【小説・ヴィーナス症候群】[512]七転び、やっと起き
この世界では、生まれつき両腕のない女の子が一定の割合で生まれてくる。
理由は分かっていない。彼女たちは「ヴィーナス児」と呼ばれ、成長すると、アパレル業界で着用モデル、いわゆる「トルソーさん」として働く者も多い。
麻帆は、そのどれでもなかった。
動画配信者。
しかも、わりと下品で、わりと正直なタイプの。
炎上もした。
泥酔配信もした。
誹謗中傷を示談にしなかった結果、自殺される騒ぎにまでなったこともある。(第269話)
七回どころではない転び方をして、
ようやく最近、義手をつけなくても生活が回るところまで来た——そんな頃だった。
「ぜひ、道徳の教科書の題材にさせてください!」
オンライン会議の画面越しに、教科書会社の編集者は、はっきりとそう言った。
「きっかけは、あの配信です」
画面に映し出されたのは、短い切り抜き動画だった。
麻帆が足を器用に使って、自分の髪を三つ編みにしている場面。(第24話)
麻帆は、少しだけ視線を落とした。

あれは努力の象徴でも、生活の工夫でもない。
“やってほしい”と言われて、
“お金をもらったから応えただけ”の行為だ。
「困難を工夫で乗り越える姿。
“七転び、やっと起き”という単元に、理想的です」
「……私、結構いろいろやらかしてますけど」
麻帆が言うと、編集者は即座に頷いた。
「過去の失敗として整理できます」
整理。
脚色。
載せやすい形にする、という意味だ。
「酒飲みながら配信してますし、人と揉めたこともあります」
そこまで言って、少し間を置く。
「……通報して自殺された件も」
編集者の手が、わずかに止まった。
「そのあたりは、教材では触れません」
やはり、そう来る。
三つ編みは残る。
スパチャは消える。
判断の重さも、後に残った感情も、消える。
「……私みたいなのが、教科書に載っていいんですか」
ぽつりと落ちた言葉に、
編集者たちは一瞬だけ黙り、それからこう答えた。
「“理想的な人”としてではありません。
前向きに生きた例として、です」
前向き。
便利な言葉だ。
会議が終わったあと、麻帆は床に座り込んだ。
ノートPCの前。
足元には、空き瓶が転がっている。
ここが、七回転んだ場所だ。
お金に応えて三つ編みをした夜も、
正しいと思って選んだ行動に迷いが残った日も、
全部、この部屋にある。
教科書が欲しがるのは、
立ち上がった瞬間だけ。
でも現実は、
立ち上がっていいのか悩む時間の方が、ずっと長い。
「……やっと起き、って言っていいのかな」
そう呟いて、麻帆は配信アプリを開いた。
七転び、やっと起き。
その途中経過を知っているのは、
今のところ、麻帆だけだ。
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