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第五章 小さな日向

 九月になっても、暑さはすぐには弱まらなかった。

 朝のベランダには、まだ夏の匂いが残っていた。
 濡れた土の匂い。
 バジルの青い匂い。
 少し傷んだ葉の匂い。

 葵は、ミニトマトの鉢の前にしゃがんだ。

 赤くなった実を、三つ収穫した。
 一つは小さく割れていた。
 一つは少し形がゆがんでいた。
 もう一つは、店で売っているものよりずっと小さかった。

 それでも、ちゃんと赤かった。

 葵はそれを小皿に乗せ、台所で洗った。

 食べると、少し酸っぱかった。

 甘いというより、夏の終わりの味がした。

 ベランダに戻ると、ビオラの鉢が目に入った。

 葉はかなり傷んでいた。
 茎は伸びすぎて、鉢の縁からだらりとこぼれている。
 春にはあんなに咲いていたのに、今は見るからに弱っていた。

 葵は、はさみを持ってきた。

 切り戻すなら、もっと早くやるべきだった。
 今からでは、間に合わないかもしれない。

 それでも、枯れた葉を一つずつ取った。
 茶色くなった茎を切った。
 まだ少し緑の残っているところは、残した。

 全部を元に戻すことはできない。

 でも、今から見てもいい。

 葵は、そう思おうとした。

 ちゃんと見る。

 それは、きれいなところだけを見ることではないのかもしれない。
 弱った葉も、傷んだ茎も、自分が見なかった時間も、ちゃんと見ることなのかもしれない。

 そう思うと、少し胸が痛かった。

     ◇

 夏休みが終わり、学校が始まった。

 教室の空気は、七月とは少し違っていた。

 みんなが日焼けしていた。
 髪を少し切った子もいた。
 夏期講習のテキストを鞄から出している子もいた。

 中三の九月は、もう夏休み前とは違う。

 模試の話。
 内申の話。
 志望校の話。
 過去問の話。

 言葉だけが、前より少し重くなっていた。

 葵は、朝から教室に入れた。

 けれど、昼休みの途中で保健室へ行った。

 自分でも、どうしてその日だけだめだったのかわからなかった。
 教室にいた子たちが悪かったわけではない。
 誰かに何かを言われたわけでもない。

 ただ、声が重なりすぎると、頭の中に空気がなくなる感じがした。

 保健室の窓際には、ポトスが置いてあった。

 葉の黄色さは、夏休み前より少し増えていた。

 水が多いのかもしれない。
 光が足りないのかもしれない。

 葵は、言おうとして、やめた。

 まだ、少し怖かった。

 植物のことを話すと、自分の中の大事なところを外に出してしまう気がした。

 出したものを、軽く扱われるのが怖かった。

     ◇

 九月の最初のステップバイステップの日。

 葵は、いつもより少し早く教室に着いた。

 ガラス扉の「ステップバイステップ」の文字は、相変わらず少し曲がっていた。
 前はその曲がり方に安心した。
 夏の終わりには、見ないようにした。

 今日は、見た。

 曲がっていても、そこにある。

 葵は、そっと扉を開けた。

 教室の中は、夏期講習の時より少し落ち着いていた。
 昼間の小学生たちの声はなく、夕方の中学生が数人、長机に向かっている。

 加奈先生は、いつもの席にいた。

 白いブラウスではなく、薄い水色のシャツを着ていた。
 髪は後ろで一つにまとめている。
 少し疲れているように見えた。

 でも、葵を見ると、いつものように笑った。

「葵さん、こんにちは」

「こんにちは」

 葵は、席に座った。

 加奈先生は、葵の隣に椅子を引いた。

 同じノートを、同じ向きで見る場所。

 葵は、その距離に少しだけ安心した。

「学校、始まったね」

「はい」

「疲れてない?」

「少し」

「そっか。じゃあ今日は、ゆっくりめにしよう」

 ゆっくり。

 その言葉を聞くと、葵の胸の奥が少し揺れた。

 最初の日も、加奈先生はそう言った。

 今日はゆっくりやろう。

 その言葉に救われたことを、葵はまだ覚えていた。

 でも、すぐに素直には受け取れなかった。

 夏の間、加奈先生は何度も休んだ。
 ミニトマトの写真を見せられなかった。
 植物のことも、自分ほど好きなわけじゃないと言われた。

 そのことは、まだ胸のどこかに残っていた。

 授業は静かに始まった。

 加奈先生は、二学期の英語の範囲を確認しながら、葵のノートに短い線を引いた。

「ここ、前より見えるようになってるね」

「そうですか」

「うん。主語と動詞を探すの、前より早くなってる」

 葵は、自分のノートを見た。

 できているところを言われても、少しだけ遠く感じた。

 夏の間に何かが進んだのか、戻ったのか、自分ではわからない。

「でも、単語は抜けてます」

「単語は抜けるよ。だから戻す」

 加奈先生は、当たり前のように言った。

「抜けたら終わりじゃない。戻せばいい」

 葵は、鉛筆を持つ手を少し止めた。

 抜けたら、戻す。

 枯れた葉を取ることに似ていると思った。
 切り戻すことにも似ている。

 全部をなかったことにはできない。
 でも、そこからまた見ればいい。

 加奈先生は、葵の手元を見た。

「今、何か考えた?」

「いえ」

 葵は首を振った。

 加奈先生は、それ以上聞かなかった。

 そのまま授業を進めた。

     ◇

 授業が終わりかけたころ、加奈先生は問題集を閉じた。

「今日はここまでにしようか」

「はい」

 葵は筆箱をしまおうとした。

 その時、加奈先生が少し迷うように息を吸った。

「あのね、葵さん」

「はい」

「少し、相談してもいい?」

 葵は顔を上げた。

 加奈先生が、自分に相談。

 その言葉が不思議だった。

「相談、ですか」

「うん。勉強のことじゃなくて」

 加奈先生は、鞄から一枚の紙を出した。

 少し折れたチラシだった。

 上の方に、大学名と学園祭の日程が書かれている。
 その下に、小さな写真があった。

 花壇。
 コンテナ。
 ベンチの横に置かれた寄せ植え。

 文字には、

「キャンパス・コンテナガーデン展示」

とあった。

「大学の学園祭で、こういう展示があるの」

 加奈先生は言った。

「学生が、キャンパスの一角に小さな庭を作る企画」

 葵は、チラシを見た。

 大学。

 それは加奈先生の世界だった。

 葵が行ったことのない場所。
 高校のさらに先にある場所。
 大人に近い人たちが、自分の将来を考えている場所。

 その大学に、花を置く。

「最初は、友達に誘われて申し込んだんだけど」

 加奈先生は、少し笑った。

「私、見るのは好きだし、楽しそうだなと思って」

「はい」

「でも、その友達たちが、就活とか、インターンとか、ゼミとかで、だんだん来られなくなっちゃって」

 加奈先生の声が、少し小さくなった。

「気づいたら、ほとんど私一人になってて」

 葵は、チラシから目を離せなかった。

「やめてもいいんじゃないかって思ったんだけど」

 加奈先生は、そこで一度言葉を切った。

「これもやめたら、私、本当に何もやりたいことがないみたいで」

 葵は、加奈先生を見た。

 加奈先生は、少し困ったような顔をしていた。

 いつもの先生の顔ではなかった。
 葵に説明してくれる顔でも、安心させようとする顔でもなかった。

 ただ、少し迷っている人の顔だった。

「だから、続けたい気持ちもある」

 加奈先生は、チラシの端を指で押さえた。

「でも、私、育てるのは全然わからないの」

 その言葉に、葵の胸の奥が少し痛んだ。

 前にも、加奈先生はそう言った。

 見るのは好きだけど、育てたことはない。

 そして夏に、葵さんほど好きなわけじゃない、とも言った。

 葵は、机の木目を見た。

「それで……」

 加奈先生は、ゆっくり言った。

「葵さんに、相談に乗ってもらえないかなと思って」

 葵は、すぐには答えられなかった。

「私が、ですか」

「うん」

「先生の大学の、展示ですよね」

「うん」

「私、中学生です」

「知ってる」

「受験生です」

「それも知ってる」

 加奈先生は、少しだけ笑った。
 でも、すぐに真面目な顔に戻った。

「もちろん、無理にとは言わない。葵さんの勉強の邪魔になるようなことはしたくないし、お母さんにも確認しないといけないと思う」

「はい」

「でも、葵さんなら、ちゃんと見ると思ったから」

 ちゃんと見る。

 その言葉が、葵の中で静かに響いた。

「植物を、ただ飾りにしないで、ちゃんと見ると思ったから」

 葵は、チラシを見た。

 コンテナの写真は、きれいだった。
 でも、よく見ると花の組み合わせは少し派手で、土の部分が見えすぎている。
 背の高さのバランスも、少しばらばらだった。

 そういうことが、見えてしまう。

 見たくないのに、見えてしまう。

「先生、私に頼むんですか」

「うん」

「私、そんなにすごくないです」

「うん」

 加奈先生は、すぐにうなずいた。

 葵は少し驚いた。

「すごくないって言いたいんじゃなくて」

 加奈先生は、慌てたように言った。

「葵さんが、自分のことをそう思ってるのはわかる。でも、私は、葵さんの植物の見方をすごいと思ってる」

 葵は黙った。

「何をどこに置くかとか、水をどれくらいあげるかとか、暑さに弱いとか、切り戻しとか、そういうのをちゃんと考えてるでしょ」

「普通です」

「普通じゃないよ」

 加奈先生は、静かに言った。

「少なくとも、私にはできない」

 葵は、胸の奥が少しざわつくのを感じた。

 前なら、嬉しかったかもしれない。

 でも今は、怖かった。

 信じて、また傷つくのが怖かった。

「先生、そんなに植物好きじゃないんですよね」

 葵は、小さく言った。

 加奈先生は、黙った。

 沈黙が、机の上に落ちた。

 教室の奥では、別の先生が小学生に分数を説明していた。
 シャープペンシルの音がした。
 誰かが消しゴムを落とした。

 加奈先生は、逃げなかった。

「うん」

 葵は、指先に力が入るのを感じた。

「葵さんほどは、好きじゃない」

 加奈先生は続けた。

「それは、本当」

 葵は唇を結んだ。

 やっぱり。

 そう思った。

 けれど、加奈先生はそのまま言った。

「でも、知りたいとは思ってる」

 葵は、少しだけ顔を上げた。

「同じくらい好き、って嘘をついたら、たぶんまた葵さんを傷つけると思う」

 加奈先生の声は、少し震えていた。

「だから、同じくらい好きとは言えない。でも、ちゃんと知りたい。葵さんが大事にしているものを、ちゃんと見たい」

 葵は、何も言えなかった。

 夏のあの日、加奈先生の言葉で傷ついた。

 植物のことも、正直、葵さんほど好きなわけじゃないし。

 その言葉は、今も残っている。

 でも、今の言葉は、少し違っていた。

 同じくらい好きではない。
 でも、知りたい。
 ちゃんと見たい。

 それは、慰めではなかった。
 ごまかしでもなかった。

 だから、余計にどう受け取ればいいかわからなかった。

「私がやっても、変になるかもしれません」

 葵は言った。

「うん」

「枯れるかもしれません」

「うん」

「学園祭なら、大学生とか、いろんな人が見るんですよね」

「うん」

「笑われるかもしれません」

 加奈先生は、少し考えた。

「笑われたら、私が怒る」

 葵は、思わず加奈先生を見た。

 加奈先生は真面目な顔をしていた。

「たぶん、そんなに強く怒れないけど」

 少し遅れて、加奈先生は小さく笑った。

「でも、怒る気持ちはある」

 葵は、少しだけ息を吐いた。

 笑ってはいなかった。
 でも、胸の硬いところがほんの少し緩んだ。

「返事は、すぐじゃなくていい」

 加奈先生は、チラシを葵の方に差し出した。

「持って帰って、考えてみて。お母さんにも聞いて」

 葵は、そのチラシを受け取った。

 紙は少し温かかった。
 加奈先生が、ずっと手に持っていたからかもしれない。

     ◇

 帰り道、葵は鞄の中のチラシのことを何度も思い出した。

 大学の学園祭。
 コンテナガーデン展示。
 加奈先生の相談。

 自分には関係ない世界のはずだった。

 でも、その紙はいま、葵の鞄の中に入っている。

 電車の窓には、夕方の空が映っていた。
 夏の終わりの空は、まだ明るいのに、少しだけ遠く感じる。

 葵は、スマートフォンを開いた。

 検索画面に、

「秋 コンテナガーデン」

と打ちかけて、止めた。

 調べたくなっている。

 そのことに気づいて、少し怖くなった。

 植物なんか意味ない。

 そう思ったはずだった。

 でも、チラシを見た瞬間から、頭のどこかではもう考えていた。

 ビオラは使える。
 アリッサムもいい。
 シルバーリーフを入れると、秋でも明るく見える。
 球根を仕込めば、春につながる。

 考えてしまう。

 好きだから。

 葵は、スマートフォンを閉じた。

 駅に着き、改札を出た。

 家に帰るまでの道で、花屋の前を通った。

 店先には、まだ夏の花が並んでいた。
 ニチニチソウ。
 ペンタス。
 コリウス。
 少しだけ、秋の苗も混じり始めている。

 葵は、足を止めた。

 ビオラはまだ少ない。
 本格的に出回るのは、もう少し先かもしれない。

 でも、アリッサムの小さな苗があった。
 白い花が、少しだけ咲いている。

 葵は、しばらくそれを見ていた。

 見ているだけ。

 買わない。

 そう思いながら、目が離せなかった。

     ◇

 夕食のあと、葵は母にチラシを見せた。

 母は、最初、少し驚いた顔をした。

「大学の学園祭?」

「うん」

「加奈先生の?」

「うん。コンテナガーデンの展示を作るんだって」

 母はチラシを受け取り、内容を読んだ。

「葵が出るわけじゃなくて、加奈先生のお手伝い?」

「相談に乗ってほしいって」

「相談……」

 母の眉が少し動いた。

 葵は、すぐに言った。

「勉強の邪魔にならないようにする。行くとしても、何回もじゃないと思う」

 自分でも、言い訳みたいだと思った。

 母はチラシを見たまま、しばらく黙っていた。

「面白そうではあるけど」

 その言葉に、葵は少し顔を上げた。

「でも、今は受験生だからね」

 やっぱり、と思った。

 葵はうつむいた。

「うん」

「お父さんにも相談しないとね」

 母は言った。

 その夜、父が帰ってきてから、母はチラシを見せた。

 父は眼鏡をかけ直し、チラシを読んだ。

「へえ、大学の学園祭か」

「加奈先生が困ってるみたいで」

 葵が言うと、父はうなずいた。

「葵がやってみたいなら、いいんじゃないかな」

 母がすぐに言った。

「でも、受験もあるのよ」

「それはそうだけど」

 父は、チラシをもう一度見た。

「毎日行くわけじゃないんだろう?」

「うん。たぶん」

「それに、こういうのも経験になるんじゃないかな」

 母は、少し考えていた。

 葵は、母の顔を見た。

 怒っているわけではない。
 反対しているわけでもない。
 ただ、何が葵のためになるのかを考えている顔だった。

「条件を決めましょう」

 母は言った。

「塾の宿題と学校の課題をやること。模試前はそちらを優先すること。帰りが遅くならないこと。大学に行く時は、加奈先生か大人が一緒にいること」

「うん」

「それが守れるなら、相談に乗るくらいはいいと思う」

 葵は、少し驚いた。

「いいの?」

「相談に乗るくらいでしょう」

 母は、少しだけ笑った。

「それに、葵がそんなに詳しいなら、誰かの役に立つこともあるかもしれないし」

 葵は、言葉が出なかった。

 母が、植物のことをそう言うとは思っていなかった。

 誰かの役に立つ。

 その言葉は、葵の胸に小さく残った。

     ◇

 翌朝、葵はいつもより早くベランダに出た。

 九月の朝は、まだ暑い。
 けれど、八月の朝とは少し違った。

 光が、ほんの少しだけ斜めになっている。
 風も、少しだけ軽くなっている。

 ミニトマトは、まだ実をつけていた。
 でも、葉の勢いは少し落ちている。

 バジルは、上の方に花芽をつけ始めていた。
 そのままにすると葉が硬くなる。
 葵は、花芽のところを摘んだ。

 ビオラは、かなり弱っていた。

 それでも、株元の方に小さな緑があった。

 葵は、しゃがんでそれを見た。

「まだ、いるね」

 小さく言った。

 昨日、加奈先生からもらったチラシは、机の上に置いてある。

 大学の一角に、小さな庭を作る。

 庭。

 葵の家には、庭はない。
 横浜の中層マンションのベランダに、鉢を並べているだけだった。

 洗濯物を干す場所を避けて、手すりの内側に小さな鉢を置く。
 強い風の日には、倒れないように場所を変える。
 夏は照り返しが強く、冬は意外と冷える。

 それでも、葵にとっては庭だった。

 小さくても、庭だった。

 大学の学園祭で作る庭は、どんな場所なのだろう。

 コンクリートの上なのか。
 中庭なのか。
 大きなプランターなのか。
 人通りは多いのか。
 日当たりはどうなのか。
 水やりは誰がするのか。

 考え始めると、次々に気になることが出てきた。

 葵は、部屋に戻り、ノートを開いた。

 英語のノートではない。
 植物用に使っている、小さなノートだった。

 ページの上に、

「学園祭 コンテナガーデン」

と書いた。

 その下に、思いつくことを書いていく。

 日当たり。
 水やり。
 風。
 鉢の大きさ。
 土の量。
 展示期間。
 持ち運び。
 花の色。
 秋に咲く花。
 春に咲く球根。

 書いているうちに、手が少し早くなった。

 久しぶりだった。

 何かを考えることが、怖いだけではない感じ。

 葵は、鉛筆を止めた。

 ページの端に、小さく書いた。

「春を待つ庭」

 なぜその言葉が出てきたのか、自分でもわからなかった。

 秋に作る庭なのに、春を待つ庭。

 でも、悪くない気がした。

 ビオラは冬を越して春まで咲く。
 アリッサムも、寒さに当たりながら白い花を増やす。
 チューリップの球根は、土の中で春を待つ。

 すぐには咲かない。

 でも、植えておけば、春が来る。

 葵は、その言葉を見つめた。

 春を待つ庭。

     ◇

 次の授業の日、葵は植物用のノートを鞄に入れていった。

 入れる時、少し迷った。

 見せるのは怖い。

 でも、持っていかないのも違う気がした。

 ステップバイステップに着くと、加奈先生は少し緊張した顔で待っていた。

「葵さん」

「はい」

「お母さん、大丈夫だった?」

「条件つきで」

「条件」

「宿題をやること。模試前は勉強を優先すること。帰りが遅くならないこと。大学に行く時は、先生か大人と一緒にいること」

「それは、全部守ろう」

 加奈先生は真面目にうなずいた。

 葵は、鞄からノートを出した。

「あと、確認したいことがあります」

「確認?」

「展示場所の日当たりと、水やりできる時間と、展示期間と、風が強い場所かどうかと、あと、雨が当たるかどうか」

 加奈先生は、目を丸くした。

「待って」

 葵は止まった。

 また話しすぎたかもしれない。

 そう思った。

 でも加奈先生は、慌てて自分のノートを開いた。

「書く」

 葵は、加奈先生を見た。

 加奈先生はペンを持ち、真剣な顔で待っていた。

「もう一回言って」

 葵の胸の奥が、少しだけ温かくなった。

「……日当たり」

「うん」

「水やりできる時間」

「うん」

「展示期間」

「うん」

「風が強い場所かどうか」

「うん」

「雨が当たるかどうか」

 加奈先生は、全部書いた。

 その字は少し急いでいて、ところどころ曲がっていた。

 でも、ちゃんと書いていた。

「すごいね」

 加奈先生が言った。

「私、花の色のことしか考えてなかった」

「色も大事です」

「でも、それだけじゃだめなんだね」

「はい」

 葵は、少しだけ迷ってから言った。

「植物は、置いた場所で変わるので」

 加奈先生は、ペンを止めた。

「置いた場所で変わる」

「はい。日が当たりすぎても弱るし、足りなくても咲かないし。風が強いと乾きやすいし。人が通る場所だと、ぶつかるかもしれないし」

「そっか」

 加奈先生は、ノートに小さく書いた。

「置いた場所で変わる」

 葵は、その字を見た。

 人もそうかもしれないと思った。

 教室では息が苦しくなる。
 保健室では少し休める。
 ベランダでは息ができる。
 ステップバイステップでは、前より問題を見られる。

 置かれた場所で、人も変わる。

 でも、それを言葉にはしなかった。

     ◇

 その日の授業は、いつもより少し短く感じた。

 英語の問題を解いていても、葵の頭の端にはコンテナガーデンのことがあった。

 でも、それは邪魔ではなかった。

 むしろ、少しだけ頭が動きやすかった。

 授業の最後に、加奈先生が言った。

「今度、大学の展示場所の写真を撮ってくるね」

「できれば、朝と昼と夕方があるといいです」

「そんなに?」

「時間で日当たりが変わるので」

「わかった。朝、昼、夕方ね」

「あと、写真を撮る時に、場所の広さも測れたらお願いします」

「広さ?」

「はい。横幅と奥行きがどれくらいあるかです」

「コンテナを置く場所の?」

「はい。置ける範囲がわからないと、コンテナを何個使えるか決められないので」

「なるほど」

「それと、水道が近いかも見てきてください」

「水道」

 加奈先生は、少し困ったように笑った。

「庭って、思ってたより現実的なんだね」

「はい」

 葵は少しだけ笑った。

「でも、そういうところでけっこう変わります」

 久しぶりに、自然に笑えた気がした。

 加奈先生が、それを見て少し安心したような顔をした。

 葵は、すぐにうつむいた。

 見られるのが、まだ少し恥ずかしかった。

「葵さん」

「はい」

「ありがとう」

 葵は、首を振った。

「まだ何もしてません」

「ううん。もう助かってる」

 その言葉は、葵の胸に静かに入ってきた。

 助かってる。

 誰かにそう言われたのは、久しぶりだった。

     ◇

 帰り道、葵は花屋の前でまた足を止めた。

 九月の苗が、少し増えていた。

 白いアリッサム。
 紫の小さな花。
 シルバーリーフの苗。
 細い葉が銀色に光っている。

 ビオラは、まだ少しだけだった。
 本格的な色は、もう少し先だろう。

 葵は、店先の苗を見ながら、頭の中で組み合わせを考えた。

 白。
 紫。
 銀色。
 少しだけ黄色。

 派手すぎない庭がいい。

 大きく咲いて、見た人を驚かせる庭ではなく。
 近づいた時に、小さな花が見える庭。

 土の中には、春の球根を入れる。

 今は見えない。
 でも、春に咲く。

 葵は、チューリップの球根が並ぶ棚を見た。

 まだ少し早い。
 でも、もう売り始めている。

 袋の写真には、赤や黄色の花が大きく写っていた。

 葵は、派手な色よりも、淡い色がいいと思った。

 白か、薄いピンク。
 それとも、紫に近い色。

 加奈先生は、どんな色が好きだろう。

 そう考えてから、葵は少しだけ驚いた。

 自分の好きなものだけではなく、加奈先生の好きな色も考えている。

 それは、少し新しいことだった。

     ◇

 家に帰ると、葵はベランダに出た。

 夕方の光が、手すりの向こうにある向かいのマンションの窓を淡く照らしていた。
 洗濯物はもう取り込まれていて、鉢の前に少しだけ空間があった。

 葵は、ミニトマトの茎を支柱に結び直した。

 少し遅かった。
 茎は曲がっていた。

 でも、折れてはいなかった。

 バジルの黄色くなった葉を取った。
 ビオラの株元をもう一度見た。
 ラナンキュラスの鉢は、乾いた土だけに見える。

 けれど、土の中には塊根があるかもしれない。

 見えないところで、春を待っているかもしれない。

 葵は、鉢の表面をそっと指でなでた。

「もう一回、見てみるね」

 誰に言ったのかはわからなかった。

 植物に。
 加奈先生に。
 自分に。

 部屋に戻ると、机の上のノートを開いた。

 ページの端に書いた言葉を、もう一度見た。

 春を待つ庭。

 葵は、その下に小さく書き足した。

「すぐ咲かなくてもいい庭」

 書いたあと、少しだけ笑った。

 普通になりたい。
 ちゃんとしなきゃ。

 そう思っていた。

 でも、もしかしたら。

 すぐに普通にならなくてもいいのかもしれない。
 すぐにちゃんとできなくてもいいのかもしれない。

 まだ、そう言い切ることはできなかった。

 でも、土の中に球根を植えるように、その言葉をノートの中に置いておきたいと思った。

 葵は、鉛筆を置いた。

 窓の外で、ベランダの葉が静かに揺れていた。

 秋は、まだ始まったばかりだった。


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