小説「春を待つ庭」第六話
第六章 先生じゃない人
九月の半ば、ステップバイステップの授業が終わりかけたころ、加奈先生がスマートフォンを取り出した。
「葵さん、この前言ってた展示場所の写真、撮ってきたよ」
葵は、筆箱をしまいかけていた手を止めた。
「ありがとうございます」
そう言ってから、少し変だと思った。
頼まれているのは、自分の方のはずだった。
それなのに、加奈先生が写真を撮ってきてくれたことが、葵には嬉しかった。
一緒に何かを作っている。
そう思うと、胸の奥が少しだけ温かくなった。
加奈先生は、スマートフォンの画面を葵の方に向けた。
写真は三枚あった。
朝の写真。
昼の写真。
夕方の写真。
同じ場所なのに、光の入り方が少しずつ違っていた。
朝は、校舎の影がまだ長く伸びている。
昼は、細長いスペースの半分くらいに日が当たっている。
夕方は、ほとんど日陰になっていた。
場所は、大学の中庭の端だった。
通路沿いに、白いテープで細長い範囲が示されている。直植えではなく、そこにコンテナを並べて、小さな庭を作るらしい。
近くにはベンチがあった。
人が座れば、自然に目に入る場所だった。
「水道は、これですか」
葵は、写真の端を指さした。
「うん。ちょっと離れてるけど、一応ある」
「ジョウロで往復できる距離だと思います」
「よかった」
「でも、午後はほとんど日陰ですね」
「そうなんだ」
加奈先生は、葵の横で画面をのぞきこんだ。
「昼の写真だけ見たら、けっこう日が当たるのかなと思ったけど」
「時間で変わるので」
葵は、写真をもう一度見た。
右側は午後に日陰になる。
左側は人が通る時にぶつかりやすそう。
背の高いものを置くなら、奥の方。
手前は低い花の方がいい。
風で倒れないように、コンテナは軽すぎない方がいい。
写真だけでも、いろいろ見えた。
でも、写真だけではわからないこともあった。
「実際に見た方がいいかもしれません」
葵が言うと、加奈先生が少し目を丸くした。
「来てみる?」
「え」
「大学。展示場所、一回見てみる?」
葵は、すぐには答えられなかった。
加奈先生の大学。
写真の中にある場所。
自分とは関係ないと思っていた場所。
そこに行く。
「でも、私が行ってもいいんですか」
「うん。もちろん、お母さんに確認してもらってからだけど」
「はい」
「学園祭の準備ってことで、場所を見るだけなら大丈夫だと思う」
葵は、もう一度写真を見た。
白いテープで区切られた、まだ何もない場所。
そこに、何を置くのか。
何を植えるのか。
どんな庭にするのか。
考え始めると、胸の奥が少しだけ動いた。
「行ってみたいです」
小さく言うと、加奈先生はほっとしたように笑った。
「じゃあ、予定合わせよう」
◇
大学へ行く日が決まると、母は何度も確認した。
「帰りは遅くならないのね」
「うん」
「加奈先生と一緒なのよね」
「うん」
「大学って広いから、勝手に一人で歩かないのよ」
「わかってる」
父は、リビングでチラシを見ながら言った。
「大学か。葵もそのうち行くのかな」
葵は答えられなかった。
高校のこともまだはっきりしていないのに、大学のことなど考えられなかった。
母は、父の言葉に少し笑った。
「その前に高校受験でしょう」
「まあ、そうだね」
父はすぐにうなずいた。
葵は、鞄の中に植物用のノートを入れた。
筆箱も入れた。
メジャーも入れた。
メジャーは、母が裁縫箱から出してくれたものだった。
「本当に測るのね」
母が少し不思議そうに言った。
「うん。置ける範囲がわからないと、考えられないから」
「そう」
母は、それ以上言わなかった。
でも、少しだけ感心したような顔をしていた。
それが嬉しいような、恥ずかしいような気がした。
◇
加奈先生の大学は、横浜から少し電車に乗ったところにあった。
駅を出ると、学生らしい人たちが同じ方向へ歩いていた。
葵よりずっと大人に見える人もいれば、高校生とあまり変わらないように見える人もいた。
みんな、どこか自分の行き先を知っているように歩いていた。
葵は、改札の近くで加奈先生を待った。
ステップバイステップで会う時とは違い、今日は塾ではない。
塾の机も、問題集も、丸眼鏡の塾長もいない。
加奈先生は、大学生としてここに来る。
そう思うと、少し緊張した。
「葵さん」
呼ばれて振り向くと、加奈先生が立っていた。
白いブラウスでも、薄いグレーのカーディガンでもなかった。
薄いベージュのシャツに、デニム。
足元はスニーカーだった。
肩には、少し大きめのトートバッグをかけている。
髪も、塾の時よりゆるく結んでいた。
先生というより、大学生だった。
当たり前だ。
加奈先生は、大学三年生なのだから。
葵はそう思った。
それだけだった。
「こんにちは」
「こんにちは。来てくれてありがとう」
加奈先生は、いつものように笑った。
その笑顔を見ると、葵は少し安心した。
服が違っても、場所が違っても、加奈先生は加奈先生だった。
◇
キャンパスは、思っていたより広かった。
正門の近くに案内板があり、校舎の名前がいくつも並んでいる。
レンガ色の建物。
ガラス張りの建物。
ベンチのある広場。
木の多い小道。
大学生たちは、何人かで話しながら歩いていた。
カフェの前で立ち止まる人もいた。
ノートパソコンを抱えている人もいた。
葵は、その中を加奈先生の少し後ろについて歩いた。
大学は、学校とも塾とも違う場所だった。
誰かに決められて座る教室ではない。
時間割はあるのかもしれないけれど、歩いている人たちはみんな自由に見えた。
それが少し怖かった。
自由に見える人たちは、自分で選べる人に見えた。
葵には、まだ何を選べばいいのかわからない。
「人、多いよね。大丈夫?」
加奈先生が振り返った。
「大丈夫です」
「無理しないでね」
「はい」
葵は、鞄の肩ひもを握り直した。
大丈夫。
そう言いながらも、大学の空気に少し緊張していた。
でも、不思議と嫌ではなかった。
ここは加奈先生のいる場所なのだと思うと、知らない場所なのに、少しだけ近く感じた。
「ここ」
加奈先生が立ち止まった。
写真で見た中庭だった。
校舎と校舎の間に、少し開けた場所がある。
真ん中に木が一本あり、その周りにベンチがいくつか置かれていた。
展示場所は、その端にあった。
通路沿いの細長いスペース。
まだ何も置かれていない。
白いテープで、だいたいの範囲だけが示されていた。
写真で見るより、小さかった。
でも、何もないからこそ、いろいろ考えられた。
葵は、すぐにしゃがんだ。
「ここですか」
「うん。この白いテープの内側」
「思ったより奥行きがないですね」
「そうなんだ」
加奈先生は、葵の隣にしゃがんだ。
葵は鞄からメジャーを出した。
「測ってもいいですか」
「もちろん」
葵は、白いテープの端から端までを測った。
「横幅、一メートル五十センチくらい」
「写真で見たのと同じくらいだね」
「奥行きは、六十五センチくらいです」
「思ったより狭い?」
「でも、コンテナなら置けます」
葵は立ち上がって、少し離れて場所を見た。
奥に背の高いもの。
手前に低い花。
端に垂れるもの。
中央に少しだけ明るい色。
頭の中で、少しずつ形ができていく。
「水道はどこですか」
「あっち」
加奈先生が指さした。
少し離れた建物の横に、外水道があった。
「ジョウロで往復できますね」
「よかった」
「でも、展示期間中に誰が水やりするんですか」
「えっと」
加奈先生の声が少し小さくなった。
「私……かな」
「毎日ですか」
「学園祭の期間は、たぶん」
「朝ですか」
「朝、来られる日は来るけど、授業とかバイトもあるから」
「水切れしたらすぐしおれます」
言ってから、少し強かったかもしれないと思った。
加奈先生は、慌ててうなずいた。
「そうだよね。考える」
葵は、展示場所に目を戻した。
花の色や見た目より、水やりの方が大事な時もある。
日当たりより、風通しの方が問題になることもある。
かわいい苗でも、この場所に合わなければ弱る。
葵には、それが見えた。
加奈先生には、まだ全部は見えていないのかもしれない。
でも、それは当たり前だった。
加奈先生は、育てるのは初めてなのだから。
◇
葵は、ノートを開いた。
「ビオラは使いやすいと思います。まだ九月だと少ないかもしれないですけど、十月なら苗が増えてくるので」
「ビオラ」
「あと、アリッサム。白い小さい花です。手前に入れると、ふわっと見えます」
「白い小さい花」
「シルバーリーフも入れたいです。葉っぱが銀色っぽいやつです。花が少なくても明るく見えるので」
加奈先生は、必死にメモしていた。
その姿は、ステップバイステップで葵の言葉を書いてくれた時と似ていた。
葵は、少しだけ嬉しかった。
自分の言葉を、加奈先生が書いている。
前と同じだった。
でも、少し違った。
今日は、加奈先生が葵に教えているのではない。
葵が、加奈先生に伝えている。
「球根も入れたいです」
「球根?」
「チューリップとか」
「でも、学園祭って十月だよね」
「はい。咲きません」
「咲かないの?」
「春に咲くので」
加奈先生は、少し困った顔をした。
「見えないものを入れるってこと?」
「はい」
葵は、展示場所の床を見た。
「秋の庭だけど、春を待つ庭にしたいんです」
「春を待つ庭」
加奈先生が繰り返した。
「はい。今は見えないけど、土の中に春を入れておく感じです」
言ってから、葵は少し恥ずかしくなった。
大げさだったかもしれない。
でも加奈先生は、すぐには笑わなかった。
静かに、その場所を見ていた。
「いいね」
加奈先生が言った。
「その名前、いい」
葵は、胸の奥が少しだけ温かくなった。
加奈先生にそう言われると、やっぱり嬉しかった。
大学の中庭にいる加奈先生は、少しだけいつもと違う。
でも、葵の言葉をちゃんと受け取ってくれるところは、同じだった。
そう思った。
◇
中庭のベンチに座って、二人は少し休んだ。
加奈先生が、自動販売機でお茶を買ってくれた。
「大丈夫? 疲れてない?」
「大丈夫です」
「本当に?」
「少し疲れました」
「正直でよろしい」
加奈先生は笑った。
葵も少し笑った。
風が吹いて、中庭の木の葉が揺れた。
大学生たちが、何人か通り過ぎていく。
その中に、加奈先生の知り合いらしい人がいた。
「あ、加奈」
女の人が手を振った。
加奈先生は立ち上がりかけて、軽く手を振り返した。
「お疲れ」
「展示、進んでる?」
「うん、なんとか」
「ごめんね、私ほんと手伝えなくて」
「大丈夫」
「就活落ち着いたら顔出すね」
「うん」
その人は、すぐに友達と一緒に行ってしまった。
加奈先生は、もう一度ベンチに座った。
さっきより少しだけ、肩が落ちて見えた。
「今の人、展示一緒にやる予定だった人ですか」
「うん」
「忙しいんですね」
「みんな忙しい」
加奈先生は、お茶のペットボトルを両手で持った。
「就活とか、インターンとか、ゼミとか。ちゃんと進んでる人は、ちゃんと進んでる」
葵は、加奈先生の横顔を見た。
いつもの先生の顔ではなかった。
塾の長机の横で、葵のノートを見てくれる顔ではない。
大学の中庭で、同じ大学生に置いていかれている人の顔だった。
「先生も、忙しいじゃないですか」
「忙しいだけで、進んでる感じがしないんだよね」
加奈先生は、少し笑った。
でも、その笑い方は薄かった。
「エントリーシート書いても、何を書いてるのかわからなくなるし。インターンも、行けば何か見つかるかなと思ったけど、余計にわからなくなった」
「そうなんですか」
「うん」
加奈先生は、中庭の展示場所の方を見た。
「葵ちゃんは、いいね」
葵は、少し驚いた。
「私ですか」
「うん」
「何がですか」
「好きなものがあって」
加奈先生の声は、責めるようではなかった。
でも、少しだけ遠かった。
「さっきも、展示場所見た瞬間に、いろいろ見えてたでしょ。日当たりとか、水やりとか、何をどこに置くかとか」
「それは……植物だから」
「そう。植物だから見えるんでしょ」
加奈先生は、お茶のラベルを指でなぞった。
「そういうの、いいなと思う。夢中になれるものがあるの」
葵は、どう答えればいいかわからなかった。
夢中になれるもの。
そう言われると、少し違う気がした。
植物は好きだ。
でも、それで将来どうしたいのかはわからない。
仕事にしたいのかもわからない。
園芸部のある高校を少し調べたことはあるけれど、それを夢と言っていいのかもわからない。
「そんなことないです」
葵は言った。
「私、全然やりたいことなんてないです」
「でも、植物があるじゃない」
「植物は、好きなだけです」
「好きなものがあるのが、すごいんだよ」
加奈先生は、少し強く言った。
葵は黙った。
「私、大学に入ったら、何か見つかると思ってた」
加奈先生は続けた。
「高校の時は、とりあえず大学に行けばいいと思ってた。大学に入ったら、自分のやりたいことが自然に見つかると思ってた。でも、三年になって、就活が始まって、自己分析してくださいって言われて」
加奈先生は、そこで小さく笑った。
「自分のことなのに、何も書けないんだよね」
葵は、胸の奥がきゅっとした。
加奈先生が、こんなふうに話すのを初めて聞いた気がした。
塾では、加奈先生はいつも葵の話を聞いてくれた。
葵のわからないところを見てくれた。
できているところを見つけてくれた。
でも今は、加奈先生が迷っていた。
葵は、何か言わなければと思った。
でも、何を言えばいいのかわからなかった。
加奈先生が自分に言ってくれた言葉を、思い出した。
ゆっくりやろう。
今どこにいるか見る。
ちゃんと見る。
抜けたら戻す。
葵は、手元のお茶を見た。
「先生は」
声が少し震えた。
「先生は、そのままでいいと思います」
加奈先生が、葵を見た。
葵は、言葉を続けた。
「すぐに見つからなくても、いいと思います。ちゃんと見れば、少しずつわかると思うし」
言いながら、自分でもうまく言えているのかわからなかった。
「先生は、私のこと、ちゃんと見てくれたから」
加奈先生の表情が、少し揺れた。
「だから、先生も、そのままで……」
「そんなの、無理だよ」
加奈先生の声が、葵の言葉を止めた。
大きな声ではなかった。
けれど、はっきりしていた。
葵は、何も言えなくなった。
加奈先生は、言ってしまった後で、自分でも驚いたように目を伏せた。
「ごめん。でも……」
加奈先生は、ペットボトルを握ったまま、続けた。
「葵ちゃんは子供だから、そんなこと言えるんだよ」
風の音が、少し遠くなった。
子供だから。
そんなこと言える。
加奈先生自身も、言ってから気づいたような顔をした。
「あ、違う。今のは」
葵は、加奈先生を見た。
何も言えなかった。
その瞬間、加奈先生が急に遠くなった。
いや、遠くなったのではない。
近くなりすぎたのかもしれない。
先生ではなく、大学三年生の小日向加奈という人が、そこにいた。
迷っていて、疲れていて、葵の言葉を受け取れない人。
葵は、そのことに傷ついた。
でも、勝手に傷ついている自分にも、少しがっかりした。
先生だと思っていたのは、自分だった。
何でも受け止めてくれる人だと思っていたのも、自分だった。
迷わない人だと思っていたのも、自分だった。
加奈先生は、最初から大学生だった。
先生じゃない時もある人だった。
それだけのことなのに。
葵は、なぜか裏切られたような気持ちになっている。
そんな自分が嫌だった。
「葵さん」
加奈先生が呼んだ。
葵は、返事をしなかった。
返事をしたら、何か言ってしまいそうだった。
責める言葉かもしれない。
ごめんなさいかもしれない。
どちらも言いたくなかった。
◇
帰り道のことを、葵はあまり覚えていなかった。
加奈先生が何かを言った気がする。
駅まで一緒に歩いた気がする。
電車に乗る前に、「今日はありがとう」と言われた気もする。
葵は、たぶん「はい」と答えた。
でも、声が出ていたかどうかはわからなかった。
家に帰ると、母が聞いた。
「大学、どうだった?」
葵は靴を脱ぎながら答えた。
「普通」
「疲れた?」
「少し」
「展示場所は見られたの?」
「うん」
「そう。ならよかったわね」
葵はうなずいて、自分の部屋に入った。
鞄を机の横に置く。
植物用のノートが、少しだけはみ出していた。
葵はそれを取り出した。
ページには、展示場所の寸法と、植物の候補が書いてある。
ビオラ。
アリッサム。
シルバーリーフ。
チューリップ球根。
その端に、小さく書いた言葉があった。
春を待つ庭。
葵は、その文字を見た。
さっきまで、あんなに考えられていた。
何を置くか。
どこに置くか。
どうすればちゃんと育つか。
でも今は、何も見えなかった。
ベランダに出ると、夕方の光が鉢に当たっていた。
ミニトマトの葉は、少し疲れている。
バジルは花芽をまた伸ばしている。
ビオラは、切り戻したあと、少しだけ緑を戻していた。
葵は、しゃがんだ。
ちゃんと見ようと思った。
でも、目の前の葉の形が、うまく頭に入ってこなかった。
先生は、そのままでいいと思います。
そう言った自分の声が、耳の奥に残っていた。
葵ちゃんは子供だから、そんなこと言えるんだよ。
加奈先生の声も、残っていた。
何を植える場所なのか、さっきまであんなに見えていたのに。
葵には、もうわからなくなっていた。
