会場、フィッティングの場。そこに“立っている”のは、人工のトルソーではなく、生身の、そして両腕のない女たちだ。

神俣自身もそのひとりだった。
今は義手でキーボードを叩くこともできるようになったが、トルソーとして立っていた時期が、彼女にも確かにあった。

静止するということ。
ただ布をまとい、動かずに、そこに“いる”ということ。
その意味を、誰よりも理解しているつもりだった。

だからこそ、いま聞いた話の重さが、背中のあたりでじっと熱を持っていた。

本省で制度が作られるとき、誰かが自分たちを“見ていた”こと。
それが政治でもなく、損得でもなく、ただ一人の親としての偶然の出会いから始まったということ。

“制度の中に、顔は残らない”──そう言った多久の言葉が、耳の奥に残っている。

だけど、誰かが“こういう場所があっていい”と信じていたことは、今でも確かに、制度の縁に染み込んでいる。

スマートフォンを取り出して、メモアプリを立ち上げた。
記事のタイトル案が浮かんでいた。

「衣料展示支援従事者、その原点にある“立つ”ということ」

サブタイトルには、まだ迷いがあった。
でも、ふと浮かんだ言葉がある。

──“記録されなかった場所から”

画面を閉じて、ホームに向かう階段を降りる。

あとで録音を聞き返すのは、夜にしよう。
今はただ、階段の下に吹き込んでくる電車の風に目を細めた。

その風の向こうにも、きっとまた、立っている誰かがいるのだ。

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