【小説・ヴィーナス症候群】(511)女二人海外旅行
第1章 ボーナス直後
冬のボーナスが出て、数日経った頃だった。
駅前のカフェで、舘合翠は義手の指先でカップを押さえた。
向かいに座る三浦佐和は、コートを脱ぎながら笑った。
「やっと会えたね。あの時はタイミング悪くてさ」
――あの時。
筑波山の麓まで、放浪癖のある上司を連れ戻しに行かされていた途中。(第478話)
揺れるバスの中で届いた、「久しぶりに会おうよ」というLINE。
「仕事、相変わらず?」
佐和が聞く。
「うん。回収係」
翠は肩をすくめる。
少し沈黙してから、佐和が言った。
「ねえ。ボーナス出たしさ」
「海外行かない?」
翠は一瞬、義手を見たあと、佐和の顔を見た。
「……海外?」
「うん。年末年始。今しか行けなくない?」
――働いて、ちゃんと給料をもらって、
少し余ったお金で、遠くへ行く。
その“資格”を、二人とも手に入れた、ということだった。
翠は小さく笑って、言った。
「いいね。行こうか」
第2章 成田―シドニー
成田発のLCCは、思っていたより静かだった。
深夜便で、客席の照明は落とされている。
翠は義手を外し、ひざの上に置いた。
肩口が少し軽くなる。
「佐和、今の会社どう?」
シートベルトサインが消えたころ、翠が小声で聞いた。
「家具メーカー。
海外向け多いから、英語ばっかだよ」
「家具屋さんって、そんなに外国と交流ある?」
「めっちゃある。
オーストラリア向けもあるし。
オージーイングリッシュ、癖あってさ。
最初ほんと聞き取れなかった」
翠は小さく笑った。
隣にいるだけで、少し安心する。
「シドニー着いたらさ、オペラハウスは外せないよね」
「あとビーチ。ボンダイ、行けたら行こう」
「動物園もいいな。コアラとか」
第3章 シドニー空港で別室呼び出し
機内のドアが開いた瞬間、空気の匂いが変わった。
乾いていて、少し甘い。日本とは違う匂いだった。
長い通路を歩きながら、翠は義手の付け根を無意識に確かめる。
飛行機の中で外すことはなかったが、ここから先は「海外」だという実感が急に重くなる。
入国審査の列は思ったより静かだった。
佐和は前を向いたまま、淡々と言う。
「まあ、ここからが本番だね」
「本番って……」
「入国。書類と質問。
家具の輸出よりは簡単だと思うけど」
冗談のようで、冗談じゃない言い方だった。
順番が近づくにつれ、翠の心拍が少しずつ上がる。
質問は何を聞かれるんだろう。
英語、ちゃんと聞き取れるだろうか。
カウンターの前で、二人ともパスポートを差し出した。
係官の視線が、一度、翠の肩で止まる。
ほんの一瞬だったが、確かに止まった。
「…You, wait a moment」
翠のパスポートが、横に置かれる。
「え?」
隣を見ると、佐和も同じように促されていた。
「まあ、だよね」
佐和は小さく肩をすくめる。
驚きも、不満もない。
二人は一緒に数歩進み、
その途中で、自然に分けられた。
「You, this way」
「You, wait here」
佐和の背中が、人の流れに紛れて見えなくなる。
翠は、ひとりで立ち止まった。
(あ、別々なんだ)
説明はない。
理由も分からない。
ただ、
ここがもう「観光地」ではないことだけは、
はっきり分かった。
係官に促され、翠は椅子に座る。
周囲の英語は早く、断片的で、意味がつながらない。
分かるのは、
wait
それだけだった。
翠は天井を見上げて、ゆっくり息を吐いた。
(佐和は、平気なんだろうな)
そう思った瞬間、
それが少しだけ、悔しかった。
「どうして……?」
呼び止められた瞬間、言葉が先に漏れた。
自分でも驚くほど、小さな声だった。
「何か、悪いことしました?」
係官は答えず、手で奥を示した。
列から外される。
佐和の姿が、視界の端で一瞬だけ揺れて消える。
――え、別々?
足が止まりかけたが、促されるまま歩いた。
白い壁。
プラスチックの椅子。
思っていたより、普通の部屋。
「Sit here.」
言われた意味は分かった。
座る。
パスポートを渡し、質問が始まった。
「Why are you visiting Australia?」

……観光。
そう言えばいいのは分かっているのに、喉が一瞬つかえた。
「Sightseeing.」
声が、少しだけ裏返った気がした。
「How long will you stay?」
「One week.」
「Who are you traveling with?」
「My friend.」
英語は、教科書みたいに短い。
単語は分かる。
でも、何を確認されているのかは、分からない。
「Do you plan to work in Australia?」
work。
その単語だけが、やけに大きく聞こえた。
「No. No work.」
「Any business activities? Meetings?」
business。meeting。
大学受験で見た単語ばかりなのに、胸がざわつく。
「No. Only sightseeing.」
係官は頷き、端末に何かを打ち込んだ。
画面を見つめたまま、しばらく何も言わない。
英語が飛ぶ。
速い。
拾えるのは、check と wait だけ。
「Please wait here.」
待つ。
待つ理由は、分からない。
椅子に座ったまま、時間だけが進む。
自分の答えが正しかったのか、伝わったのか、分からない。
――私、今、何を判断されてるんだろう。
怒られてはいない。
でも、安心させられてもいない。
しばらくして、突然、顔が上がった。
「Okay. You can go.」
それだけ。
「……Okay.」
パスポートを受け取り、立ち上がる。
足が、少し重い。
出口の向こうで、佐和が待っていた。
「大丈夫だった?」
「……うん。たぶん」
自分でも、何が終わったのか分からないまま、頷いた。
パスポートを返され、翠は半ば突き出されるように通路へ戻された。
頭の中が、まだ追いついていない。
(どうして?
何か悪いことした?)
自分の英語が変だったのか。
答え方を間違えたのか。
考えが堂々巡りを始めたところで、向こうから佐和が歩いてきた。
「終わった?」
「……終わった、けど」
翠は思わず声を荒げた。
「何なのよ、あれ!
意味わかんないんだけど!」
佐和は肩をすくめる。
「まあ……最近、日本から sex worker 多いみたいだから」
「……セックスワーカー?」
耳慣れない単語を、翠はそのまま繰り返した。
「こんなロボットみたいなセックスワーカー、
需要ないでしょ!」
義手の肩を、無意識にすくめる。
佐和は一瞬だけ翠を見て、淡々と言った。
「でも、脚は綺麗だよ」
「ちょっと、フェチみたいなこと言わないで」
噛み合わない会話のまま、二人は歩き出す。
空港の天井は高く、やけに明るかった。
第4章 ホテル
部屋に入った途端、翠はベッドに倒れ込んだ。
靴も脱がず、義手も外さないまま。
天井が白くて、やけに遠い。
空港の別室の椅子より、ずっと柔らかいはずなのに、身体が動かなかった。
「シャワー、先使う?」
佐和の声がする。
スーツケースを開ける音が、規則的に響く。
「……あとでいい」
それだけ言って、翠は目を閉じた。
眠いわけじゃない。
時差も、ほとんどない。
ただ、
分からない英語で、
理由も分からないまま、
値踏みされた感覚だけが、身体に残っていた。
さっきの質問。
work
wait
okay
意味は分かるのに、
どういう立場だったのかだけが、最後まで分からない。
ベッドの上で、義手の肘が少し冷たい。
翠は無意識に、その感触を確かめた。
「……今日は、もういいや」
誰に向けた言葉でもなく、そう呟く。
窓の外では、シドニーの夜が始まっている。
でも翠の中では、
旅はまだ、入口にすら立てていなかった。
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