【#映画感想文】北の国から'87初恋 泥のついた新札と、父の背中について byオーマ 【#Podcast エピソード紹介】
「Reel Friends in Tokyo」は、パーソナリティの“まこ”と“オーマ”がお送りする映画紹介Podcastです。このnoteでは、ポッドキャスト本編で取り上げた話題作や名作、はたまた迷作たちを、番組で語りきれなかった裏話や個人的な深掘り、そしてリスナーの皆さまへの補助情報として、二人ならではの視点で掘り下げていきます。
毎回、Podcastで交わしたトークやディスカッションの要点、まこ・オーマ両名による独自の考察、時に脱線しがちな本音トークから個人的に見た映画Reviewまで、記事としてまとめております。リスナーの方も、そうでない方も、ぜひ肩の力を抜いてお楽しみください。
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序章 父の背中が小さくなる日
子供にとって、父親の背中には二つの意味がある。一つは、その後ろについていけば安全だという保証。もう一つは、まだ追いつけないという距離の証明。どちらも「父が前にいる」ことが前提だ。
『北の国から'87初恋』は、その前提が崩れる瞬間を描いている。
中学三年になった純は、「ペンチ」と呼ばれるほど機械いじりが得意になっている。朽ちた風力発電機に目を留め、自分の手で直そうとし、電気屋のシンジュクを訪ね、大里家に出入りしながら着実に修理を進めていく。それは五郎に命じられた作業ではない。純が自分で見つけ、自分で始め、自分で完成させたものだ。
ここで注目すべきは、純がこの一連の行動を五郎に一切相談していないことである。隠しているのではない。相談するという発想自体が、もう純の中に存在していない。以前の純であれば、何をするにも五郎の判断を仰いでいた。それは反抗しないという意味ではなく、五郎の規範の内側にいることが自分の居場所だったからだ。ところがこの物語の純は、れいとの出会い、東京の定時制高校という選択肢、風力発電への没頭を通じて、五郎の枠組みの外側に自分の世界を築き始めている。
五郎の誕生日に風力発電が完成する。草太やアイコたちも駆けつけ、その場は祝いの空気に包まれてもおかしくない。しかし五郎が発したのは「俺はそんなに頼りにならないか」という言葉だった。
この一言は、怒りのように聞こえるが、怒りだけではない。五郎は、純が自分を超えていく力を持ち始めたことに気づいている。気づいていて、それでも「なぜ俺に言わなかった」と問わずにいられない。親としての威厳と、息子の成長を受け入れなければならないという現実のあいだで、五郎自身が揺れている。
純のほうも同じだ。父に黙っていたのは、軽んじていたからではない。ただ、自分がやりたいことを自分で決められるようになったとき、それを父に「報告する」ことの意味がわからなくなっていた。従えばよかった時代には迷う必要がなかった。しかし並んでしまった今、どう向き合えばいいのか、純自身にもまだ言葉がない。
この物語の核にあるのは、初恋の甘さでも別れの切なさでもない。子供が親と同じ地平に立ったとき、両者のあいだに生まれる居心地の悪さだ。それは反抗期の衝突とは違う。もっと静かで、もっと取り返しがつかない変化である。
第1章 誰にも報告しない場所
純がれいに惹かれた経緯を振り返ると、そこに劇的なきっかけがあったわけではない。朽ちた風力発電機の前で出会い、雨に降られて納屋に逃げ込み、濡れた服を乾かしながら話をした。それだけだ。だが純にとって、この出会いには決定的な意味があった。それは、五郎の知らない場所で、五郎と無関係に、自分だけの関係が生まれたということである。
麓郷での純の人間関係は、基本的に五郎の生活圏の内側にある。友人のチンタも広介も、草太もアイコも、五郎と地続きの世界の住人だ。純が何をしているかは、誰かを通じていずれ五郎の耳に届く。しかしれいとの関係は違った。大里家は麓郷の共同体からやや外れた位置にあり、純がそこに通っていることを五郎はすぐには把握できない。純にとってれいは、初めて「父の目が届かない場所にいる他者」だった。
重要なのは、純がそれを意図的に隠していたわけではないという点だ。純はれいとの関係を秘密にしようとしたのではなく、そもそも父に報告するという回路が作動しなかった。これは序章で触れた風力発電の件と同じ構造である。五郎の規範の内側にいた頃の純であれば、新しい人間関係も、新しい関心も、まず五郎を経由して自分の中に位置づけていた。だがれいとの時間は、五郎を経由する必要がなかった。純はそのことに罪悪感を覚えていない。覚えていないこと自体が、すでに巣立ちの兆候である。
れいとの会話の中で、純は東京の定時制高校という進路を知る。ここにも注意が要る。この情報は五郎からではなく、れいから純にもたらされている。かつて純の将来を方向づけていたのは五郎の判断だった。東京から麓郷へ来たのも、五郎の決断に従った結果だ。しかし今度は、純が五郎を介さずに自分の進路の可能性を手に入れている。しかもその情報源は、父が存在すら十分に認識していない少女である。
五郎がれいとの関係を咎めるような態度を見せたのは、単に息子の異性関係を心配したからだけではないだろう。五郎が本当に感じていたのは、純の世界に自分の知らない領域が広がっているという事実への不安だったのではないか。チンタの畑の被害に対して政吉の言い分に同調する純を見たとき、五郎は息子が自分ではない大人の価値観を取り込み始めていることに気づいたはずだ。
れいは純にとって恋愛の対象であると同時に、五郎の圏外に初めて築かれた自分だけの世界の象徴でもあった。そしてその世界は、純が意図して作ったものではなく、気づいたらそこに立っていたという類のものだった。
第2章 「見栄」という足場
五郎の誕生日、純は完成した風力発電を披露する。草太やアイコたちも集まり、場の空気は明るい。しかし五郎の口から出たのは祝福でも驚嘆でもなく、「俺はそんなに頼りにならないか」という言葉だった。
この場面を、親子喧嘩として片づけることはできない。五郎は風力発電の出来栄えに怒っているのではない。純の技術が未熟だと言っているのでもない。五郎が耐えられなかったのは、「息子が一人で完成させた」という事実そのものだ。相談されなかった。頼られなかった。自分が知らない場所で、息子は一つの仕事をやり遂げてしまった。五郎にとってそれは、自分がもう純の世界の中心にいないという証拠を、大勢の前で突きつけられたことに等しい。
純が家を飛び出すのは、父の怒りに反発したからではないだろう。むしろ、五郎の感情が正当であることを感じ取ってしまったからだ。純は悪意で黙っていたわけではない。しかし、黙っていたことが父を傷つけたという事実は動かない。自分が悪いのかどうかさえはっきりしないまま、ただこの場にいられなくなった。その衝動だけで飛び出している。
追いかけてきた草太は、純にこう言う。「男は見栄で生きてるもんだ」。
この台詞は一見、単なる年長者の説教に聞こえる。しかし草太がここで言う「見栄」は、虚勢や格好つけのことではない。草太自身がかつてつららとの関係で何を抱えていたかを思い出せば、この言葉の手触りは変わってくる。草太はつららが幸せに暮らしていると聞いて安堵していた。自分が手放した相手が幸せであることを確認しなければ先に進めない。それもまた、草太にとっては「見栄」だったのではないか。自分の選択が間違いではなかったと思いたい。思いたいけれど確信は持てない。それでも、その不確かさを抱えたまま立っていること。草太が「見栄」と呼んでいるのは、そういう種類の態度だ。
だからこそ、この言葉は純に届く。草太は「父親に謝れ」とは言っていない。「お前が間違っている」とも言っていない。ただ、五郎にも見栄があるのだと伝えている。父親であること、息子に頼られる存在であること、それは五郎にとっての足場であり、その足場が揺らいだからこそあの感情が出た。草太が純に示したのは、五郎の怒りの奥にある脆さだった。
純が父に詫びるのは、自分の非を認めたからというよりも、父の見栄を理解したからだろう。自分が巣立つことで父の足場が崩れる。それは止められないし、止めるべきでもない。だが、崩れることへの痛みを無視してよい理由にもならない。純の謝罪は、反省ではなく、承認に近い。父の見栄を見栄として認め、それでも自分は進むという態度の表明だ。
草太がここで果たしている役割は大きい。五郎でもなく純でもない第三の立場から、親子双方の見栄を等しく理解している人間がいたこと。その存在が、この衝突を決裂ではなく通過点に変えている。
第3章 足跡だけが残る別れ
クリスマスイブ、純は約束通り納屋へ向かう。しかしれいはいない。大里一家は、町を去っていた。
この別れには、前触れがなかったわけではない。秋の霜害への対策に追われる中、政吉は妻をコンテナの下敷きにしてしまう事故を起こしている。大里家がこの土地で暮らし続けることの限界は、あの時点ですでに見えていた。しかし純にとって、大里家の事情は「れいの背景」でしかなかった。れいがいる場所に通い、れいと話し、れいと約束をする。その関係の手触りだけが純の現実であり、大里家という家族がどれほど追い詰められていたかを、純は正面から受け止めていない。
これは純の鈍さというよりも、十五歳の限界だろう。自分が誰かを好きだという感情と、その相手が属する家族の生活とを同時に把握することは、この年齢にはまだ難しい。純はれいを個人として見ていた。だがれいは個人である前に大里家の娘であり、父の判断に従って生きる立場にいた。れいが自分の意思で去ったのではないことは、納屋に残された手紙とカセットプレイヤーが証明している。去りたくなかった。だから痕跡を残した。しかし残れなかった。
純が納屋で見つけたものの中で、最も雄弁なのはカセットから流れる尾崎豊の「I LOVE YOU」ではない。帰り際に純が気づいた、れいの足跡のほうだ。納屋を一度振り返った跡。その足跡は、れいが最後にこの場所へ来ていたことを示している。約束の場所に、約束の相手より先に来て、しかし会わずに去った。会えば引き留められるかもしれない。引き留められたら、自分は従えなくなるかもしれない。れいが振り返りながらも立ち去ったのは、会わないことが自分にできる最後の誠実さだと判断したからではないか。
純はこの足跡の前で立ち尽くす。そしてここで、東京へ行く意味を見失いかけている。
この心理は理解できる。純にとって東京行きは、れいとの未来と無関係ではなかった。東京の定時制高校という選択肢を教えてくれたのはれいだ。れいと出会ったことで広がった世界の延長線上に、東京があった。その起点が消えた以上、東京へ行く理由も揺らぐ。純の足が止まるのは、失恋の悲しみだけではなく、自分の決断の根拠そのものが崩れたという感覚からだろう。
ここで純を一喝するのが螢である。螢の言葉は物語の中で多くは語られない。螢は純の感傷を否定しているのではない。感傷に溺れて止まることを許さないだけだ。螢のこの振る舞いは、草太が五郎の見栄を純に翻訳して見せたのと似た構造を持っている。純が自分だけでは処理しきれない感情に囚われたとき、横から手を差し出す人間がいる。それは答えを与えるのではなく、もう一度歩き出す最初の一歩を支える程度の介入だ。
終章 泥のついた一万円札
出発の日、純はトラックの助手席に乗り込む。五郎は息子の手をしっかりと握り、螢は兄の手を優しく握った。握り方の違いに、それぞれの感情が出ている。五郎の握手には、言葉にできなかったすべてが込められている。引き留めたい気持ちも、送り出す覚悟も、一つの動作に押し込むしかない不器用さ。螢の握り方はそれとは違う。兄が遠くへ行くことを、もう受け入れた人間の手だ。叱って、雪を払って、そして最後に手を握る。螢はこの物語の中で、感情を行動の順序に変換できる人間として一貫している。
トラックが走り出す。純はヘッドホンで音楽を聴きながら、れいのことを思い出している。まだ足跡の記憶は消えていない。納屋に残されたカセット、振り返った跡、会わずに去ったれいの判断。それらが繰り返し蘇る中で、純の意識はまだ麓郷に留まっている。東京へ向かう車に乗りながら、心はまだ出発していない。
その回想を断ち切るのが、運転手の男だ。顎で示した先に封筒がある。「しまっとけ」と男は言い、続ける。ピン札に泥がついている、お前の親父の手についていた泥だろう、自分は受け取れない、お前の宝にしろ、と。
五郎が息子の旅立ちのために新札を用意したこと。しかしその札に、自分の手の泥がついてしまったこと。この二つの事実が同時に存在している。五郎は息子に恥ずかしくない金を持たせたかった。だが五郎の手は、麓郷の土を何年も掘り返してきた手であり、どれだけ洗っても泥は落ちきらない。新札を汚したのは五郎の不注意ではなく、五郎の人生そのものだ。
純はこの泥を見て泣く。ここで流れる涙は、れいとの別れの涙とは質が違う。れいを失った悲しみが個人的な喪失であるのに対して、この涙はもっと根の深い場所から来ている。
純はこの物語を通じて、五郎の圏外に自分の世界を築いてきた。れいと出会い、東京行きを決め、風力発電を一人で完成させた。五郎に相談しなかったのは、もう父を必要としていなかったからではない。父の規範から離れて立つことが、自分にもできると確かめたかったからだ。しかしその巣立ちの過程で、純は五郎を傷つけてもいる。「俺はそんなに頼りにならないか」という言葉を引き出したのは純だ。草太に諭されて詫びはしたが、巣立ちの方向を変えたわけではない。
泥のついた一万円札は、その五郎が、それでも息子を送り出そうとした証拠だ。傷ついたまま、見栄を張ったまま、それでも新札を用意した。その新札に自分の生活の痕跡がついてしまう不可避さが、五郎という人間のすべてを物語っている。
純が泣いたのは、父の愛情に気づいたからではない。気づいていなかったわけではないからだ。わかっていた。わかっていて、それでも離れることを選んだ。その選択の重さが、泥を通じて身体に入ってきた。蘇るのは開拓の記憶、幼い日の風景。それは懐かしさではなく、自分がこれから手放すものの総量を突きつけられる感覚に近い。
トラックは雪の残る北海道を走り続ける。純の涙は、別れの涙でも感謝の涙でもない。自分が巣立つことの代償を、初めて正確に知った人間の涙だ。父と並んだと感じた瞬間の不安定さ。その不安定なまま、それでも前に進むと決めた人間が払う、最初の代償。
この物語が「初恋」と題されていることの意味は、ここにある。初恋とは、れいへの恋だけを指していない。自分の意志で何かを選び、その結果として何かを失うという経験の、最初の一回。純にとっての初恋は、れいであると同時に、父の手から離れるという選択そのものだった。
podcasterの まこ(@_macobana)が、メインチャンネル『ポケットに沼を』(#ポケ沼 )では語り足りないアレコレを一人語りするポッドキャスト番組、『#よもやまこばなし 』(#まこばな )にて展開された映画談義がついに専門チャンネルに。
語りたい映画なんて尽きることない!
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