【小説・ヴィーナス症候群】[666]未完全人間
ナイトプールの水面は、光を細かく砕いていた。
青や紫のライトがゆらゆらと揺れて、どこか現実感のない空間を作っている。
舘合翠は、その日だけは何があっても定時で上がると決めていた。
大手広告代理店・鎮貪舎の庶務課は、こういう決意がなければずるずると残業に飲み込まれる部署だ。
定時のチャイムと同時に立ち上がり、周囲の視線を軽く受け流して会社を出た。
総武線の黄色い電車に揺られ、江戸川を渡る。
東京を離れて千葉に入ると、少しだけ空気が変わる気がした。
「翠!」
谷津ヘルスセンターの最寄り駅で、三浦佐和が大きく手を振る。
佐和とは年末年始にオーストラリアに行った仲だ。(第511話)
「早かったじゃん」
「今日は絶対帰るって決めてたから」
佐和が笑いながら言う。
「翠のとこ、すごいよね〜 谷津ヘルのタダ券もらえるなんて」
「私なんて庶務だよ。たぶん、備品と同じ扱い」
「またまた〜」
笑いながら更衣室に入り、水着に着替える。
翠は迷いなく義手を外した。肩が軽くなる。
屋内プール――谷津ヘルスセンターのナイトプールは、この季節でも人で溢れていた。
カップルや女子グループが至る所で写真を撮り、グラスを片手に水辺で笑っている。
昭和の名残をどこかに残した施設なのに、無理やり今風のライトで飾られているのが、かえって不思議な華やかさを生んでいた。
翠は水に足を入れ、ゆっくりと歩いた。
そこには小柄な老人が立っていた。
――なんで、ここに。
そう思った瞬間だった。
「……未完全人間だ」
「……えぁ?」
間の抜けた声が出た。

未完全。
人間。
頭の中で言葉が分解される。意味が、うまく繋がらない。
じゃあ、完成するの?
何が? 腕が?
老人はそれ以上何も言わず、ただこちらを見ている。
怒っているわけでも、笑っているわけでもない。
怒るべきなのか、笑い飛ばすべきなのか、それとも――そもそも、何に対して反応すればいいのかが分からない。
水の音だけが、やけに大きく聞こえる。
「何なの?あの耄碌ジジイ」
隣に来ていた佐和が、小声で言った。
「さあ……市民プールと間違えたんじゃない?」
自分でも驚くほど普通の声で、翠は答えた。
周りでは、誰かが笑っている。
別の誰かが、写真を撮っている。
水面は変わらず、光を砕いている。
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