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【小説・ヴィーナス症候群】(32)「おはようございます」から「お疲れ様でした」まで

 両腕のない女性たちのことを、この国では「ヴィーナス児」と呼ぶ。
 先天的に両腕がない状態で生まれた人々を指す言葉で、いまでは医療用語というより、社会的な呼称として定着している。

 そのヴィーナス児の多くが就く職業のひとつが、「トルソーさん」――試着モデルの通称だ。
 展示会や撮影現場で、服を着て立ち、動くこともあるが、基本的にはマネキンのように“吊るす”ことが主な役目。
 両腕がない構造が、服をきれいに見せる用途に適しているとされ、いまや現場にはトルソーさんがいるのが当たり前になっている。

 呼続芽衣(よびつぎ めい)も、そんなトルソーさんのひとりだ。
 所属事務所には登録していない、完全なフリーランスのトルソー
 今日は、式場向け美容ブランドの展示イベントに呼ばれていた。



 「おはようございます!控室こちらになりますー」

 ホール奥の仮設更衣室に案内され、芽衣は「おはようございます」と軽く会釈する。
 その口調は穏やかで、声は小さくても通る。もう何十回も繰り返してきたやりとりだ。

 私服を脱ぎ、両肩に装着していた義手を外す。左から、次いで右。
 ケースにしまって鍵をかける動作まで、流れるように終わる。



 「芽衣さん、ドレス入りますね。最初の1着は黒地の花柄です」
 「9号のマネキンにも合わせてあるので、たぶんサイズはぴったりかと」

 「はい。脇、少しだけ浮きやすいかもしれません。そちらだけ確認を」

 芽衣が背筋を伸ばすと、フィッターがすぐ背中のファスナーを上げた。
 肩のストラップが細く、脇も大きく開いたデザイン。ピンは不要。袖がないぶん、調整も最小限で済む。



 「なんか、ほんとに“服が立ってる”って感じですね……」

 メイク担当がぽつりとこぼした。芽衣は笑って返す。

 「一応、ちゃんと立ってますけどね。人間なので」

 その言い方がツボに入ったのか、メイク担当がくすっと笑った。



 フロアに出て、展示が始まる。
 モデルたちがランウェイを歩き、写真家たちがフラッシュを浴びせる。
 芽衣は所定の場所に立ち、笑顔をやや浅めに保ちつつ、前を見つめている。

 スタッフが耳打ちしてくる。

 「今その位置、ちょうどカメラライン入ってるので、あと5分だけお願いします」

 「了解です」

 返事は短く、正確に。ステージ用のスポットが少し熱くなってきたが、表には出さない。



 午後、ステージ展示。歩行指示が出る。
 芽衣は背筋を伸ばして歩く。誰もが見る中、立ち位置で止まり、左右を見せる。
 手を振ることもポーズもない。ただ、服のラインを崩さずに歩く。それだけ。

 すべての展示が終わり、控室に戻ると、芽衣は静かに義手を装着する。左、右。
 さきほどまで無表情だった顔に、ふっと安堵の笑みが浮かんだ。

 スタッフが入口で待っていた。

 「お疲れ様でした!やっぱりフリーの方って、段取りが早いですね」

 「慣れてるだけですよ。呼んでいただいて、ありがとうございました」

 「またお願いしたいです。連絡、メールでも大丈夫ですか?」

 「はい、24時間いつでも」

 軽く一礼し、芽衣は会場をあとにした。
 人混みを抜けた先で、スマホを取り出して次の案件の確認をする。
 週末は義肢メーカーの現場。来週はブライダル撮影の予定が1件。



 名前を呼ばれることも、紹介されることもない。
 でも、衣装の中に“彼女がいた”ことは、見た人にはちゃんと伝わっている。
 それで十分だと思う。

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