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あらすじ
中学三年生の森下葵は、集団塾の大きな声と教室の空気に耐えられず、学校でも保健室に通うようになる。個別指導塾で出会った大学生講師の加奈は、葵の好きな植物に耳を傾け、少しずつ葵の心を開いていく。しかし夏期講習と受験の不安、加奈自身の就活の迷いが重なり、二人の関係はすれ違っていく。やがて加奈の大学の学園祭で、二人は小さなコンテナガーデン「春を待つ庭」を作ることになる。弱った花も、すぐには咲かない球根も、ちゃんと見て、置き場所を考えればいい。自分のままで咲く季節を待つ、中三受験生と未熟な先生の再生の物語。

第一章 ごめんなさい

 四月の夕方。

 学校から帰ると、葵は制服のままベランダに出た。

 鞄を机の横に置いただけで、着替えもしなかった。

 教室にいた時間のざわざわが、まだ体のどこかに残っていた。

 ベランダに出ると、少しだけ息がしやすくなった。

 ラナンキュラスが、夕方の光を受けて咲きかけていた。

 葵はしゃがみ込み、まだほどけきっていない花びらを見つめた。

 薄い桃色の花びらが、幾重にも重なっている。外側の花びらは少し開いているのに、真ん中の方はまだ固い。

 急がせても開かない。

 水をやりすぎても、日なたに出しすぎても、うまくいかない。

 待つしかない。

 植物は、そういうところが好きだった。

 ちゃんと見ていれば、少しずつ変化がある。葉の色が薄くなったり、つぼみが少し膨らんだり、土の乾き方が昨日と違ったりする。

 言葉では何も言わない。

 でも、嘘もつかない。

 葵は鉢の土に指を触れた。

 まだ少し湿っている。

 今日は水をあげなくていい。

 メモ帳に、「四月八日 水やりなし。つぼみ三つ」と書いた。

 玄関の鍵が開く音がした。

「ただいま」

 母の声だった。

 葵はメモ帳を閉じた。

 すぐに返事をしようとしたが、ベランダにいると声が届きにくい。葵は立ち上がり、室内に戻った。

 母は仕事用のバッグを肩にかけたまま、リビングのテーブルに封筒を置いていた。

「葵、ちょっと来て」

 その声を聞いた瞬間、葵は少しだけ体を固くした。

 母が「ちょっと来て」と言う時は、たいてい、何かを決める時だった。

 リビングのテーブルには、塾のパンフレットが三つ並んでいた。

 大きな文字。

 合格実績。

 第一志望合格。

 春から本気。

 その言葉を見るだけで、葵の胸の奥が少し固くなった。

 母はパンフレットを指でそろえながら言った。

「中三になったんだから、そろそろちゃんと塾に行かないと」

「うん」

「この集団塾、評判いいみたい。お母さんの会社の人のお子さんも通ってたって」

 葵はパンフレットを見た。

 教室の写真には、たくさんの生徒が前を向いて座っていた。先生がホワイトボードの前に立って、何かを力強く説明している。

 葵は、その写真だけで少し疲れた。

「個別じゃだめ?」

 思ったより小さい声が出た。

 母は少し眉を寄せた。

「最初から個別は違うと思う」

「でも……」

「葵」

 母の声が少し低くなった。

「受験生なんだから、周りの空気を見た方がいいの。みんながどれだけ頑張ってるか見たら、葵も変わると思う」

 周りの空気。

 葵はその言葉が苦手だった。

 空気は見えないのに、いつも葵の体に入ってくる。

 教室のざわざわ。

 誰かが怒られている時の沈黙。

 笑っているのに、本当は相手を馬鹿にしているような声。

 そういうものが、葵には強すぎた。

「集団は、ちょっと怖い」

 葵は言った。

 母はため息をついた。

「怖いって、まだ行ってないでしょ」

「でも、たぶん」

「たぶんで決めないの。みんな最初は不安なの」

 母は間違ったことを言っていない。

 葵にも、それはわかった。

 だから、言い返せなかった。

 母は葵の方を見て、少し表情をやわらげた。

「葵ならできるよ。ちゃんとやれば、できる子なんだから」

 できる子。

 その言葉は、褒め言葉のはずだった。
 でも葵には、細い糸のように首にかかる。

 できるなら、やらなければいけない。
 できるのにできないのは、怠けているから。

 そう言われている気がした。

「……わかった」

 葵はうなずいた。

 母はほっとしたように笑った。

「よかった。じゃあ体験授業、申し込んでおくね」

 母が笑うと、葵は少し安心した。

 お母さんが喜んでいる。

 だったら、これでいいのだと思おうとした。

 話が終わった後、葵はもう一度ベランダに出た。
 ラナンキュラスの鉢の前にしゃがみ込み、長いあいだ、ほどけかけた花びらを見つめていた。

「私も、ちゃんと咲かなきゃだめなのかな」

 もちろん、花は答えなかった。

     ◇

 最初の授業の日。

 葵は横浜駅から塾までの道を、母と一緒に歩いた。

 大きなビルの三階。

 受付には合格者の名前が貼られていた。壁には「中三春から差がつく」と書かれていた。

 母はそれを見て、少し満足そうにした。

「ほら、ちゃんとしてる塾でしょ」

 葵はうなずいた。

 ちゃんとしている。

 それが、余計に怖かった。

 教室に入ると、すでに何人もの生徒が座っていた。

 シャーペンを動かしている子。

 単語帳を見ている子。

 友達と模試の話をしている子。

 みんな、葵より先に受験生になっているように見えた。

 葵は一番後ろの席に座った。

 机の上に筆箱を置く。

 手が少し冷たい。

 授業開始のチャイムが鳴った。

 先生が勢いよく教室に入ってきた。

「はい、始めるぞ!」

 大きな声だった。

 葵の背中が固まった。

「中三は甘くない。ここから一年、本気でやれるやつだけが伸びる。わかってるな」

 生徒たちが「はい」と返事をした。

 葵も遅れて小さく言った。

「はい」

 授業は速かった。

 先生の声。

 ホワイトボードにマーカーが走る音。

 ページをめくる音。

 答えを言う生徒の声。

 葵は必死にノートを取った。

 でも、周りの生徒がすぐに答えるたびに、自分だけが遅れている気がした。

 途中で、一人の男子が指された。

「じゃあ、ここ。答えは?」

 男子はしばらく黙っていた。

「……わかりません」

 先生の声が変わった。

「おい!ここ、宿題の範囲だぞ!」

 男子は目をそらした。

 「お前、宿題やってないだろ」

 教室の空気が、すっと冷たくなった。

 葵はシャーペンを握ったまま、動けなくなった。

「受験生だぞ!何しに来てんだよ!」

 葵はびくっとした。

 怒られているのは自分ではない。

 それなのに、胸の奥が小さく縮んだ。

 男子は笑ってごまかした。

 先生はさらに声を強くした。

「笑ってる場合じゃないだろ。やる気ないなら帰れ」

 教室が静かになった。

 葵はシャーペンを握ったまま、動けなくなった。

 やる気ないなら帰れ。

 受験生だぞ。

 何しに来てんだよ。

 その言葉が、自分に向けられているような気がした。

 授業が終わった時、葵のノートには、途中から字がほとんど残っていなかった。

 帰り道、母が聞いた。

「どうだった?」

 葵は少し迷った。

 怖かった。

 苦しかった。

 もう行きたくない。

 でも、母の顔を見ると、言えなかった。

「……大丈夫だった」

「そう。よかった」

 母は嬉しそうだった。

「慣れれば平気よ。最初だけよ」

 葵はうなずいた。

 最初だけ。

 そうかもしれないと思いたかった。

 けれど、次の授業の日が近づくにつれて、葵のお腹の奥がきゅっと縮むようになった。

     ◇

 朝、ベランダに出ても、ラナンキュラスの変化をうまく見られなかった。

 つぼみが一つ開きかけている。

 本当なら嬉しいはずなのに、葵の頭の中には塾の教室が浮かんでいた。

 先生の声。

 ホワイトボードの音。

 宿題を忘れた子を責める声。

 葵はじょうろを持ったまま、しばらく動けなかった。

 それでも葵は、塾には行った。

 行きたくないと言えば、母が悲しむと思った。

 行けませんと言えば、自分が負けたことになる気がした。

 塾の日が近づくと、お腹の奥がきゅっと縮む。駅に向かう道では、何度も足が止まりそうになる。

 それでも、葵は塾の教室に入った。

 帰るたびに、もう無理だと思う。

 でも次の週になると、また行く。

 それを繰り返しているうちに、学校も苦しくなった。

 それまでも、教室が得意だったわけではない。

 でも、何とか座っていられた。

 授業を聞いて、休み時間は本を読んで、昼休みは静かに過ごしていた。

 それで十分だった。

 けれど、集団塾に通い始めてから、教室の音が前より大きく聞こえるようになった。

 男子の笑い声。

 女子の小さな陰口。

 先生が注意する声。

 誰かが椅子を引く音。

 全部がばらばらに飛んできて、葵の体に刺さった。

 塾に通い始めて三週間たった、ある日の一時間目。

 隣の席の子がプリントを忘れて、先生に注意された。

 強い言い方ではなかった。

 普通の注意だった。

 それでも葵の手は冷たくなった。

 息が浅くなる。

 黒板の字が少し遠くなる。

「葵さん、大丈夫?」

 先生に聞かれて、葵はうなずいた。

 でも、次の瞬間、涙が出そうになった。

 葵は保健室に行った。

 保健室の白いカーテンは、風で少しだけ揺れていた。

 養護の先生は、何も責めなかった。

「少し休もうか」

 そう言われて、葵はベッドの端に座った。

 休んでいるだけ。

 そう思おうとした。

 でも、教室に戻れなかった。

 その日から、葵は少しずつ保健室にいる時間が増えた。

 母には、言えなかった。

 聞かれたら答える。

 でも、自分からは言わない。

     ◇

 母は学校からの連絡で知った。

 その日の夜、食卓で母は言った。

「保健室に行ってるの?」

「……うん」

「どうして?」

「ちょっと、教室が」

 母は少し眉をひそめた。

「でも、塾には行けてるんでしょ?」

「うん」

「じゃあ、学校も頑張れないの?」

 葵は箸を握ったまま、しばらく黙っていた。

「……塾も、ほんとは、個別にしたい」

やっと言えた声は、自分でも驚くほど小さかった。

母の眉が少し動いた。

「またその話?」

「集団は、ちょっと苦しい」

「でも、まだ始めたばかりでしょ」

「うん」

「もう少し頑張ってみなさい」

 母の声には、責める響きがあった。

 葵は小さくうなずいた。

 母はしばらく黙った。

「葵、受験生なんだよ」

「うん」

「ここで逃げ癖がついたら、高校に行っても同じことになるよ」

 逃げ癖。

 葵はその言葉を、胸の中で何度も繰り返した。

 逃げているのだろうか。

 自分は逃げているのだろうか。

 塾に行きたくない。

 教室にも行けない。

 大きな声が怖い。

 それは全部、逃げなのだろうか。

「ごめんなさい」

 葵は言った。

 母は少し困った顔をした。

「謝ってほしいんじゃないの。ちゃんとしてほしいの」

 ちゃんと。

 葵はうなずいた。

 でも、ちゃんとする方法がわからなかった。

     ◇

 五月の連休明け。

 塾の授業で、また宿題チェックがあった。

 葵は宿題をやっていた。

 全部やった。

 間違いも直した。

 それなのに、チェックの時間になると心臓が強く鳴った。

 自分が怒られるわけではない。

 でも、誰かが怒られるかもしれない。

 その「かもしれない」だけで、葵の体は固まった。

 思った通り、一人の生徒が宿題を忘れていた。

 先生が眉をひそめた。

「何回言わせるんだ」

 教室が静かになった。

「受験生だろ!」

 声が響いた。

 葵の視界が白くなった。

 音が遠くなる。

 指先がしびれる。

 息を吸おうとしても、うまく入ってこない。

 隣の子が小さく言った。

「大丈夫?」

 葵は立ち上がろうとした。

 でも足が動かなかった。

 先生がこちらを見た。

「どうした?」

 みんなの視線が集まる。

 迷惑をかけている。

 授業を止めている。

 ちゃんとできない。

 また、できない。

 葵はやっと立ち上がり、小さく頭を下げた。

「ごめんなさい」

 それだけ言って、教室を出た。

 廊下に出た瞬間、涙がこぼれた。

 受付の人が慌てて近づいてくる。

 でも、葵は何も言えなかった。

 ごめんなさい。
 ごめんなさい。
 ごめんなさい。

 頭の中で、その言葉だけが繰り返された。

     ◇

 その夜、母は長い時間、黙っていた。

 リビングのテーブルには、集団塾のテキストが置かれていた。

 分厚いテキスト。

 赤いペン。

 宿題のチェック表。

 葵はそれを見るだけで、体が少し震えた。

「そんなに無理なの?」

 母が言った。

 葵はうなずいた。

「うん」

「みんな頑張ってるのよ」

「うん」

「怒られるのが嫌なのは、誰だってそうでしょ」

「うん」

「葵だけが特別つらいわけじゃないと思う」

 葵はうつむいた。

 たぶん、そうなのだ。

 自分だけが特別つらいわけではない。

 だから、自分が弱い。

 自分が普通ではない。

 そう思った。

 母はため息をついた。

「……個別にする?」

 葵は顔を上げた。

「いいの?」

「このまま何もしないわけにはいかないでしょ」

 母は言った。

「ただし、個別にしたから楽になると思わないで。ちゃんと勉強するのよ」

「うん」

「受験は待ってくれないんだから」

「うん」

 葵はうなずいた。

 母の言葉は、まだ重かった。

 でも、あの教室に戻らなくていい。

 そのことだけで、胸の奥に少し空気が入った。

 翌朝。

 葵はベランダに出た。

 ラナンキュラスは、昨日より少しだけ開いていた。

 花びらが何枚も重なっている。

 中心はまだ見えない。

 葵は鉢の前にしゃがみ込んだ。

「ごめんね」

 また、その言葉が出た。

 自分が何に謝っているのか、わからなかった。

 塾をやめること。

 母をがっかりさせたこと。

 学校に行けないこと。

 ちゃんとできないこと。

 それとも、花を見ても心から喜べなくなっていたこと。

 ラナンキュラスは何も言わなかった。

 ただ、朝の光の中で、少しずつ花びらを開いていた。

     ◇

 五月の土曜日。

 葵は、個別指導ステップバイステップのガラス戸の前に立っていた。

 横浜駅から少し離れた、古いビルの二階。

 大きな合格実績のポスターはない。

 ガラスには、手作りの文字で「ステップバイステップ」と貼られていた。

 少しだけ曲がっている。

 葵は、その曲がり方を見て、なぜか少し安心した。

 完璧じゃない。

 ちゃんとしているけれど、少しだけ手作りで、少しだけ不器用。

 葵は深呼吸をした。

 この扉の向こうにも、大きな声の先生がいるかもしれない。

 また、うまくできないかもしれない。

 また、謝ることになるかもしれない。

 それでも、ここまで来た。

 葵はそっとガラス戸に手をかけた。

 まだ知らなかった。

 この扉の向こうで、自分の好きなものを知ろうとしてくれる人に出会うことを。

 そして、何度も「ごめんなさい」と言ってきた葵が、いつか誰かに、

「そのままでいいと思います」

 と言えるようになることを。


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