見出し画像

【小説・ヴィーナス症候群】(149)ジャーナリスト魂

第1章 フリーライターのお仕事

画面のカーソルが、文末で点滅していた。

「……“就労継続支援B型”じゃなくて、A型だったらまた話が違うんだけどな」

神俣葵は義手の指先でタブレットを操作しながら、ひとつ深く息を吐いた。机の上には資料の束と、ぬるくなったコーヒー。葵はいま、地方の障害者就労支援施設の経営破綻をテーマにしたルポの原稿をまとめていた。ようやく、締切前の“書ける体”が整ってきたところだ。

彼女は生まれつき両腕のないヴィーナス児。当初は衣料展示モデル――いわゆる“トルソーさん”として制度の現場に立ち、”トルコミ”というトルソーさん同士の情報交換コミュニティの管理人でもある。しかし、それだっていつまでできる仕事でもない。
お肌の曲がり角を感じた現在ではトルソーは卒業してしまい、今ではフリーライターとして少しずつ仕事が増えはじめていた。食えるかどうかはギリギリだが、取材の依頼も自力でこなせる。ようやく「一本立ち」と言えるようになった、そんな自負が胸の奥にあった。

だからこそ、いまは原稿に集中したい。そう思っていた。

そのとき、スマートフォンが震えた。通知ではなく、着信。

「……誰よ、この忙しいときに」

内心呟きながら画面をのぞき込むと、表示された名前に目が止まった。

守実徹

「……あ、もしもし?」

「葵さん、守実です。今ちょっといいですか」

電話の向こうの声はいつも通り落ち着いていたが、その奥に何か沈んだものがあった。

守実徹――かつて自治体の福祉課で制度の運用に関わっていた人物で、現在はヴィーナス児たちの当事者団体「コルチカムの会」の事務局長を務めている。制度を知る最後の“実務者”の一人だ。

「はい。原稿書いてますけど……何かありましたか?」

「いま話題になっている“多久光”って人、介護汚職で報道されてる、あの元・厚労省の局長」

「はい。毎日見ますよ。あの人がどうしたんですか?」

「昔――トルソー制度の設計に関わってたみたいです。議事録、確認できました。当時の肩書きは“障害者雇用対策課・課長補佐(企画調整担当)”。会議録にも、制度の整理案を書いていて……それだけじゃないんです」

守実が一拍置いた。

「“ご尽力いただいた多久光補佐はじめ関係官各位に感謝”って、手書きのメモまで残ってます。制度が正式になる前の、内部記録に」

その瞬間、葵の胸に何かが跳ねた。

「……本当にですか? “あの”多久光が……?」

通話口で息を呑む音を隠せなかった。

連日テレビで叩かれ、SNSでは「利権の象徴」と揶揄されている男。事件に名前が刻まれ、制度の中では名を消された官僚。その名が、まさか自分たちの土台となった仕組みに関わっていた?

「……今から行ってもいいですか」

「いいですよ。鍵、開けておきます。議事録も、資料室に出してあります」

「すぐ行きます」

通話を切ると、葵は即座に作業を中断した。画面をスリープにし、資料を鞄に押し込み、ICレコーダーと手帳を投げ入れる。義手でストラップを肩に引き寄せる動きは、もはや一連の流れとして体に馴染んでいる。

彼女は机を離れた。タブレットのカーソルは、まだ点滅していたが、いま追うべき記録は、紙の中にある。神田駅を目指して、階段を駆け下りる。

「制度に名前は残らなかったのに、事件にだけ残った人……」

葵は呟く。

この国の制度の始まりに誰がいたのか。その痕跡をたしかに拾いに行くために、いま彼女は走っていた。

第2章 神田の事務所

その建物は、神田駅から徒歩十分の雑居ビルの三階にあった。

当事者団体「コルチカムの会」。かつては、ヴィーナス児を育てる保護者たちが情報交換のために集まっていた「親の会」がその前身であり、時代の変化と共に、当事者自身が語る場へと移行していった。今では、生まれつき両腕のない女性たち――“ヴィーナス児”たちが、記録し、支え合い、制度と向き合う拠点となっている。古い事務机とスチール棚が並ぶ事務所。窓の外には、くすんだ高架と小さな交差点。都市のざわめきの中に、かすかな静けさを保っている。

「……来ちゃいました」

ドアの内側に入りながら、神俣葵が息を整える。肩から斜めに下げた布バッグのストラップを、義手の前腕で軽く直す。髪が湿気で少しだけ浮いていた。

「連絡してから早すぎません?」

受付カウンターの奥から顔を出したのは、同じく義手をつけた若い女性――階上つばさだった。ベージュ色の義手が肩口で控えめに光っている。

「気になっちゃって。一次資料が見たかったんです。“私たちの制度”って、どうやって始まったのか、ちゃんと知っておきたくて」

「はいはい、ジャーナリスト魂ですね。じゃ、奥どうぞ」

つばさが少し笑って鍵束を手に立ち上がる。二人で奥の資料室へと向かう足音が、静まり返った事務所に響いた。

スチールラックの最下段。つばさがしゃがみこみ、埃をはらいながらラベルの色褪せた紙箱を引き出す。手書きの字で「雇用支援制度関係(初期)」と書かれていた。

「これが、該当の会議録です。印刷じゃなくて、手書き議事録も混ざってる。……前身の“親の会”の頃から、ちゃんと残してきたものです」

背後から静かに守実徹が声をかける。元市役所の福祉課長で、今は「コルチカムの会」の事務局長を務める。公務員時代に蓄積した記録保存の作法を、この団体でも変わらず貫いていた。


「この辺りの会議では、“トルソー”って言葉は出てきません。“衣料展示支援従事者”というのが制度上の名称です」

「了解です。助成制度の文脈ですね」

葵はタブレットを起動し、右の義手でスクロール、左の義手で資料を押さえる。つばさが補助するように紙の束を支える。

やがて、葵がふと指を止めた。

「……ここ。ありました」

ページの中央、余白に書き込まれた手書きの走り書き。

《多久光武昌(障害者雇用対策課・課長補佐(企画調整担当)》
《衣料展示支援従事者について:静止姿勢を基準とすることで、業務内容の整理を図る方針》
《ご尽力いただいた多久光補佐はじめ関係官各位に感謝》

「……名前、出てるんだね」

つばさがつぶやく。葵はじっとその文面を見つめたまま、唇を噛んだ。

「たしかに、制度の中にいた。……しかも、感謝される立場で」

「制度に名前は残らなかったけど、事件には残った。……そういうもんだよ」

守実の声は、どこか遠くから聞こえるようだった。

三人の間に静けさが落ちる。机の上の紙が、空調の風に揺れた。

葵は、机に両肘をつきながら、ぽつりとつぶやいた。

「……この制度がなければ、私たちは“障害者”のままだった。でも、その制度を作った人が、今や“再炎上官僚”って呼ばれてる。なんか……どう受け止めればいいのか分からない」

つばさは何も言わなかった。そっと紙の角を指先で押さえた。めくられないように。書き換えられないように。かつて誰かが書いた「感謝」が、いまもこの部屋の空気の底に沈んでいる。

いいなと思ったら応援しよう!