【小説・ヴィーナス症候群】[269]スクショシュシュシュ
麻帆は、自分でも信じられないほどの勢いで階段を駆け上がっていた。YouTubeのチャンネル登録者数が、気がつけば100万人を突破していたのだ。
「夢みたいな話だよね…」
かつて、ドンキの安酒やコンビニの発泡酒を背景に泥酔配信していた自分が、いまやドンペリを開けている。信じられないほど生活のレベルは上がった。
だが、麻帆の胸の奥に広がっていたのは幸福感だけではなかった。
——なぜ増えたのか。
理由は二つあった。一つは、あの忌まわしい「ぱんつっち」食人事件。遺体発見のきっかけを作ったことで、一気にメディアに取り上げられた。(第187話・第199話)
もう一つは、国民的ユーチューバー・ンォーラーのショートドラマに出演したことだ。世間に「麻帆」という存在が強引に引き上げられたのだ。(第230話)
だが、視聴者の層も一変した。かつての泥酔配信は、酔った勢いで「ブスのカタワ」と罵られ、「僕もクソ田舎のゴミクズだし」と自虐で返す——そんな暗黙のお約束の上に成立していた。ある種の共犯的な笑い。
だが今は違う。届くコメントは、ただの罵倒とセクハラの嵐だった。もう笑えない。もう楽しくない。泥酔配信は、苦痛そのものに変わってしまった。
麻帆は決断した。
「通報してやる。警察沙汰にしてやる」
そのためには証拠が要る。スクショを取りまくった。画面を押すたび「シュシュシュ」と小気味よい音がする。——“スクショシュシュシュ”。
やがて効果は現れた。
最初に釣れたのは、仙台に暮らす定年退職したばかりの63歳の男だった。
「カタワに生まれたなら人間やめろ」「乞食みたいに配信で小銭稼ぎか」
そんな言葉を、深夜の配信に欠かさず書き込んでいた。
麻帆はスクショを重ね、警察に提出した。
「証拠はこれだけあります」
やがて、警察が発信者情報の開示を進めた。そこで明らかになったのは、仙台市在住の男で、勤務先を退職したばかりの元会社員。そして出身校として「東北桜丘高校OB」と名乗っていたことも判明した。
「……定年退職して暇だからって、やることがこれ?」
麻帆は呆れと怒りをないまぜにしながら、受理番号を受け取った。
SNS上の暴言は、もはや“意見”ではなく犯罪の証拠に変わったのだ。
麻帆は鼻で笑い、ひとつ息をついた。
「スクショシュシュシュ……これで一人目、終了」

次のゴミクズの身元もすぐに割れた。
こいつは「カタワなら1000円で体売れ」だの「アソコに筆差して習字書け」だの、見るに耐えないセクハラを四六時中書き散らしてきた。
そしてある日、通知が届いた。
「弁護士がそちらに伺う」とのことだった。
——はぁ? 一丁前に弁護士?
実家が太いボンボンか? いいだろう、何億円でもふんだくってやる。
その弁護士が実際に現れた。重い顔で口を開く。
「依頼人は、名古屋の自動車部品メーカーの部長でして……」
麻帆は呆然とした。
「そんな大会社の部長が、何やってんだよ? しかも真昼間から書き込みしてたよね。——仕事中も?」
弁護士は一瞬だけ口ごもり、言い訳めいた説明をした。
「……構造不況や円安の影響で業績が厳しく、精神的に追い込まれていたのは事実です。しかし、だからといって許されることではないと、本人も認めております」
「へえ、ストレスなら何書いてもいいんだ?」
麻帆は肩を震わせながら鼻で笑った。
「また、娘さんと息子さんが東京の私立大学に通っており、経済的負担も大きい状況でして……どうにか示談にできませんでしょうか」
「だったらクソみたいな書き込みするな。それだけでしょ」
弁護士は深く息をついた。
「……おっしゃる通り、勤務時間中のあのような書き込みとなれば、懲戒解雇は避けられません。退職金すら失えば、家族が路頭に迷う。依頼人は、その事態を避けるために、自ら命を断つという選択肢まで口にしているのです」
「はぁ!? 今度は泣き落とし? 散々好き放題に書いてきて? 恨むならアホな自分を恨めよ!」
麻帆の口元には、怒りと軽蔑が入り混じった半笑いが浮かんだ。
弁護士は慌ててスマホを取り出した。
「交渉は不調で……え? いま名鉄名古屋のホームですか? いや、早まらないでください! お願いですから!」
その声を聞いた瞬間、麻帆の全身から血の気が引いた。
弁護士は受話器を握りしめたまま、低い声で言った。
「……あなたが被害者であることは疑いようがありません。しかし、もし彼が本当に命を絶てば、世間の評価は複雑になります。あなたにとっても決して良い影響ばかりではない……その点だけは、どうかご理解いただきたいのです」
数分後、麻帆のスマホに通知が入った。
《名鉄名古屋駅で人身事故。スーツ姿の男性》
全身が冷たくなる。震えが止まらない。
スマホの通知が鳴りやまない。ニュース速報の次は、SNSのトレンドだった。
《名鉄名古屋》《ミュースカイ運休》《特急全滅》《空港どうすんの》
タイムラインを覗くと、怒号と悲鳴と興奮が入り混じっていた。
「よりによって名鉄名古屋で人身とか、地獄絵図確定」
「今、犬山線の特急に閉じ込められてる。車内ざわざわヤバい」
「空港行けない!国際線どうしてくれるんだ!」
「名鉄全方面ストップ、マジで“愛知の心臓”が止まった」
「運転再開の見込みなし、ってアナウンス流れた。詰んだ」
鉄道マニアの書き込みも目立った。
「名鉄名古屋で人身って歴史的事件。ダイヤ全崩壊だぞ」
「JRと地下鉄に逃げろって、そんな簡単に代替できるわけない」
「枇杷島や金山で折り返しとか無理ゲー。これ完全に詰んだ」
「事故ったのが特急ホーム側だったらマジで詰み」
さらに地元民の実感も溢れる。
「名鉄止まると職場に行けん。バスに並んでも動かん」
「愛知県民の通勤ライフラインが死んだ」
「今日は県民大移動日?ってくらい混雑してる」
そして混乱は空港利用者にも広がっていた。
「ミュースカイ全滅、セントレア便に間に合わん!」
「帰省シーズンにやめてくれ、飛行機逃す」
「タクシー乗り場が戦場になってる」
怒りと困惑と鉄ヲタ的実況が、滝のように画面を流れていく。
麻帆は肩を震わせ、画面を直視できなかった。
「……私が、この騒ぎの引き金を……?」
泡の消えたシャンパンが、静かに部屋の片隅で光を失っていた。
「もう……YouTuberなんて、やめようかな」
麻帆は声にならない声でつぶやいた。
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