【小説・ヴィーナス症候群】(129)やめるか、やめてもらうか
第一章 呼ばれていない正義
階上つばさは、生まれつき両腕のない“ヴィーナス児”であり、当事者団体「コルチカムの会」の常勤職員である。
だが、いまの彼女にとって、かつて居場所だったはずの職場は、じわじわと信頼の置けない空気に変わりつつあった。
この日、つばさは千代田区役所の市民協働課に出向いていた。
小規模活動支援助成金の提出書類を届けたあと、すぐに戻る気にはなれず、神保町まで歩いて古書店を何軒か巡っていた。
古い文庫本の頁をめくっていると、少しだけ息がつける気がした。
午後3時前、神田の事務所に戻ると、奥の方から守実の曖昧な相槌と、新会長・瀬名川壮介の饒舌な声が聞こえてきた。
「これ、土曜の陸上大会で撮ったんですけどね。跳ぶ瞬間、屈む姿勢──いやあ、若さって素晴らしいですよ。
身体が語るって、こういうことなんですよ、“青春のきらめき”ってやつです」
机の上には瀬名川のスマートフォン。
画面には、セパレート型の陸上ユニフォームやテニススコート姿の女子中高生たち。
跳ぶ、しゃがむ、うつむく──偶然にしては構図が整いすぎている。
男子は一枚もいない。
守実は困った顔で「へえ……そうですね」と相槌を打っていた。
場の空気は明らかに重く、だが誰も止められなかった。
事務所のドアを開けたつばさの目に、その場面が飛び込んだ。
何気なく目を向けたスマートフォンの画面──
跳躍する少女の太もも。風にめくれるスカート。しゃがむ背中。
つばさの足が止まった。
わずかな時間、言葉を失った。
そして無言のまま、事務机に歩み寄り、義手の指で電話の受話器を取り、静かにダイヤルを押した。
「……110番ですか。千代田区神田にある“コルチカムの会”という団体です。
今、うちの会に来ている男性が、女子中高生の写真──スカートの中が写ってるような写真を大量にスマホに保存していて……
盗撮じゃないかと思って。怖いので、来てください」
受話器を戻す音だけが、室内に響いた。
瀬名川が突然、顔を引きつらせて立ち上がった。
「自分がどんなことをしてるのか、分かってるのか!」
つばさは一言も返さなかった。
⸻
約30分後──
千代田警察署から派遣された制服警官が2名、事務所に入ってきた。
一人は地域課の巡査、もう一人は巡査部長。静かながらも職務に忠実な眼差しだった。
「通報された方は?」
「私です」
つばさは、義手の指で瀬名川のスマートフォンを示した。
「こちらの端末ですね。確認させていただいてもよろしいでしょうか?」
警官が瀬名川に声をかける。
彼は唇を結び、無言でうなずいた。

警官はビニール手袋を装着し、画面を操作して画像フォルダを確認していく。
そこには、女子中高生ばかりが写った写真が数十枚。
構図は似通っており、しゃがむ、跳ぶ、裾が舞う──明らかに傾向があった。
「……男子は一人も写っていないですね」
「この撮影、学校や保護者の許可は得ていますか?」
「公共の大会です。観覧も自由で、撮影規制はとくに……」
「苦情は?」
「ありません」
警官たちは一瞬視線を交わし、淡々と判断を伝えた。
「現時点では、都の迷惑防止条例上の“盗撮”には該当しません。
衣服の内部を狙ったとまでは判断できず、撮影場所も公的です。したがって、刑事事件としての立件は困難です」
瀬名川がわずかに息を吐いた。
だが、もう一人の警官が言葉を継いだ。
「ただし──対象年齢の偏り、構図の傾向、保存枚数等から判断して、
社会的な不適切性は否定できません。本日をもって“指導”として地域記録に残します。
次回、類似の通報があった場合には、捜査対象とする可能性もあります」
「団体内での管理体制についても、見直しをご検討ください」
それだけ言って、警官たちはつばさに一礼し、静かに事務所を去っていった。
ドアが閉まったあと。
つばさが、吐き捨てるように言った。
「逮捕しないの? 使えねー警察」
守実は、黙ったまま目を逸らした。
瀬名川は鞄も取らず、ただ無言で事務所を出ていった。
⸻
数日後、一通の封筒が届いた。
差出人は瀬名川壮介。
中には、簡素な辞表と、たった一行の文面が入っていた。
「コルチカムの会は、私のような人間を必要としていないようです」
第二章 差し出しかけた封筒
階上つばさは、生まれつき両腕のない“ヴィーナス児”であり、当事者団体「コルチカムの会」の常勤職員である。
──それはまだ、続いていた。書類を提出しない限りは。
辞表は、もう書いていた。
文面は簡潔で、A4一枚。封筒にも宛名を書いてある。
ただ、まだ誰にも渡していなかった。
守実も、善江さんも、何も言わない。
けれど、つばさはわかっていた。自分がいなくなったあと、いちばん困るのはこの二人だ。
助成金の申請も、出欠管理も、SNSの更新も。
善江さんは紙と人の段取りは得意だが、パソコンには弱い。守実は外向きの調整はできるけれど、内部の細かい運営は苦手だ。
(私がいなくても回る会にしなきゃいけない、なんて思ってたけど……)
(……それって、辞める前提じゃない?)
じゃあ、なんで辞めようとしたのか。
──瀬名川を、傷つけたと思ったからだ。
あの通報。あの通報のあとに、黙って去っていった彼の背中。
いくら相手が悪かったとはいえ、あんな去らせ方でよかったのか。
封筒を手に取ってみては、また机の引き出しに戻す。
それを数日、繰り返していた。
⸻
その夜。
テレビをつけっぱなしにして、夕食の洗い物を終えたころだった。
「──続いては、“教育と障害”をテーマにした公開フォーラムの話題です。
登壇したのは、教育評論家の瀬名川壮介さん──」
(は?)
つばさはテレビの方へ振り返った。
画面には、ネイビーのジャケットを着て座る瀬名川が、例の穏やかな語り口で話していた。
「未熟な若者は、時に刃のように周囲を傷つけます。
けれど教育とは、その刃を責めることではありません。
彼らがいつか手放すその日まで、隣に立ち続けてやること──それが教育者の責任です」
つばさはしばらく無言だった。
やがて、テレビのリモコンを手に取り、無言でチャンネルを変えた。
(……どんなメンタルしてんの、あの人)
(こっちは辞表まで書いて、自己嫌悪と後悔で胃キリキリさせてるのに……)
(……落ち込んだ私がバカみたい)
机の引き出しを開け、封筒を取り出す。
しばらく眺めてから──くるくると筒状に丸めた。
⸻
翌朝。
つばさは神田の事務所の前に立っていた。
ドアを義手で押しながら、何食わぬ顔で中に入る。
「あれ、つばさちゃん……」
善江が驚いたように言いかけたが、つばさはそのまま、いつもの席に座った。
「おはようございまーす!」
返事を待たずに言ったその声は、
昨日までより少しだけ、まっすぐだった。
