【小説・ヴィーナス症候群】(104)会長の交代
第一章 交代の季節
神田の古いビルの三階、蛍光灯の光がぼんやりと照らす事務局の会議室には、金曜日の午後らしい気だるい空気が流れていた。
机の上には、コルチカムの会の総会資料がばさりと重なり、階上つばさはプリンターから出てきた議案書を義手で揃えながら、何度目かのため息をついた。
「会長の交代かあ……」
設立から20年以上になるこの団体は、ヴィーナス児とその家族による当事者団体として地道に活動を続けてきた。現在の会長は、初期から関わっていたメンバーの一人──今はもう活動を離れたヴィーナス児の父親だった。
年明けの雑談のなかで、その人がふとこんなことを言ったのがきっかけだった。
「いやあ、最近ね、“あの頃のお父さんたち”も、もう杖ついて歩いてるんですよ」
まるで他人事のように笑っていたが、それは自分がこの役を降りる時が来たという意思表示だった。
つばさはそのとき、返す言葉に詰まった。
「そっか……」
机の向こう側で、事務局長の守実徹がホチキスを鳴らしている。元・市役所福祉課長、柔らかい物腰と現場への理解でつばさからも信頼されているが、なにせ紙の整理にはうるさい。
「総会資料、あと20部で足りると思うけど」
「うん。副議長案は通るよね、善江さんが指名されたらきっと納得するし」
善江──今諏訪善江は古参の母親メンバーで、いまや事務局の“生き字引”のような存在だ。実質、守実と善江とつばさがこの会を回しているようなものだった。
その日の午後、守実がぼそっと切り出した。
「次の会長さ……瀬名川さんって人になるんだって」
つばさは、コピー用紙を止めたまま小さく首を傾げた。
「せながわ……? 聞いたことあるような、ないような……」
そこへ、ホワイトボードの前で書類を分類していた善江が振り返る。
「あら、瀬名川さん? あの人、テレビ出てたじゃない。教育のなんとかで」
「えっ、テレビ……?」
つばさの目が少し見開かれる。
「すごいじゃない。コルチカムの会も有名になったってことじゃん」
守実は苦笑気味に言った。
「“障害のある子たちの力になりたい”ってさ。今は教育評論家やってるらしいよ。定年後に講演とか出版とかしてて──ま、顔も利くし、何かと役には立つんじゃない?」
「そっか……なんか、すごいね」
つばさは、まだ実感の湧かない気持ちでプリンターに手を戻した。
第二章 総会の日
春とは名ばかりの風が、神田の裏通りを抜けていく。
事務局の入っている古いビルの一室では、テーブルが折りたたまれ、パイプ椅子が並べられ、プロジェクターのテストが繰り返されていた。
「資料はこの順番でいいわよね?」
「はい。守実さんが議長、今諏訪さんが副議長。挨拶は──あ、新会長が来たらの段取りですよね」
「そうそう。今のうちに控室に案内して」
つばさはスニーカーのまま会議室を横切り、廊下の先の控室へ向かった。
ノックして開けると、そこにいたのは、ベージュのジャケットに淡い水色のシャツを着た、細身の年配の男性だった。
「こんにちは。瀬名川壮介です」
声は柔らかく、口元に絶えず微笑がある。どこか“テレビの人”っぽい、とつばさは思った。
彼は立ち上がり、「お世話になります」と軽く頭を下げた。その仕草も、穏やかで上品だった。
(感じのいい人だな)
それが、つばさの最初の印象だった。

「お呼びにあずかって……正直、私なんかでいいのかと。でも、こうして“身体のあり方”と向き合う皆さんの活動に関われるのは、本当にありがたいことだと思っています」
どこか“収録中”のような口調ではあったが、嫌味ではなかった。
つばさは思わず背筋を伸ばして、会場までの導線を説明した。
「前の会長さんは、うちのメンバーの保護者だったんですよね。だから、今回初めて“外部”の方がトップになるんだと思うと、ちょっと不思議で」
「なるほど。私はね、“当事者の声を聴く”ってことにずっと興味があって……でも、ただ“聴く”だけじゃなくて、“寄り添う”っていうのかな。そういう関係を築けたらいいなって思ってるんですよ」
寄り添う。
その言葉は、過去にも何度か聞いたことのあるフレーズだった。
うまくいくときもある。けれど、どこかずれてしまうことも、あった。
つばさはふと、控室の窓から見える神田の街を眺めた。
⸻
その後の総会は、滞りなく進んだ。
議長の守実徹、副議長の今諏訪善江、司会進行の若手スタッフ。
会員からの質疑も数件にとどまり、最後に前会長が「まあ、年ですからねえ」と穏やかに笑って退任の挨拶をした。
そして、瀬名川が前に立ち、マイクの前で話し始めた。
「“身体が語る”ということについて、私はずっと考えてきました。障害があるということは、社会に対して“存在そのものがメッセージである”ということでもあると思うのです──」
一言一言を、丁寧に区切って話す。
教育評論家らしく、言葉の選び方に“伝えること”への自覚があるのはわかった。
会場の一部からは頷きも見えた。
けれど、つばさはふと、冷静な自分に気づいた。
言葉の間に、どこか“説明されている”ような感じがするのだった。
(あれ……なんか、変だな)
そう思いながらも、拍手の中で新会長は任命された。
