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【小説・ヴィーナス症候群】[795]月

東京外国語大学・東ユーラシア文字文化研究所。
夕方の研究室には、コピー機の駆動音と空調の低い唸りだけが流れていた。

後期博士課程の関那由他は、机いっぱいに広げたチュノム資料を前に、ノートパソコンの画面を睨んでいた。
来月の院生研究会。
発表題目は既に提出済みだ。

阮朝末期チュノム詩における〈月〉表象
――漢詩的受容と水辺イメージの変容――

題名だけは立派だった。
しかし実際には、まだ無名詩人の四行詩一つで立ち往生している。

画面には Vietnamese Nom Preservation Foundation のデータベースが開かれていた。

𦝄沈坭𡍣永
𠊛彈妑礼待船𡗅
渃来散映鉑
䬔秋𢫘襖蒙

那由他はシャープペンでノートを叩く。

「……“bến vắng”でいいのかなぁ」

ホワイトボードには既にメモが散乱していた。

・月=水辺?
・“vắng”=人気がない/寂しい?
・日本古典との差異
・月が“空”ではなく“水”にある?

そこへ、研究室のドアが軽く開いた。

「那由他さん?」

振り向くと、ベトナム人留学生のグェン・ティ・ランが立っていた。
薄いブルーのシャツに白いワイドパンツ。後ろでまとめた髪には、金属の花飾りが小さく光っている。

「発表、進んでいますか」
「全然」

那由他は即答した。

「ちょっとこれ分かる?」

ランは机の横へ来て、モニタを覗き込んだ。

「あー……」

彼女は小さく唸った。

「また難しいの読んでいるだよね」

「“𡍣永”のところ。最初“vĩnh”系かと思ったんだけど、文脈が変なんだよね」

ランは腕を組み、画面へ顔を近づける。
しばらく黙ったあと、小さく音読した。

「Trăng chìm nơi bến vắng…」

研究室の蛍光灯の下なのに、その響きだけ急に湿って聞こえた。

「……たぶん、“人気ない渡し場”でいい思うです」
「やっぱ“bến vắng”?」
「はい。でも、“人いない”だけじゃないですね」

ランは言葉を探すように首を傾げる。

「舟もう来ない感じ。音ない感じ。夜、水だけある感じ」

那由他は慌ててメモを取った。

「うわ、それだ。日本語にすると全部説明っぽくなる」
「ベトナム語、景色を並べるです」

ランは少し笑う。

「月、沈む、渡し場、静か。……それで、もう空気わかるです」

那由他はノートパソコンへ視線を戻した。

月を読むつもりが、
気づけば湿気を読んでいる気がした。

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