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第八章 春を待つ庭

 葵は、次のステップバイステップを休んだ。

 母には、頭が痛いと言った。

 本当に少し痛かった。
 でも、熱はなかった。

 母は、額に手を当ててから言った。

「模試も近いんだから、無理しない方がいいわね」

 その言い方は優しかった。

 葵は、布団の中でうなずいた。

 塾に行きたくなかった。

 加奈先生に会いたくなかった。

 会ったら、何を言えばいいのかわからなかった。

 先生、植物好きじゃないんですか。

 そう言った自分の声が、何度も頭の中で戻ってきた。

 言いすぎたと思う。

 でも、間違っていたとも思えなかった。

 加奈先生は、アリッサムをちゃんと見ていなかった。
 葵が水切れに気をつけてと言ったのに、ちゃんと見ていなかった。

 だから怒った。

 でも、怒ったのはそれだけではなかった。

 先生だと思っていた人が、先生ではなかったこと。
 何でも受け止めてくれると思っていた人が、受け止めてくれなかったこと。
 自分の好きなものを、また軽く扱われたような気がしたこと。

 それが、全部混ざっていた。

 葵は、布団の中で目を閉じた。

 先生が頼んだんじゃないですか。

 私、ちゃんと考えました。

 先生が困ってると思ったから。

 言った言葉が、胸の奥で重くなっていた。

 加奈先生が困っていると思ったから、助けたかった。

 でも本当は、自分も助けてほしかったのかもしれない。

 植物のことを一緒に見てくれる人がほしかった。
 自分の好きなものを、好きでいてもいいと言ってくれる人がほしかった。
 先生なら、ずっとそうしてくれると思っていた。

 勝手に思っていた。

 葵は、枕に顔を押しつけた。

「ごめんなさい」

 小さく言った。

 誰に言ったのか、自分でもわからなかった。

     ◇

 夕方、ベランダに出た。

 九月の終わりの空気は、夏より少し軽かった。

 ミニトマトの葉は、前より色が薄くなっていた。
 夏の間に伸びすぎたバジルは、花をつけている。
 切り戻したビオラは、葉を増やしていた。

 葵は、しゃがんで鉢を見た。

 ちゃんと見る。

 そう思っても、すぐに加奈先生の顔が浮かんだ。

 私だって、初めてなんだよ。

 その声も残っていた。

 初めて。

 加奈先生は、そう言った。

 育てたことがないと、最初から言っていた。
 葵のようにはわからないと、言っていた。

 それなのに、葵は怒った。

 先生なら、ちゃんとできると思っていた。
 先生なら、ちゃんと見てくれると思っていた。

 でも、加奈先生も初めてだった。

 葵は、ビオラの葉に触れた。

 小さな葉は、少しだけざらっとしていた。

 植物だって、最初からうまく育つわけではない。
 水をやりすぎることもある。
 日に当てすぎることもある。
 切る場所を間違えることもある。

 失敗して、次に見る。

 それなのに、人には、どうして一度でちゃんとしてほしいと思ってしまうのだろう。

 葵は、自分の手を見た。

 その手は、まだ少し震えていた。

     ◇

 二日後、母が言った。

「ステップバイステップから連絡が来てるわよ」

 葵は、食卓の椅子に座ったまま、体を固くした。

「加奈先生から?」

「そう。葵に無理はさせないでほしいけど、少しだけ話せないかって」

 母は、スマートフォンを見ながら言った。

「塾じゃなくてもいいみたい。電話でも、次の授業の前でも。どうする?」

 葵は、すぐには答えられなかった。

 会いたくない。

 そう思った。

 でも、会わないままだと、ずっとこのままになる気がした。

 春を待つ庭も、途中のままだ。

 アリッサムは、どうなったのだろう。

 そのことが、気になってしまう自分も嫌だった。

「……塾の前で、少しなら」

 葵が言うと、母は少し驚いた顔をした。

「大丈夫?」

「うん」

「無理しなくていいのよ」

 葵はうなずいた。

 無理しなくていい。

 そう言われると、少しだけ息がしやすくなる。

 でも、今回は逃げたくなかった。

     ◇

 次の授業の日、葵はいつもより少し早くステップバイステップへ行った。

 ガラス扉の手作りの文字は、少し曲がったままだった。

 ステップバイステップ。

 最初に来た時、その曲がった文字に安心した。

 完璧じゃない感じがしたから。

 今見ると、その曲がり方が少し違って見えた。

 完璧じゃなくても、そこにあった。

 葵は、扉を開けた。

 受付の近くにいた野島塾長が、顔を上げた。

「森下さん」

 丸眼鏡の奥の目が、少しだけ細くなった。

「来られたんだね」

 葵は小さく頭を下げた。

「はい」

「今日は、授業の前に少し話すんだったね」

「はい」

 野島塾長は、それ以上は聞かなかった。

 ただ、教室の奥をちらりと見てから言った。

「話してみて、今日は授業まで難しそうだったら、それはそれで大丈夫だから」

 葵は、少しだけ驚いた。

 大丈夫。

 その言葉が、今日は押しつけのように聞こえなかった。

「ありがとうございます」

 葵が言うと、野島塾長はいつものように、ニットベストの裾で眼鏡を拭きかけて、途中でやめた。

「加奈先生、あそこにいるよ」

 野島塾長が視線で示した先に、加奈先生がいた。

 面談室ではなく、教室の端の席だった。

 白いブラウス。
 薄いグレーのカーディガン。

 塾で見る加奈先生だった。

 けれど、葵にはもう、その服だけで先生に戻ったようには見えなかった。

 大学の中庭にいた加奈先生も、同じ人だった。

 迷っていて、疲れていて、言葉を間違える人。
 それでも、葵のために待っている人。

「葵さん」

 加奈先生が立ち上がった。

「来てくれてありがとう」

 葵は小さく頭を下げた。

「……はい」

 少し沈黙があった。

 教室の奥では、別の先生が生徒に数学を教えている。
 シャープペンシルの音がした。
 コピー機の音もした。

 いつもの塾の音だった。

 加奈先生は、椅子に座り直した。

「先に、私から言わせて」

 葵は、うなずいた。

 加奈先生は、まっすぐ葵を見た。

「ごめんなさい」

 その言葉は、いつもの優しい声より少し低かった。

「大学で、子供だからそんなこと言えるんだよって言ったこと。あれは、言っちゃいけなかった」

 葵は、膝の上で手を握った。

「葵さんが私を励まそうとしてくれたの、わかってた。わかってたのに、苦しくて、受け取れなかった」

 加奈先生は、一度息を吸った。

「アリッサムのことも、ごめんなさい。葵さんが水切れに気をつけてって言ってくれていたのに、ちゃんと見なかった」

 葵は、唇を噛んだ。

「それから」

 加奈先生の声が、少し震えた。

「葵さんに頼んだのに、途中で、重いって思った」

 葵は、顔を上げた。

 加奈先生は逃げなかった。

「正しいことを言ってくれてるのに。助けてくれてるのに。私は、そんなにちゃんとできないって思った。頼んだのは私なのに」

 葵の胸の奥が、きゅっと縮んだ。

 加奈先生は続けた。

「でも、それは葵さんのせいじゃない。私が、軽く考えてたから」

「軽く……」

「うん」

 加奈先生は、小さくうなずいた。

「就活も、大学生活も、コンテナガーデンも。なんとかなると思ってた。花を並べれば庭になると思ってた。葵さんに相談すれば、なんとかなるとも思ってた」

 葵は黙って聞いていた。

「でも、違った。ちゃんと見なきゃいけなかった。場所も、花も、葵さんのことも、自分のことも」

 加奈先生は、そこで少しだけ目を伏せた。

「私は、ちゃんと見てなかった」

 葵は、何か言おうとした。

 でも、言葉が出なかった。

 加奈先生が、ここまで自分のことを話すと思わなかった。

 先生だから謝っているのではない。

 小日向加奈という人が、葵に謝っていた。

「アリッサムは」

 葵は、やっと言った。

「どうなりましたか」

 加奈先生の顔が少し痛そうに歪んだ。

「一つは、ほとんど戻らなかった」

 葵は目を伏せた。

「でも、全部だめになったわけじゃない。ビオラは大丈夫。シルバーリーフも大丈夫。アリッサムも、もう一つは持ち直してる」

「そうですか」

「うん」

 加奈先生は、少し迷ってから言った。

「弱ったアリッサム、捨てた方がいいのか、切り戻した方がいいのか、私にはまだわからない」

 葵は、加奈先生を見た。

「だから」

 加奈先生は、言葉を選ぶようにゆっくり言った。

「もう一度、一緒に見てほしい」

 葵は、すぐには答えられなかった。

 一緒に見てほしい。

 それは、前と同じ言葉のようで、少し違って聞こえた。

 前は、加奈先生に頼られている気がした。
 自分が必要とされている気がした。
 嬉しかった。

 でも今は、加奈先生ができないことをできないと言っている。

 わからないことをわからないと言っている。

 葵を、便利な答えとして見ているのではない。

 一緒に見る人として、呼んでいる。

 葵は、膝の上で握っていた手を少し緩めた。

「私も」

 声が小さくなった。

「私も、ごめんなさい」

 加奈先生は、静かに葵を見ていた。

「先生は何でもできると思ってました」

 言ってから、胸が痛くなった。

「先生なら、ちゃんと見てくれるって。私が好きなものも、私のことも、ずっとちゃんと見てくれるって」

 葵は、自分の声が震えているのがわかった。

「でも、先生も初めてだったのに」

 加奈先生の目が少し潤んだ。

「私、アリッサムのことだけで怒ったんじゃないです」

「うん」

「先生が、先生じゃないみたいに見えて」

 葵は、そこまで言って、少し止まった。

 でも、言わなければいけないと思った。

「勝手にがっかりしました」

 加奈先生は、何も言わなかった。

「大学で見た先生は、塾の先生じゃなくて、大学生で。就活で困ってて、展示のこともわからなくて」

 葵は、言葉を探した。

「それが嫌だったんじゃなくて」

 違う。

 嫌だったのではない。

 たぶん、怖かった。

「先生も迷うんだって思ったら、私、誰を信じればいいのかわからなくなったんです」

 言ってしまうと、涙が出そうになった。

 加奈先生は、ゆっくりうなずいた。

「そっか」

「でも、先生のせいじゃないです」

「うん」

「私が、勝手に先生を、すごい人にしてました」

 加奈先生は、少しだけ笑った。

 悲しそうな笑い方だった。

「私も、葵さんをすごい子にしてた」

「え」

「植物のことがわかって、ちゃんと見えて、私にはないものを持ってる子だって思ってた」

 加奈先生は、言った。

「でも、葵さんも中三で、受験生で、傷つくし、怒るし、無理もする。ちゃんと見なきゃいけなかったのに、私はそこも見てなかった」

 葵は黙った。

 胸の奥で、何かが少しほどけた。

 すごい子。

 そんなふうに思われていたとは思わなかった。

 葵は、ただ自分の好きなものを守りたかっただけだった。

「もう一回」

 加奈先生が言った。

「一緒に見てくれませんか」

 葵は、少しだけ息を吸った。

「はい」

 小さな声だった。

 でも、言えた。

     ◇

 次の日の午後、葵は加奈先生と大学へ行った。

 母は少し心配そうだったが、加奈先生から改めて連絡があったからか、最後には許してくれた。

「遅くならないこと」

「はい」

「無理しないこと」

「はい」

「勉強もちゃんと戻ること」

「はい」

 母の条件はいつも通りだった。

 でも、葵は以前より少しだけ落ち着いて聞けた。

 大学の中庭は、前に来た時より少し秋らしくなっていた。

 木の葉の色が、ほんの少し変わっている。
 空気も乾いていた。

 中庭の端に、苗が置かれていた。

 ビオラ。
 シルバーリーフ。
 アリッサム。

 一つのアリッサムは、確かに弱っていた。
 花の白さがくすみ、茎が少し倒れている。

 葵は、しゃがんだ。

 加奈先生も隣にしゃがんだ。

「どうかな」

 加奈先生が小さく言った。

 葵は、すぐには答えなかった。

 葉を見る。
 茎を見る。
 土を見る。
 根元を見る。

 ちゃんと見る。

 弱っている。
 でも、全部がだめではない。

「少し切った方がいいと思います」

「切る?」

「はい。弱った花と、茶色くなってるところを取って、風通しをよくします」

「戻る?」

「わかりません」

 葵は、正直に言った。

「でも、全部捨てなくてもいいと思います」

 加奈先生は、ほっとしたように息を吐いた。

「そっか」

「でも、展示の真ん中には置かない方がいいです」

「うん」

「端に、少しだけ」

「うん」

「目立たないけど、ちゃんと見えるところに」

 加奈先生が、葵を見た。

「ちゃんと見えるところ」

「はい」

 葵は、アリッサムに触れた。

「弱ったから、ないことにするんじゃなくて」

 自分で言いながら、胸の奥が少し熱くなった。

「でも、無理に真ん中にしなくてもいいと思います」

 加奈先生は、しばらく黙っていた。

 それから、小さく言った。

「葵さんみたいだね」

 葵は顔を上げた。

 加奈先生は、慌てて言い直した。

「悪い意味じゃなくて」

「わかります」

 葵は、小さく言った。

 たぶん、少し前なら傷ついた。

 弱った花みたいだと言われた気がして。

 でも今は、少し違った。

 弱っても、そこにいていい。
 真ん中でなくても、見える場所にいていい。

 そういう意味に聞こえた。

     ◇

 二人で、プランターを洗った。

 大学で借りた長方形のプランターは、少し古かった。
 底に土がこびりついていて、端に小さな傷もあった。

 加奈先生が、百均で買ったブラシを出した。

「買ってきた」

「鉢底ネットは?」

「買ってきました」

「鉢底石は?」

「それも買ってきました」

「すごいです」

 葵が言うと、加奈先生は少し笑った。

「葵さんのメモ、三回見た」

「三回」

「うん。まだ不安だったけど」

 葵も少し笑った。

 水道でプランターを洗うと、古い土が流れていった。

 加奈先生は、最初はおそるおそるブラシを動かしていたが、だんだん力を入れて洗い始めた。

「こういうの、思ってたより大変だね」

「はい」

「庭って、きれいに置いてあるところしか見てなかった」

「準備がけっこうあります」

「うん。あるね」

 加奈先生は、プランターの底を見た。

「底穴、ここで合ってる?」

「はい。そこにネットを敷きます」

「先生、覚えた」

 加奈先生が言った。

 葵は少し笑った。

 先生。

 加奈先生が自分でそう言うと、少しだけ変だった。

 でも、嫌ではなかった。

     ◇

 土を入れると、プランターは急に重くなった。

 鉢底石。
 培養土。
 元肥。

 葵は、ひとつひとつ確認しながら進めた。

 加奈先生は、前よりゆっくりだった。

 急がず、葵の言葉を聞く。
 わからないところは、わからないと言う。

「ここ、土どれくらい?」

「もう少しです」

「苗を置いてから足す?」

「はい」

「ビオラはここ?」

「一回置いてみます」

 苗をポットのまま並べる。

 薄紫のビオラ。
 黄色のビオラ。
 白いアリッサム。
 シルバーリーフ。

 弱ったアリッサムは、端の方に置いた。

 背の高いものは奥。
 低いものは手前。
 通路から見た時に、花が少し重なるように。

 葵は、何度か位置を変えた。

「こっちの方がいいかもしれません」

「うん」

「でも、黄色がここだと強いかも」

「強い?」

「目立ちすぎるというか」

「なるほど」

「薄紫を真ん中にして、黄色を少し横に」

「やってみよう」

 二人で苗を動かした。

 何度も置いて、離れて見た。

 近くで見るとよくても、少し離れると違う。
 ベンチに座って見ると、手前の花がよく見える。
 通路から歩きながら見ると、奥のシルバーリーフが光って見える。

「植物は、置いた場所で変わるんだね」

 加奈先生が言った。

 葵はうなずいた。

「はい」

 でも、前と同じ言葉なのに、今は少し違って聞こえた。

 植物だけではない。

 人も、置かれた場所で変わる。

 教室では息が苦しくなる。
 保健室では少し休める。
 ベランダでは息ができる。
 ステップバイステップでは、問題を見られる。
 大学の中庭では、先生も先生ではなくなる。

 でも、場所だけで全部が決まるわけではない。

 移すこともできる。
 置き方を変えることもできる。
 光の当たり方を見て、少しずつ調整することもできる。

 葵は、ポットからビオラをそっと抜いた。

 根が、白く回っていた。

「根、すごいね」

 加奈先生が言った。

「はい。ちょうどいいと思います」

「こういうところも見るんだ」

「はい」

 葵は、根を少しだけほぐした。

 土の中に入れる。

 加奈先生が、周りに土を足した。

 指先が土で汚れていく。

 塾の時、加奈先生の手はいつもきれいだった。
 シャープペンシルを持ち、ノートを指さしていた。

 今は、土がついている。

 その手を見て、葵は思った。

 加奈先生は、ちゃんとやろうとしている。

 最初からできる人ではなかった。
 でも、今はちゃんと見ようとしている。

 それでいいのかもしれない。

     ◇

 最後に、チューリップの球根を植えた。

 加奈先生が、球根の袋を開ける。

「これ、向きある?」

「あります」

「どっちが上?」

「尖っている方が上です」

「間違えそう」

「少しくらいなら、植物が自分で向きを変えることもあります」

「え、そうなの?」

「はい。でも、できれば向きを合わせた方がいいです」

 加奈先生は、球根を手のひらに乗せた。

「これ、今は何も咲かないんだよね」

「はい」

「学園祭に来た人には見えない」

「見えません」

「それでも入れるんだ」

「はい」

 葵は、土の上に小さなくぼみを作った。

「春に咲くので」

 加奈先生は、球根を見つめた。

「すぐに咲かないものを、今植えるんだね」

「はい」

「受験みたい」

 加奈先生が言った。

 葵は少し驚いた。

「就活も、かも」

 加奈先生は続けた。

「今やってることが、すぐに形になるわけじゃない。でも、何もしてないわけじゃない」

 葵は、球根を土に置いた。

「植物は、見えない時期があります」

「うん」

「でも、その間に根が出たりします」

「そっか」

「たぶん」

 葵は、少しだけ笑った。

「人も、そうかもしれません」

 加奈先生は、葵を見た。

 今度は、笑わなかった。
 子供だから、とは言わなかった。

 ただ、静かにうなずいた。

「そうかもしれないね」

 二人で、球根に土をかぶせた。

 見えなくなった。

 でも、そこにある。

 葵は、そのことを知っていた。

     ◇

 展示の名札を書くのは、加奈先生の役目になった。

 小さな木の札に、黒いペンで書く。

 春を待つ庭

 加奈先生の字は、少しだけ丸かった。

「変じゃない?」

「大丈夫です」

「ほんと?」

「はい」

「葵さんも何か書く?」

 葵は迷った。

 目立つのは苦手だった。

 でも、少しだけなら書ける気がした。

 加奈先生が、もう一枚小さな札を渡した。

 葵は、そこに書いた。

 すぐ咲かなくてもいい庭

 書いてから、少し恥ずかしくなった。

「これも置いていいですか」

「もちろん」

 加奈先生は、その札を見て、静かに言った。

「いいね」

 葵はうなずいた。

 前にも聞いた言葉だった。

 でも今は、前より少しだけ深く届いた。

     ◇

 学園祭の日、中庭はいつもよりにぎやかだった。

 模擬店の匂い。
 音楽の音。
 笑い声。
 案内の声。

 葵は、人の多さに少し疲れた。

 それでも、加奈先生と一緒なら歩けた。

 コンテナガーデンは、中庭の端に置かれていた。

 派手ではなかった。

 大きな花もない。
 背の高い飾りもない。
 目を引く看板もない。

 薄紫のビオラ。
 黄色のビオラ。
 白いアリッサム。
 銀色の葉。
 端に、少し切り戻したアリッサム。

 そして、土の中にはチューリップの球根。

 春を待つ庭。

 すぐ咲かなくてもいい庭。

 葵は、その二つの札を見た。

 小さな子どもが、母親と一緒に通りかかった。

「この花、かわいい」

 子どもが、ビオラを指さした。

 母親が少し立ち止まった。

「本当ね。優しい感じの庭ね」

 それだけだった。

 子どもと母親は、すぐに別の場所へ行ってしまった。

 でも、葵はその場に立ったまま動けなかった。

 優しい感じの庭。

 たぶん、何気ない言葉だった。

 でも、胸の奥に静かに落ちた。

 加奈先生が、隣で小さく笑った。

「見てもらえたね」

「はい」

 葵はうなずいた。

 入賞したわけではない。
 大勢の人が集まったわけでもない。
 写真を撮る人が列を作ったわけでもない。

 でも、誰かが立ち止まった。

 ちゃんと見てくれた。

 それで十分な気がした。

     ◇

 夕方、学園祭の人の流れが少し落ち着いたころ、葵と加奈先生は中庭のベンチに座った。

 コンテナガーデンは、斜め前に見えていた。

 夕方の光が、シルバーリーフに当たっている。
 白いアリッサムは、少しだけ光を受けていた。

 加奈先生が言った。

「この前、就活の面接練習があったの」

「面接練習?」

「うん。大学のキャリアセンターのやつ」

 葵は、加奈先生を見た。

「学生時代に力を入れたことを話してください、って言われた」

 加奈先生は、少しだけ笑った。

「前なら、何も言えなかったと思う」

「今は、言えたんですか」

「うん」

「何を話したんですか」

 加奈先生は、コンテナガーデンを見た。

「学園祭で、コンテナガーデンを作っていますって」

 葵は、少し驚いた。

「それを話したんですか」

「うん」

「就活で?」

「就活で」

 加奈先生は、苦笑した。

「隣の人は、海外留学の話をしてた。その隣の人は、部活で全国大会に出た話。別の人は、屋久島で実地調査をした話」

 葵は、黙って聞いていた。

「私だけ、学園祭で小さな庭を作りましたって話した」

「笑われませんでしたか」

「少し、笑われたかも」

 加奈先生は、そう言ってから、首を振った。

「でも、いいと思った」

「いい?」

「うん。私には、大事だったから」

 加奈先生は、ゆっくり言った。

「花を弱らせたことも、葵さんを傷つけたことも、謝ったことも、もう一回一緒に作ったことも。すぐ咲かない球根を植えたことも」

 葵は、何も言わなかった。

「すごいことじゃないかもしれない。でも、私がちゃんと見ようとしたことだった」

 加奈先生の声は、静かだった。

「初めて、自分の言葉で話せた気がした」

 葵は、コンテナガーデンを見た。

 小さな庭。

 派手ではない庭。

 でも、加奈先生にとって大事な庭。

 葵にとっても、大事な庭。

「先生」

「ん?」

「それ、いいと思います」

 加奈先生は、少しだけ目を丸くした。

 それから、笑った。

「ありがとう」

 その笑顔は、塾の先生の笑顔でも、大学生の笑顔でもあった。

 どちらでもよかった。

 小日向加奈という人の笑顔だった。

     ◇

 帰り道、加奈先生が言った。

「葵さんは、園芸部のある高校、考えてる?」

 葵は、少しだけ迷った。

「少し、調べました」

「そうなんだ」

「でも、まだ決めたわけじゃないです」

「うん」

「受かるかもわからないし」

「うん」

「それに、園芸部があるからって、そこに行きたいのかも、まだわかりません」

 加奈先生はうなずいた。

「そっか」

「でも」

 葵は、駅へ向かう道を歩きながら言った。

「見てみたいとは思いました」

 加奈先生は、何も急かさなかった。

「いいね」

 その一言だけだった。

 葵は、うなずいた。

 いいね。

 その言葉が、前より少し軽く、でも確かに聞こえた。

     ◇

 夜、家に帰ると、葵はベランダに出た。

 空気は少し冷えていた。

 ミニトマトは、もう終わりに近づいている。
 バジルも、葉がかたくなっている。
 ビオラは、少しずつ元気を戻していた。

 葵は、しゃがんだ。

 今日作った庭には、土の中に球根がある。

 今は見えない。

 でも、そこにある。

 春になったら、咲くかもしれない。
 咲かない球根もあるかもしれない。
 途中でだめになるものもあるかもしれない。

 それでも、植えた。

 葵は、ラナンキュラスの鉢を見た。

 花の季節はもう終わっている。
 今は、前のように華やかではない。

 でも、葵はその鉢が嫌いではなかった。

 咲いていない時期も、そこにある。

 休んでいる時期も、そこにある。

 見えないところで、次の季節を待っている。

 葵は、指先で鉢の縁に触れた。

 普通になりたいと思っていた。

 ちゃんとしなきゃと思っていた。

 みんなと同じように、すぐに咲かなければいけないと思っていた。

 でも、そうじゃなくてもいいのかもしれない。

 すぐ咲かなくてもいい。
 真ん中でなくてもいい。
 弱ったところがあってもいい。

 ちゃんと見て、置き場所を変えて、水を調整して、もう一度根を張ればいい。

 葵は、ベランダの小さな庭を見た。

 広くもない。
 立派でもない。
 誰かに見せるための庭でもない。

 でも、ここには葵の好きなものがあった。

 そのままでいい。

 そう言われるよりも、少しだけ先の言葉が、胸に浮かんだ。

 そのままがいい。

 葵は、小さくうなずいた。

 春は、まだ来ていない。

 でも、待っているものは、もう土の中にあった。


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