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第四章 植物なんか意味ない

 八月のベランダは、朝から熱を持っていた。

 手すりに触れると、少しだけ熱い。
 コンクリートの床にも、昨日の暑さが残っている気がした。

 葵は、ジョウロを持ってベランダに出た。

 ミニトマトの葉は、朝の光を受けて少し丸まっていた。水が足りないわけではない。暑さが強い日には、葉が自分を守るように縮むことがある。

 葵は土の表面を指で触った。

 乾いている。

 鉢底から少し水が出るまで、ゆっくり水を注いだ。

 水が土にしみこんでいく音は、小さかった。
 でも、葵にはよく聞こえた。

 バジルの葉に触れると、指先に青い匂いが移った。

 いつもなら、その匂いで少し気持ちが明るくなる。

 でも、その日は違った。

 ベランダの植物たちは、どれも夏の中で踏ん張っていた。

 ミニトマトはまだ実をつけている。
 バジルは葉を増やしている。
 クレマチスは花が終わって、細いつるだけが残っている。
 切り戻したビオラは、弱りながらも小さな葉を出している。

 ちゃんと見れば、それぞれが違う顔をしている。

 でも葵は、その違いを見るのが少しつらくなっていた。

 ちゃんと見る。

 加奈先生が言った言葉だった。

 植物も、勉強も、人も、ちゃんと見ないといけない。

 そう思っていた。

 でも、ちゃんと見るには、力がいる。

 今の葵には、その力が少しずつ足りなくなっていた。

     *

 夏期講習は、続いていた。

 週三回。

 母は、少ない方だと言った。
 学校の友達は、ほとんど毎日塾に行っていると言った。
 塾の先生は、無理のない回数だと言った。

 でも、葵には十分多かった。

 午前中に英語をやって、昼に数学の宿題を開いて、夕方に単語を覚える。
 それだけで、一日はすぐに終わった。

 終わったはずなのに、終わった感じがしなかった。

 やらなきゃいけないことは、いつも次に残っていた。

 英単語。
 計算。
 模試の復習。
 学校の宿題。
 塾の宿題。

 そして、植物。

 朝、ベランダに出るたびに、葵は少し焦るようになっていた。

 この葉は切った方がいい。
 この鉢は場所を変えた方がいい。
 この土は乾きすぎている。
 この茎は支柱に結び直した方がいい。

 見れば、やることが見つかる。

 見なければ、見つからない。

 だから、葵は少しずつ、見ないようになった。

 最初は、一つだけだった。

 ビオラの鉢を見なかった。
 暑さで弱っているのはわかっていた。
 もう夏越しは難しいかもしれないと思っていた。

 だから、見なかった。

 次の日は、クレマチスの鉢を見なかった。

 さらに次の日は、ミニトマトの下葉が黄色くなっているのに、気づかないふりをした。

 水はあげた。

 枯らしたかったわけではない。

 でも、ちゃんとは見なかった。

     ◇

 ステップバイステップでも、葵は少しずつ黙るようになった。

 加奈先生の授業は、前より少なくなっていた。

 大学のインターン。
 説明会。
 エントリーシート。
 面接。

 葵にはよくわからない言葉が、加奈先生の周りに増えていた。

 加奈先生が休みの日は、別の先生が授業をした。

 その先生たちは、悪い人ではなかった。
 説明もわかりやすかった。
 間違えても怒らなかった。

 でも、葵は疲れた。

 加奈先生なら、ここで待ってくれる。
 加奈先生なら、ここで「どこで迷った?」と聞いてくれる。
 加奈先生なら、最後に植物の話を少し聞いてくれる。

 そう思うたびに、目の前の問題が遠くなった。

 久しぶりに加奈先生の授業があった日、葵はミニトマトの写真を見せようと思っていた。

 赤くなった実が三つ並んでいる写真だった。
 一つ目より、少しだけ丸くてきれいだった。

 授業が終わりかけたころ、葵はスマートフォンに手を伸ばした。

「あの、先生」

「うん?」

「ミニトマトが……」

 そこまで言った時、加奈先生が時計を見た。

「あ、ごめん。今日このあと、大学の説明会があって」

「……はい」

「次、見せて。ごめんね」

 加奈先生は、申し訳なさそうに笑った。

 その顔を見たら、葵は何も言えなかった。

 加奈先生は悪くない。

 大学三年生だから。
 就活があるから。
 自分の未来を考えないといけないから。

 葵のミニトマトを見ている場合ではない。

「大丈夫です」

 葵は言った。

 言ったあとで、その言葉が自分の中に沈んでいくのを感じた。

 大丈夫。

 大丈夫ではない時ほど、出てくる言葉だった。

     ◇

 その夜、夕食のあと、母が言った。

「葵、最近ベランダに長くいすぎない?」

 葵は箸を止めた。

「そんなに長くないよ」

「そう? 朝も夕方も見てるでしょう」

「水あげたり、葉っぱ見たりするから」

「それはわかるけど」

 母は、怒っているわけではなかった。

 だから、余計に返しにくかった。

「今は受験が優先だからね」

 また、その言葉だった。

 受験が優先。

 間違っていない。

 中学三年生だから。
 夏休みだから。
 みんな頑張っているから。

「植物が好きなのはいいの。でも、そればっかりになってない?」

 葵は、味噌汁の器を見た。

 母の言葉は、まっすぐだった。

 植物ばっかり。

 葵は、そうなのかもしれないと思った。

 学校に行けなくなった時も、ベランダに出ていた。
 塾が怖かった時も、ラナンキュラスに話しかけていた。
 加奈先生に見てもらえない時も、ミニトマトの写真を撮っていた。

 植物ばっかり。

 普通の受験生は、そんなことをしないのかもしれない。

「……わかってる」

 葵は小さく言った。

「わかってるならいいけど」

 母は、それ以上言わなかった。

 父はリビングの端で本を読んでいた。

 会話を聞いていたのか、聞いていなかったのか、少し遅れて顔を上げた。

「まあ、葵が無理なくできるのが一番じゃないかな」

 父の声は優しかった。

 でも、その言葉は、母の言葉を止めるほど強くはなかった。

 母は小さく息をついた。

「無理なく、も大事だけど、今は頑張る時期でもあるのよ」

「うん、まあ、そうだね」

 父はそれ以上言わなかった。

 葵は、父を責めたいわけではなかった。

 父は優しい。
 でも、最後に家の空気を決めるのは、いつも母だった。

 葵は食器を下げて、自分の部屋に戻った。

 ベランダには出なかった。

     ◇

 翌朝、葵は目覚ましの音で起きた。

 カーテンの向こうが明るい。

 いつもなら、すぐにベランダに出る。

 でも、その日は布団の中でしばらく天井を見ていた。

 今日は夏期講習がある。
 午前中に英語。
 午後に数学の宿題。
 夜に単語。

 ベランダに出たら、また時間がなくなる。

 植物ばっかりになってはいけない。

 葵は、カーテンを開けなかった。

 朝食を食べ、着替えて、塾へ行った。

 帰ってきた時には、夕方になっていた。

 ベランダの植物たちが気になった。

 気になったけれど、葵は机に向かった。

 ちゃんとしなきゃ。

 英単語帳を開いた。

 文字を見た。

 でも、頭に入ってこなかった。

 カーテンの隙間から、ミニトマトの影が見えた。

 葉が少し垂れているように見えた。

 葵は、見ないふりをした。

 ちゃんとしなきゃ。
 普通になりたい。
 受験生なんだから。

 その言葉を、何度も自分の中で繰り返した。

 でも、繰り返すほど、胸の中が硬くなった。

     *

 次の加奈先生の授業の日、葵は少しだけ苛立っていた。

 自分でも、なぜかわからなかった。

 加奈先生は、いつも通り優しかった。

 葵の隣に座り、同じノートをのぞきこみながら、英文の主語と動詞を一緒に探してくれた。

「ここまで考えたのは合ってるよ」

 いつもの言葉だった。

 でも、その日はうまく受け取れなかった。

 加奈先生は、できているところを見てくれる。

 でも、最近はずっと見てくれているわけではない。

 忙しくなると、いなくなる。
 時計を見る。
 次の予定へ行く。

 わかっている。

 わかっているのに、苦しかった。

 授業の終わり、加奈先生が問題集を閉じた。

「今日はここまでにしようか」

「はい」

 加奈先生は、葵の顔を少し見た。

「疲れてる?」

「別に」

 葵は、いつもより少し早く答えた。

 加奈先生が、ペンを置いた。

「何かあった?」

「何もないです」

 言ったあとで、葵は自分の声が少し硬かったことに気づいた。

 加奈先生は、しばらく黙っていた。

 その沈黙が、葵にはつらかった。

 ちゃんと見ないで。

 そう思った。

 でも同時に、ちゃんと見てほしいとも思った。

 どちらなのか、自分でもわからなかった。

「ミニトマト、どうなった?」

 加奈先生が静かに聞いた。

 その言葉で、胸の奥がきゅっと縮んだ。

 今さら。

 そう思ってしまった。

 見てほしかった時には、見てくれなかったのに。

「別に、普通です」

「そっか」

「赤くなりました」

「本当? すごいね」

 加奈先生は笑った。

 葵は、その笑顔を見るのがつらかった。

 前なら嬉しかったはずなのに。

 今は、少しだけ腹が立った。

「先生、最近、全然見てくれないですよね」

 言ってから、葵は自分で驚いた。

 加奈先生も、少し驚いた顔をした。

「え?」

「ミニトマトも、写真見せようと思ってたのに。いつも忙しいって」

 声が震えた。

 こんなことを言いたかったわけではない。

 でも、一度出た言葉は止まらなかった。

「先生、植物のこと、調べてくれたのに。ちゃんと聞いてくれたのに」

 葵は、机の上の消しゴムを見た。

「でも、ほんとはそんなに興味なかったんですよね」

 加奈先生の表情が変わった。

「そんなこと……」

 言いかけて、加奈先生は止まった。

 その止まり方が、葵には答えのように見えた。

 加奈先生は、少し疲れた顔をしていた。

「ごめんね。今、私も就活で余裕がなくて」

「知ってます」

「葵さんの話を聞きたくないわけじゃないよ。ただ、全部ちゃんと受け取れるほど、今の私に余裕がなくて」

 加奈先生は、言葉を選んでいるようだった。

 でも、その慎重さが、葵には苦しかった。

「植物のことも、正直、葵さんほど好きなわけじゃないし」

 その瞬間、音が少し遠くなった。

 教室には、他の生徒の声もあった。
 鉛筆の音も、ページをめくる音もあった。

 でも、葵にはその言葉だけが残った。

 葵さんほど好きなわけじゃない。

 当たり前のことだった。

 加奈先生は、最初からそう言っていた。
 見るのは好きだけど、育てたことはないと。

 なのに、葵は勝手に期待していた。

 加奈先生ならわかってくれる。
 加奈先生なら、同じように大事にしてくれる。
 加奈先生なら、自分の好きなものをずっと見てくれる。

 勝手に、そう思っていた。

 恥ずかしかった。

 自分だけが、大事にしていた。

「……そうですよね」

 葵は、小さく言った。

「葵さん、今のは」

「大丈夫です」

 葵は鞄に問題集をしまった。

「ごめんなさい。変なこと言って」

「変じゃないよ」

 加奈先生が言った。

 その言葉も、もううまく入ってこなかった。

「時間なので、帰ります」

「あ、うん」

 加奈先生は何か言いたそうだった。

 でも、次の生徒がもう教室に来ていた。

 葵は、頭を下げて席を立った。

 教室のガラス扉を開ける時、「ステップバイステップ」の手作りの文字が見えた。

 少し曲がっている文字。

 前は、その曲がり方に安心した。

 今は、見ないようにした。

     ◇

 帰り道、葵はスマートフォンの写真を消そうとした。

 ミニトマトの写真。
 赤くなった実。
 バジルの葉。
 クレマチスのつる。
 ラナンキュラスの咲き終わり。

 画面の中には、ベランダの小さな季節が並んでいた。

 消そうと思った。

 でも、指が動かなかった。

 駅のホームで、葵はスマートフォンを閉じた。

 電車の窓に、自分の顔が映っていた。

 普通の顔。

 色白で、少しそばかすがあって、どこにでもいそうな中学生。

 普通になりたいと思っていた。

 でも、何が普通なのかわからなかった。

 植物の写真をたくさん撮るのは、普通ではないのかもしれない。
 ラナンキュラスに話しかけるのも、普通ではないのかもしれない。
 ミニトマトが赤くなっただけで、誰かに見てほしくなるのも、普通ではないのかもしれない。

 だったら、やめればいい。

 葵は思った。

 植物なんか意味ない。

 その言葉は、思っていたより簡単に出てきた。

 好きだったはずなのに。
 大事だったはずなのに。

 でも、意味がないと思えば、傷つかなくて済む気がした。

     ◇

 それから数日、葵はベランダにあまり出なかった。

 水やりはした。

 でも、急いで済ませた。

 土の乾きだけを見る。
 葉の裏は見ない。
 茎の曲がりも見ない。
 花がらも摘まない。

 ちゃんと見ない。

 見なければ、苦しくならない。

 ミニトマトの実が赤くなっているのも、気づいていた。
 でも、収穫しなかった。

 バジルの葉が少し硬くなっているのも、気づいていた。
 でも、摘まなかった。

 ビオラは、いよいよ弱っていた。

 小さな葉が茶色くなり、鉢の端で倒れるように広がっていた。

 葵は、その鉢を見ないようにした。

 見れば、切り戻すか、処分するか、何かを決めなければならない。

 決めたくなかった。

 何も決めたくなかった。

 勉強も、志望校も、植物も、自分の気持ちも。

 全部、見たくなかった。

     ◇

 ある夜、雨が降った。

 夏の雨だった。

 短い時間に強く降って、ベランダの手すりを濡らし、鉢の土を叩いた。

 葵は部屋の中で英単語帳を開いていた。

 窓の向こうで、雨の音がしていた。

 水をあげなくて済む。

 最初にそう思った。

 そのことが、自分でも少し嫌だった。

 雨はしばらくして止んだ。

 向かいのマンションの明かりが、濡れたベランダの手すりにぼんやり映っていた。

 葵は、カーテンを閉めた。

 見なければ、何も起きていないことにできる気がした。

     ◇

 翌朝、葵はいつもより少し遅く起きた。

 母はもう仕事に出ていた。
 父も出勤したあとだった。

 リビングには、朝食の皿だけが残っていた。

 葵はパンを食べ、牛乳を飲んだ。

 今日は午後から塾だった。

 午前中に宿題をやらなければならなかった。

 でも、窓の向こうが気になった。

 昨日の雨で、鉢がどうなったか。

 気になった。

 気になっている自分が嫌だった。

 植物なんか意味ない。

 そう思ったはずなのに。

 葵は、しばらく机に座っていた。

 英語の問題集を開いた。
 一問目を読んだ。
 意味が入ってこなかった。

 窓の外で、何かが赤く見えた。

 葵は立ち上がった。

 カーテンを少しだけ開けた。

 ベランダは、雨のあとで湿っていた。

 鉢の土は黒く濡れている。
 バジルの葉には水滴が残っている。
 クレマチスの細いつるが、手すりの方へ伸びている。

 そして、ミニトマトの鉢に、赤い実がついていた。

 一つではなかった。

 二つ、三つ。

 雨に濡れて、つやつやしていた。

 葵は、ベランダに出た。

 裸足のままだったので、床の湿り気が足の裏に伝わった。

 ミニトマトの実は、小さかった。

 店で売っているものより形もそろっていない。
 一つは少し割れていた。
 もう一つは、虫にかじられたような跡があった。

 それでも、赤かった。

 葵がちゃんと見ていない間に、赤くなっていた。

 葵が話しかけなくても。
 写真を撮らなくても。
 加奈先生に見せなくても。
 母に褒められなくても。

 植物は、ちゃんと生きていた。

 葵は、しゃがんだ。

 ビオラの鉢が目に入った。

 葉はかなり傷んでいた。
 茎も伸びすぎて、形が崩れていた。
 少し前に見ていれば、違ったかもしれない。

 バジルも、下の葉が黄色くなっていた。

 クレマチスのつるは、絡まる前に誘引し直した方がよかった。

 ちゃんと見ていなかった。

 葵は、ミニトマトの赤い実に触れた。

 指先に、雨の冷たさが残った。

「ごめんね」

 声が出た。

 誰に言ったのか、自分でもわからなかった。

 ミニトマトに。
 ビオラに。
 ラナンキュラスに。
 植物が好きだった自分に。

「ごめんね」

 もう一度言うと、涙が落ちた。

 大きな涙ではなかった。

 ぽろっと一つ落ちて、濡れたベランダの床に混ざった。

 葵は、そこにしゃがんだまま、しばらく動けなかった。

 植物なんか意味ない。

 そう思おうとした。

 でも、目の前の赤い実は、意味があるとかないとか、そんなこととは関係なく、そこにあった。

 雨のあと、少し傷つきながら。

 それでも、ちゃんと赤くなっていた。


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