小説「春を待つ庭」第七話
第七章 軽く考えていた
小日向加奈は、スマートフォンの画面を見たまま、しばらく動けなかった。
画面には、学園祭実行委員からの連絡が表示されていた。
コンテナガーデン展示の準備について。
十月から、各チームの展示スペースに、コンテナや苗を置いてよいこと。
展示期間中の水やり、管理は各チームで行うこと。
通路にはみ出さないこと。
強風時の転倒対策を行うこと。
学園祭終了後は、指定された日までに撤去すること。
文章は事務的だった。
でも、加奈には、その一つ一つが急に重く見えた。
水やり。
管理。
撤去。
転倒対策。
最初に友達に誘われた時は、そんなことを考えていなかった。
「学祭で小さい庭作るんだって。加奈、花好きでしょ」
そう言われた。
花は好きだった。
春にネモフィラを見に行ったこともある。
バラ園で写真を撮ったこともある。
花屋の前で立ち止まることもある。
だから、いいよ、と言った。
楽しそうだと思った。
小さな庭を作る。
花を並べる。
写真を撮る。
学園祭に来た人が、かわいいと言ってくれる。
そのくらいに考えていた。
でも、実際には違った。
花は、並べればいいわけではなかった。
置く場所を見なければいけない。
日当たりを見なければいけない。
水やりの時間を考えなければいけない。
風の強さも、通路の幅も、展示期間も、土の量も、全部考えなければいけない。
それを教えてくれたのは、葵ちゃんだった。
中学三年生の、森下葵ちゃん。
加奈の生徒。
いや、生徒だと思っていた子。
加奈は、スマートフォンを伏せた。
机の上には、エントリーシートの下書きが置かれていた。
学生時代に力を入れたこと。
その欄は、まだ半分も埋まっていなかった。
◇
就職も、軽く考えていた。
大学に入れば、やりたいことは自然に見つかると思っていた。
高校の時は、とりあえず大学に入ることが目標だった。
大学に入れば、いろいろな授業がある。
いろいろな人に会う。
サークルも、バイトも、ゼミもある。
その中で、何か見つかると思っていた。
でも、三年生になっても、見つからなかった。
友達は、いつの間にか業界の名前を口にするようになった。
「人材見てる」
「広告も少し受ける」
「コンサルは一応出してみる」
「メーカーのインターン、通った」
みんな、普通に言う。
加奈も、普通に聞いているふりをした。
へえ。
すごいね。
私もそろそろやらなきゃ。
そう言いながら、何も決められなかった。
エントリーシートを書こうとすると、手が止まる。
あなたの強みは何ですか。
学生時代に力を入れたことは何ですか。
将来、どんな社会人になりたいですか。
自分のことなのに、何も書けない。
加奈は、ずっと軽く考えていたのだと思った。
大学に入れば、なんとかなる。
就活が始まれば、なんとかなる。
インターンに行けば、なんとかなる。
友達と一緒なら、なんとかなる。
でも、なんとかならなかった。
コンテナガーデンも同じだった。
誘われた時、軽く考えていた。
花を置けば、庭になると思っていた。
友達と一緒なら、できると思っていた。
学園祭の展示くらい、なんとかなると思っていた。
でも、友達は一人ずつ抜けていった。
「ごめん、インターンの予定入っちゃって」
「ゼミの発表とかぶった」
「就活落ち着いたら手伝うね」
「加奈ならできるよ」
加奈ならできる。
その言葉を聞くたびに、加奈は笑ってうなずいた。
本当は、みんなが抜けるなら、自分も一緒にやめればよかったのかもしれない。
一人でできる自信なんてなかった。植物を育てたこともない。何を買えばいいのかも、どこから始めればいいのかもわからなかった。
それでも、やめると言えなかった。
これもやめたら、本当に自分には何も残らない気がした。
就活もうまくいかない。やりたいことも見つからない。大学で何をしてきたのかも、うまく言えない。
せめてこれくらいは、途中で投げ出したくなかった。
だから加奈は、また言った。
大丈夫。
そう言った。
でも、本当は大丈夫ではなかった。
大丈夫ではないのに、いつも大丈夫と言ってしまう。
それも、葵ちゃんと少し似ているのかもしれない。
そう思ってから、加奈は自分で少し嫌になった。
葵ちゃんと似ているなんて、簡単に言っていいことではない気がした。
◇
葵ちゃんに頼んだのは、半分は葵ちゃんのためだった。
八月の終わり、葵ちゃんは明らかに沈んでいた。
授業中の返事が短くなった。
植物の話をしなくなった。
ミニトマトの写真も、見せなくなった。
加奈は、それが気になっていた。
自分が忙しくて、葵ちゃんの話を聞けなかった。
余裕がなくて、植物のことを受け止めきれなかった。
そのせいかもしれないと思った。
だから、コンテナガーデンの話をした。
葵ちゃんが、もう一度植物のことを話せるようになるかもしれない。
そう思った。
けれど、もう半分は、自分のためだった。
助けてほしかった。
植物のことがわからない自分を。
友達に置いていかれた自分を。
就活も展示も中途半端な自分を。
葵ちゃんなら、何か見えるかもしれないと思った。
展示場所に立った葵ちゃんは、実際にいろいろなものを見ていた。
日当たり。
水道。
風。
通路。
コンテナの数。
球根。
春を待つ庭。
加奈には見えなかったものが、葵ちゃんには見えていた。
すごいと思った。
同時に、少し苦しくなった。
中学生の葵ちゃんが見えているものを、大学三年生の自分は見ていなかった。
花が好きだと言いながら、花の色くらいしか考えていなかった。
ちゃんと見ていなかった。
加奈は、ずっと葵ちゃんに言ってきた。
今どこにいるか見る。
できているところを見る。
苦しいところをちゃんと見る。
でも、自分のことは何も見ていなかった。
軽く考えていた。
全部。
◇
それでも、準備は進めなければならなかった。
大学での気まずい帰り道のあと、加奈は葵ちゃんに謝ろうと思った。
子供だから、そんなこと言えるんだよ。
あれは言ってはいけなかった。
言った瞬間、葵ちゃんの顔から何かが引いていくのがわかった。
加奈はすぐに謝ろうとした。
でも、言葉が見つからなかった。
ごめんね。
それだけで済むことではない気がした。
結局、その日はうまく謝れないまま別れた。
それから数日、ステップバイステップで授業はあった。
葵ちゃんは、いつも通りに見えた。
問題を解いた。
答え合わせをした。
わからないところも言った。
でも、以前より少し遠かった。
加奈が、
「この前は」
と言いかけると、葵ちゃんはノートを見たまま、
「大丈夫です」
と言った。
大丈夫。
その言葉を聞くと、加奈はそれ以上踏み込めなかった。
自分も同じ言葉で逃げてきたからだ。
それでも、コンテナガーデンの準備だけは続いた。
葵ちゃんは、きちんとしていた。
植物用のノートに、必要なものを書き出していた。
コンテナ。
鉢底石。
培養土。
元肥。
ビオラ。
アリッサム。
シルバーリーフ。
チューリップ球根。
ジョウロ。
支柱。
名札。
加奈は、それを見ながらメモを取った。
葵ちゃんの言葉は正しかった。
たぶん、全部必要なのだと思う。
でも、正しいことが多すぎた。
「コンテナは、浅すぎると乾きやすいです」
「うん」
「でも、深すぎると重くなります」
「うん」
「水道から運ぶなら、ジョウロの大きさも考えた方がいいです」
「うん」
「あと、展示中に花がら摘みをしないと、少し汚く見えると思います」
「花がら摘み」
「咲き終わった花を取ることです」
「うん」
「ビオラは、蒸れると弱るので、植え込みすぎない方がいいです」
「うん」
「でも、学園祭で見せるなら、最初から少し華やかにした方がいいかもしれません」
「うん」
加奈は、うん、ばかり言っていた。
だんだん、自分が何をわかっているのかわからなくなっていった。
葵ちゃんは、真剣だった。
だからこそ、重かった。
中学生の子に頼んだのは自分だ。
相談に乗ってほしいと言ったのは自分だ。
だから、重いなんて思ってはいけない。
でも、思ってしまった。
そんなにできないよ。
心の中で、加奈はそう思った。
そんなにちゃんとできない。
そんなに毎日見られない。
そんなに全部考えられない。
でも、言えなかった。
言えば、また葵ちゃんを傷つける。
言わなくても、たぶん傷つけている。
加奈は、どちらにも進めなかった。
◇
週末、加奈は一人で園芸店に行った。
葵ちゃんと一緒に行く予定もあったが、葵ちゃんには模試があり、授業もあった。母親からも、模試前は勉強を優先するように言われていた。
だから、その日は加奈が先に下見をして、売り場の様子を写真に撮ってくることになった。
園芸店の入口には、秋の苗が並んでいた。
ビオラはまだ出始めだった。色数は多くないが、小さな花がいくつも並んでいる。
白いアリッサム。
紫のビオラ。
黄色のビオラ。
銀色がかった葉のシルバーリーフ。
チューリップの球根。
葵ちゃんが言っていた名前が、そこにあった。
加奈は少し安心した。
名前だけは、わかるようになっていた。
けれど、安心したのはそこまでだった。
同じビオラでも、花の色が違う。花の数も違う。葉の広がり方も違う。
アリッサムは白だけでなく、薄紫のものもあった。
シルバーリーフと書かれた苗も、一種類ではなかった。
チューリップの球根は、色だけでなく、高さも咲く時期も違っていた。
加奈は、苗の前で立ち止まった。
今日は買う日ではない。
見て、写真を撮って、葵ちゃんに相談すればいい。
そうわかっているのに、見ているだけで少し不安になった。
何を見ればいいのだろう。
花の色なのか。
葉の元気さなのか。
株の大きさなのか。
蕾の数なのか。
値段なのか。
それとも、展示場所に置いた時の見え方なのか。
まだ、プランターの大きさもちゃんと確認できていない。
何株植えられるのか。
どれくらい土が入るのか。
どの苗なら、あの細長い場所に合うのか。
下見だけでも、見ることはたくさんあった。
花を買うだけなら、もっと簡単だと思っていた。
でも、違った。
買う前に、決めなければいけないことがある。
決める前に、見なければいけないことがある。
加奈は、苗の写真を何枚か撮った。
ビオラの棚。
アリッサムのポット。
シルバーリーフの札。
球根の袋。
あとで葵ちゃんに見せよう。
そう思いながら園芸店を出た。
何も買っていないのに、少し疲れていた。
外に出ると、スマートフォンに友達からメッセージが来ていた。
「展示どう? 本当にごめん、今週も行けなそう」
加奈は、画面を見た。
大丈夫だよ、と打った。
送信した。
大丈夫ではなかった。
◇
その次の週、加奈は学園祭実行委員から、展示用のコンテナが一部借りられると聞いた。
長方形のプランターが二つ。
古いものだが、使っていいらしい。
加奈は、少しほっとした。
コンテナを買わなくて済む。
その日の夕方、ステップバイステップで葵ちゃんに伝えた。
「大学で、長方形のプランターを二つ借りられることになったの」
葵ちゃんは、すぐに顔を上げた。
「大きさはどれくらいですか」
「えっと」
加奈はスマートフォンの写真を見せた。
プランターは、大学の倉庫の隅に重ねて置かれていた。
葵ちゃんは画面を見て、少し眉を寄せた。
「底穴はありますか」
「底穴?」
「水が抜ける穴です」
「あ……そこまでは見てない」
「古いなら、割れてるところがないかも見た方がいいです」
「うん」
「あと、土は前のが残ってますか」
「少し」
「使わない方がいいかもしれません。虫がいたり、病気が残ってたりすることがあるので」
「そうなんだ」
「洗えますか」
「洗う?」
「はい。使う前に」
加奈は、言葉に詰まった。
洗う。
古いプランターを洗う。
考えていなかった。
ただ、借りられてよかったと思っていた。
「……たぶん、洗えると思う」
「ブラシありますか」
「ブラシ」
「なければ、百均で買った方がいいです」
「うん」
「あと、底穴が大きいなら鉢底ネットも必要です」
加奈は、メモを取った。
ブラシ。
鉢底ネット。
また増えた。
葵ちゃんが悪いわけではない。
必要なことを言っているだけだ。
でも、加奈の胸の中で、何かが少しずつ詰まっていった。
こんなことなら、頼まなければよかった。
その言葉が、ふっと浮かんだ。
加奈は、すぐに打ち消した。
違う。
葵ちゃんは助けてくれている。
頼んだのは自分だ。
それなのに、助けてくれている相手を重いと思ってしまう。
加奈は、そんな自分が嫌だった。
◇
十月が近づくと、展示の準備はさらに具体的になった。
加奈は、前に下見をした園芸店へ、もう一度行った。
今度は、買わなければならなかった。
葵ちゃんは、本当は一緒に選びたそうだった。
でも、模試が近かった。
だから加奈が買うことになった。
加奈は、葵ちゃんのメモを見ながら苗を選んだ。
白いアリッサム。
薄紫のビオラ。
黄色のビオラ。
小さめのシルバーリーフ。
淡いピンクのチューリップ球根。
これで合っているのか、最後まで自信はなかった。
でも、展示の日は近づいていた。
いつまでも迷っているわけにはいかなかった。
加奈は、苗をかごに入れ、レジへ向かった。
買えた。
それだけで、一つ進んだ気がした。
買った苗は、学園祭実行委員に確認して、中庭の端に一時的に置かせてもらった。
展示場所からは近い。
雨は少し避けられる。
通路の邪魔にもならない。
加奈は、それで少し安心した。
本当はすぐに植え込んだ方がいいのかもしれない。
でも、展示用のプランターを洗う時間が取れなかった。
翌日にしようと思った。
翌日なら大丈夫。
そう思った。
けれど翌日、加奈はインターンの面接が入った。
オンライン面接だった。
午前中に準備して、昼に面接を受け、終わった後は何もできなかった。
頭が空っぽだった。
苗のことは、思い出した。
でも、夕方にはオンラインの会社説明会があった。
参加しなければいけないものではなかった。
録画も残ると書いてあった。
それでも、参加しないとまた一つ遅れる気がした。
説明会が終わるころには、外は暗くなっていた。
明日の朝、水をあげれば大丈夫。
そう思った。
なんとかなると思った。
いつもそうだ。
加奈は、また軽く考えた。
◇
次の日の朝、大学に行くと、アリッサムの葉がしおれていた。
ビオラも、一つ花がうなだれている。
ポットの土は、乾いていた。
加奈は、息をのんだ。
「あ……」
慌てて水道まで走り、ペットボトルに水を入れて戻った。
ジョウロを持っていなかった。
ペットボトルから、少しずつ水を注いだ。
土が水を吸っていく。
でも、アリッサムの細い茎は、すぐには戻らなかった。
葉がぺたんと倒れている。
加奈は、膝をついて、しばらくそれを見ていた。
枯れたのか。
まだ戻るのか。
わからなかった。
葵ちゃんなら、わかるのだろうか。
そう思った瞬間、加奈の胸が苦しくなった。
また葵ちゃんに頼ろうとしている。
何も見ていなかったのは自分なのに。
ちゃんと見ていなかったのは自分なのに。
加奈は、スマートフォンを取り出した。
葵ちゃんに連絡しようとして、止めた。
何と送ればいいのか。
苗、少ししおれちゃった。
どうしたらいいかな。
そんな軽い言い方はできなかった。
でも、正直に言うのも怖かった。
苗を弱らせてしまいました。
そう打つと、取り返しのつかないことのように見えた。
加奈は、画面を閉じた。
その日は、何度も苗を見に行った。
昼には少し戻ったように見えた。
ビオラは、なんとか持ち直した。
でも、アリッサムの一つは、根元の方までぐったりしていた。
加奈は、また水をあげた。
あげすぎかもしれないと思った。
でも、乾いている気がして怖かった。
水をあげた。
夕方、アリッサムの葉はさらに弱って見えた。
加奈は、わからなくなった。
水が足りないのか。
水をあげすぎたのか。
日が強すぎたのか。
風が当たりすぎたのか。
何もわからなかった。
ちゃんと見るというのは、こんなに怖いことだったのかと思った。
◇
次のステップバイステップの日、加奈は葵ちゃんに言わなければならなかった。
授業の間、加奈は何度も言おうとした。
でも、言えなかった。
英文の説明をする。
葵ちゃんが問題を解く。
答え合わせをする。
いつもの授業。
でも、机の下で加奈の手は少し冷たくなっていた。
授業が終わりかけたころ、葵ちゃんが言った。
「苗、どうでしたか」
加奈の胸が跳ねた。
「え」
「買えましたか」
「あ、うん」
加奈は、鞄からスマートフォンを出した。
写真を見せるしかなかった。
そこには、買った日の苗が写っていた。
白いアリッサム。
薄紫のビオラ。
シルバーリーフ。
葵ちゃんの目が少し明るくなった。
「いいと思います」
その言葉に、加奈は少しだけ救われた気がした。
でも、すぐに言わなければならないことを思い出した。
「ただ」
加奈は、喉が詰まった。
「一つ、アリッサムがちょっと弱っちゃって」
葵ちゃんの顔が変わった。
「弱った?」
「昨日、水が足りなかったみたいで」
「どれくらいですか」
「えっと、葉が少ししおれて」
「写真ありますか」
加奈は、別の写真を出した。
朝、しおれていたアリッサム。
葵ちゃんは、画面を見た瞬間、黙った。
その沈黙が、加奈には怖かった。
「これ、かなりしおれてます」
「うん」
「いつ買ったんですか」
「一昨日」
「その日のうちに水あげましたか」
「少し」
「少し?」
「土が湿ってると思って」
「ポットの中、見ましたか」
加奈は、答えられなかった。
葵ちゃんは、画面を見たまま言った。
「だから言ったじゃないですか」
その声は、大きくはなかった。
でも、まっすぐだった。
加奈の胸に刺さった。
「水切れしたらすぐしおれるって」
「ごめん」
「アリッサムは細かい花だから、しおれると戻りにくいです」
「うん」
「先生、ちゃんと見てなかったんですか」
その言葉で、加奈は息が止まった。
ちゃんと見てなかった。
その通りだった。
見ていなかった。
でも、言われた瞬間、加奈の中で何かが反発した。
私だって、忙しかった。
面接があった。
授業があった。
就活も、展示も、全部一人で抱えている。
そんなにちゃんとできない。
でも、それを中学生の葵ちゃんに言ってどうするのか。
自分から頼んだのに。
助けてほしいと思ったのに。
加奈は、唇を噛んだ。
「ごめん」
それしか言えなかった。
葵ちゃんは、スマートフォンから目を離さなかった。
「先生、植物好きじゃないんですか」
加奈は、思わず顔を上げた。
「え」
「本当に好きなら、ちゃんと見ると思います」
その言葉は、アリッサムのことだけを言っているはずだった。
水を切らしたこと。
葉の様子を見なかったこと。
弱っているのに、すぐに気づけなかったこと。
でも、加奈には別のことまで責められているように聞こえた。
本当に好きなら。
就活で何度も見た言葉が、頭の中に浮かんだ。
あなたの好きなことは何ですか。
あなたが夢中になったことは何ですか。
学生時代に力を入れたことは何ですか。
何も書けなかった。
花が好きだと思っていた。
でも、葵ちゃんほど見ていなかった。
子どもに教えるのが好きだと思っていた。
でも、葵ちゃんが傷ついている時に、ちゃんと受け止められなかった。
人の役に立ちたいと思っていた。
でも今、自分が頼った中三の子を、また傷つけようとしている。
本当に好きなら。
その言葉は、中三生の言葉だった。
子供の言葉だった。
けれど、だから軽い言葉というわけではなかった。
むしろ、加奈がいちばん聞きたくなかった場所に、まっすぐ届いてしまった。
痛かった。
痛すぎて、受け止める余裕がなかった。
胸の中にあったものが、こぼれた。
「私だって、初めてなんだよ」
言った瞬間、教室の音が少し遠くなった。
葵ちゃんが、加奈を見た。
加奈は止まれなかった。
「先生だからって、何でもできるわけじゃない」
声が震えた。
「育てたことないって、最初から言ってたでしょ。葵ちゃんみたいには、わからないよ」
葵ちゃんの顔が、白くなった。
加奈は、言ってはいけないと思った。
でも、もう止められなかった。
「私だって、ちゃんとやろうと思ってる。でも、そんなに全部はできない」
「そんなにって」
葵ちゃんの声も震えていた。
「私、そんなに無理なこと言いましたか」
「そうじゃなくて」
「先生が頼んだんじゃないですか」
「わかってる」
「私、ちゃんと考えました」
「わかってる」
「先生が困ってると思ったから」
「わかってるよ」
わかっている。
わかっているから苦しかった。
加奈は、机の上のスマートフォンを見た。
画面には、しおれたアリッサムが写っていた。
小さな白い花が、くったりと倒れている。
こんな小さな花一つ、ちゃんと見られなかった。
就職も。
学園祭も。
自分の人生も。
全部、軽く考えていた。
なんとかなると思って、なんとかならなかった。
加奈は、やっと気づいた。
でも、その気づきは遅すぎた。
葵ちゃんは、鞄にノートをしまった。
「もういいです」
「葵さん」
「私がやらなければよかったんですよね」
「違う」
「先生、頼まなければよかったって思ってますよね」
加奈は、何も言えなかった。
一瞬、そう思ってしまった。
その一瞬を、葵ちゃんに見抜かれた気がした。
「違う」と言いたかった。
でも、完全な嘘にはできなかった。
葵ちゃんは、立ち上がって言った。
「ごめんなさい」
その言葉が出た瞬間、加奈は胸が痛くなった。
葵ちゃんの「ごめんなさい」は、いつも自分を責める時の言葉だった。
「葵さん、違う。謝るのは私で」
「帰ります」
葵ちゃんは、頭を下げた。
加奈は、止められなかった。
次の生徒が、教室の入口に立っていた。
塾の中には、他の先生も、生徒もいた。
ここはステップバイステップだった。
加奈は先生だった。
だから、声を荒げることも、追いかけることもできなかった。
葵ちゃんは、ガラス扉を開けて出ていった。
手作りの「ステップバイステップ」の文字が、小さく揺れた。
◇
その夜、加奈は大学に寄った。
中庭の端に置かせてもらった苗を見に行くためだった。
学園祭前のキャンパスには、まだいくつかの明かりが残っていた。
サークル棟の方から、誰かの笑い声が聞こえる。
昼間より人は少ない。
けれど、完全に閉じた場所ではなかった。
加奈は、中庭へ向かった。
苗は、隅に置かれていた。
ビオラは、まだ大丈夫だった。
シルバーリーフも、葉を保っている。
でも、アリッサムの一つは、ほとんど戻っていなかった。
白い小さな花が、茶色くなり始めている。
加奈は、しゃがんだ。
「ごめん」
声に出して言った。
誰に謝っているのかわからなかった。
アリッサムに。
葵ちゃんに。
友達に。
自分に。
「ごめん」
もう一度言った。
でも、その言葉に返事をするものはなかった。
夜の中庭で、弱ったアリッサムだけが、黙ってそこにあった。
加奈は、スマートフォンを取り出した。
葵ちゃんに連絡しようとした。
でも、何を書けばいいかわからなかった。
ごめんね。
言いすぎた。
苗を枯らしてごめん。
頼んだのに、ちゃんとできなくてごめん。
どれも、足りなかった。
加奈は、画面を閉じた。
こんなことなら、頼まなければよかった。
また、その言葉が浮かんだ。
今度は打ち消せなかった。
でも、すぐに別の言葉が浮かんだ。
頼まなければよかったのではない。
軽く考えなければよかったのだ。
加奈は、枯れかけたアリッサムを見た。
小さな花は、何も言わなかった。
ちゃんと見なかった分だけ、静かに弱っていた。
それだけだった。
