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【小説・ヴィーナス症候群】(13)トルソーさんが歩いた日

 「あなた、トルソーさんやってるんでしょう? だったらこの案件、話だけでも聞いてみない?」

 声をかけられたのは、いつもの試作室だった。
 差し出された名刺には、有名ブランドの名が刻まれていた。
 そして提示されたのは、“国内有名コレクションへの出演”という言葉だった。

 ずっと、誰にも注目されずに立ち続けてきた。
 マネキンのように、静かに。
 「動かないこと」に価値がある、それが“トルソーさん”の仕事だった。

 でも、今回は違った。
 動いていい。歩いてほしい。
 そう言われたとき、足がすくんだ。
 私は、モデルじゃない。ただのヴィーナス児の試着担当者だ。
 それでも、「あなたじゃなきゃだめなんです」と言われた。

 そして、ウォーキングの特訓が始まった。



 モデルとしての動きは、まったくの素人だった。
 ヒールで歩くだけでもふらついた。視線が下がる。脚の動きに表情が出ない。
 講師の女性は、容赦なく指摘した。

 「莉子さん、背筋はまっすぐ。でも、見られる覚悟がまだ足りない」

 義手を外した状態の肩を、何度も鏡で見た。
 視線を真正面に置き、ゆっくりと歩く。
 最初は「演じている」感覚だった。だけど、回を重ねるごとに、何かが体に染み込んでいった。

 「堂々と。“無い”ことを気にしないんじゃなくて、“ある”こととして歩いてください」

 ヴィーナス児としての自分を、ただの「制約」として受け止めるのではなく、構造として魅せる。
 布と一体化するために、“形の違い”を怖がらない。
 それが、求められている役割だった。



 そして、迎えた当日。
 控室には、国内外の有名モデルたちが並んでいた。
 脚の長さ、顔の小ささ、姿勢の美しさ――すべてが“仕上がっている”人たちの中に、自分が混ざっていることに、莉子は思わず呼吸を浅くした。

 背後からスタッフにドレスの裾を整えられながら、ふと隣を見ると、深紅のドレスを着たモデルがこちらを見ていた。
 目が合った。
 ほんの一瞬、その視線に戸惑いが滲んだのを、莉子は見逃さなかった。

 「あの……」
 そのモデルが小さく口を開いた。
 「あなた、腕……あ、ごめんなさい、変な意味じゃなくて」
 「大丈夫です」
 莉子は小さく笑った。
 「見られるの、慣れてますから。立ってただけの頃よりは、今の方がずっと緊張しますけど」

 その返しに、相手は小さく笑い返した。
 「……堂々としてて、すごいなって思って」

 その言葉で、控室の空気が少し緩んだ。

 同じステージに立つモデルたちにも、最初は“異物”として映ったかもしれない。
 でも、立ち方、振る舞い、目線――そのどれもがプロとして通用するものであれば、やがてその違和感も溶けていく。



 舞台袖。
 深緑のドレスのスリットから、脚がのぞく。
 高揚と緊張が胸の奥でせめぎあう。

 「いけるよ、莉子さん。練習通りで」

 スタッフの声が背中を押す。
 そして、音楽が鳴る。

 一歩、また一歩。
 ライトの下を歩くたび、観客の視線が集まる。
 ドレスの布が、肩先のラインをなぞり、空へ向かって弧を描く。

 腕がないことが、布の形を引き立てる。
 スリットが揺れる。脚が現れる。
 私はただ、前を見て、まっすぐに歩いた。

 ヒールの音、拍手、フラッシュ。
 そのすべてが、モデルとしての私を包み込んでいく。

 舞台裏に戻ったとき、深紅のドレスの彼女が言った。
 「すごかった。……なんていうか、服があなたを選んでたみたいだった」

 莉子は、息を整えながら言った。

 「ありがとう。やっと、“立ってるだけ”じゃなくなれた気がします」

 肩先に落ちる布の感触が、まだほんのりと熱を帯びていた。
 あのステージに残したのは、ただの体の形じゃない。
 生きているヴィーナス児の輪郭だった。

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