【小説・ヴィーナス症候群】(753)痴漢に大ケガをさせた結果
その朝、サイセイ義肢の工房は、火が消えたみたいに静かだった。
機械は動いている。研磨機の低い音も、コンプレッサーの吐息もいつも通りだ。けれど、人の会話がない。
着装モデル“トルソーさん”の割出結菜が、この一週間、来ていない。
総務は事情を把握しているらしいが、現場には何も降りてこない。事故か、逮捕か、まさか寿か――そんな噂だけが、ぼんやりと漂っていた。
そのとき、自動ドアが開いた。
「おはようございます!」
明るい声に、何人かが顔を上げる。
入口に立っていたのは、濃いメイクのギャルだった。
高めにまとめた髪、強めのアイライン、盛ったまつ毛。タンクトップにデニムのミニスカート、ロングブーツ。場違いなほど派手だ。
そして、両肩からは無機質な義手。

一瞬、誰も反応できない。
「……え、利用者さん?」
「でしたら待合の方で……」
そう言いかけて、止まる。
ギャルが義手で箱を差し出した。
「金沢のお土産でーす。起上もなか」
デニムのミニスカート。
義手。
金沢土産。
頭の中で、点がつながる。
「……え」
「……あれ」
「ちょっと待って」
ナマミちゃんが一歩前に出る。
「もしかして……結菜ちゃん?」
「はい、結菜ちゃんです」

そこへ、奥から義肢装具士の碓氷が出てくる。
「なんだ朝から……」
視線が止まる。
「……失礼ですがどちら様で……」
一拍置いて、眉をひそめる。
「……まさか結菜ちゃん?」
「そうですけど」
「どうしたの?そんなギャルになっちゃって」
「ちょっと……電車で痴漢に遭っちゃったんですよね」
場の空気が変わる。
「痴漢……それはまた……」
「で、手を払いのけようと思ったら、当たり所が悪かったみたいで動かなくなったとか言い出して、病院送りになっちゃったんです。手がブラーンってなってて、これマ?って感じだったんですけど」(本編742話)
「やばくない?」
「まあ、そっちの方は正当防衛でどうにかなりそうな感じなんですけど」
結菜は少しだけ間を置く。
「そのあと駅で止められて、駅事務室で事情聞かれて。警察も来て、調書取られて。相手は救急で運ばれてって……」
「……大事じゃねえか」
ナマミちゃんが顔をしかめる。
「で、それで終わりじゃないんでしょ?」
「はい。会社にも連絡いってて、総務の人が警察とやり取りしてくれて。“今日はもう帰っていいから、しばらく休みなさい”って言われました」
「そうだったんだ…」
「あと、“相手が怪我してる以上、あとで何か請求とか来る可能性あるから、ちゃんと相談しなさい”って」
「そりゃ来るだろうな」
「ですよね。で、“弁護士とか分からなかったら、法テラス行けばいいから”って教えられて」
「ああ、なるほどな」
ここでようやく話が繋がる。
「正直、最初は“痴漢やっつけた”くらいに思ってたんですけど……話でかくなってきて、“え、私訴えられるの?会社クビなんの?”ってなって」
「なるよな、そりゃ」
「それでとりあえず相談だけしてきました。それと当事者団体から注意喚起のメールが来たんです。誰がケガさせたんだって痴漢の親が探し回ってるって」(第745話)
「大変だったね……」
結菜は軽く笑う。
「警官が言うんですよ。そんな大人しそうな格好してると痴漢に遭いやすいよって」
「それでそんなギャルになったの」
「言うて高校の頃はギャル高でしたし」
義手の指が、ぎこちなく箱を持ち直す。機械的な動きなのに、不思議とその仕草だけはいつもの結菜だった。
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