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【#映画感想文】 #映画 『#ディック&ジェーン 復讐は最高!』――経済的な豊かさが脅かされても残るもの、あるいは新自由主義の残酷な笑い 【#Podcast エピソード紹介】

Reel Friends in Tokyo」は、パーソナリティの“まこ”と“オーマ”がお送りする映画紹介Podcastです。このnoteでは、ポッドキャスト本編で取り上げた話題作や名作、はたまた迷作たちを、番組で語りきれなかった裏話や個人的な深掘り、そしてリスナーの皆さまへの補助情報として、二人ならではの視点で掘り下げていきます。

毎回、Podcastで交わしたトークやディスカッションの要点、まこ・オーマ両名による独自の考察、時に脱線しがちな本音トークから個人的に見た映画Reviewまで、記事としてまとめております。リスナーの方も、そうでない方も、ぜひ肩の力を抜いてお楽しみください。

なお番組の最新エピソードご聴取はこちらよりどうぞ↓


第0章 ジム・キャリーが演じる「普通」の恐怖――コメディという仮面の下にあるもの

0.1 不世出のコメディアンが見せる「傑作でもなんでもない、普通のコメディ」

ジム・キャリー作品が好きだ。彼の圧倒的な演技力を愛してやまない。どうでもいい日常の中でのちょっとした面白さ、くすっとできる挙動。こんな人いるよね、と思わせる説得力。不世出のコメディアンが見せる傑作でもなんでもない、普通のコメディ。

本作をはじめて見たときはそう思った。どこにでもいる家庭。少し裕福で夫が昇進。順調な人生設計。それが会社の倒産で足元から崩れ去る。どうしようもなくなり強盗しようとするが……本作が描くのは、当然のように続いていくであろう社会生活が崩れ去った後の喜劇だ。

しかし、「普通のコメディ」という評価は、実は最大の賛辞かもしれない。なぜなら、この映画が描いているのは「普通」そのものの脆弱性だからだ。私たちが「普通」だと思っている生活——安定した収入、郊外の一軒家、子どもの教育、週末のバーベキュー——これらすべてが、実は極めて不安定な経済システムの上に成り立っている。そして、そのシステムが崩壊したとき、「普通」は一瞬で「異常」に転じる。

社会学者ジグムント・バウマンは、『リキッド・モダニティ』で、現代社会を「液状化した近代」と呼んだ。バウマンによれば、かつて「固体」だった社会構造——家族、雇用、コミュニティ——は、今や「液体」のように流動的で不安定になっている。『ディック&ジェーン』は、まさにこの液状化の瞬間を描いている。ディック・ハーパーは、昇進という「固体」を掴んだと思った瞬間、それが「液体」に溶けていくのを目撃する。

"In the midst of winter, I found there was, within me, an invincible summer."
(冬の最中に、私は自分の内側に不屈の夏があることを発見した。)
―― アルベール・カミュ

0.2 2005年という時代――エンロン、ワールドコム、そして新自由主義の黄昏

本作が公開されたのは2005年。この年が持つ意味を理解しなければ、この映画の真の恐怖は見えてこない。2001年、エンロンが倒産した。アメリカ史上最大級の企業破綻だった。エンロンは、エネルギー取引の革新者として称賛され、『フォーチュン』誌の「最も革新的な企業」に6年連続で選ばれていた。しかし、その裏では会計不正が横行し、数千億円規模の負債が隠蔽されていた。2001年12月、エンロンは連邦破産法を申請。2万人以上の従業員が職を失い、退職金は紙くずになった。

2002年、ワールドコムも同様に倒産した。会計不正の規模はエンロンを上回り、110億ドル(約1兆2000億円)の粉飾決算が明らかになった。これらの事件は、アメリカ社会に衝撃を与えた。なぜなら、これらの企業は「成功の象徴」だったからだ。エンロンのCEOジェフ・スキリングは、ハーバード・ビジネス・スクール出身のエリートだった。ワールドコムのCEOバーニー・エバースは、ミシシッピ州の貧しい家庭から成り上がった「アメリカンドリームの体現者」だった。

経済学者ジョセフ・スティグリッツは、『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』で、エンロン事件を「新自由主義の失敗」の象徴として分析した。スティグリッツによれば、1980年代以降のアメリカは、規制緩和と市場原理主義を推進してきた。企業は、利益を最大化するために、あらゆる手段を使った。会計不正、労働者の搾取、環境破壊。そして、その「成功」が称賛された。しかし、エンロン事件は、その「成功」が虚構であることを暴露した。

『ディック&ジェーン』は、まさにこの文脈で制作された。劇中の企業「グローボダイン」は、明らかにエンロンを模している。CEOのジャック・マッカリスター(アレック・ボールドウィン)は、スキリングやエバースの合成だ。そして、ディック・ハーパー(ジム・キャリー)は、エンロンで職を失った2万人の象徴だ。

0.3 本作が描く真のテーマ――経済システムの暴力性と、それでも残るもの

本作が面白いのは、大企業の倒産という憂き目にあった人々が出演していることだ。エンドクレジットには、実際にエンロンやワールドコムで職を失った人々の名前が流れる。これは、単なる演出ではない。映画は、彼らに捧げられている。人生は終わらない。設計が書き換わるだけ。だけど眼の前の辛い現実は変わらない。そこを乗り越えられるのは少しの勇気と愛による支えだ。

終始馬鹿げた出来事の応酬で単純なコメディなのだが、倒産した企業に振り回されながらも、新しい生活を始めた人々が画面でたくましく輝いている。僕らはそこに少しだけ勇気をもらって、予想のできない明日を生きていくのだ。

しかし、この「勇気」と「愛」は、決して無条件に称賛されるべきものではない。なぜなら、この映画が描いているのは、システムに裏切られた人々が、システムの外で生き延びるために、システムを攻撃する物語だからだ。ディックとジェーンは、強盗になる。彼らは、犯罪者になることで、経済システムへの復讐を果たす。これは、コメディの形を取った、極めて政治的な映画だ。

第1章 「普通の生活」の経済学――私たちは何に支えられているのか

1.1 僕らは当たり前のように今日を生きて当たり前のように明日を迎えている

僕らは当たり前のように今日を生きて当たり前のように明日を迎えている。しかし社会経済の中で何が起きるかは僕らにはわからない。大企業の倒産が人生を狂わせるのは、経済によって僕らの生活が支えられているからだ。

この「当たり前」を、経済学的に分解してみよう。ディック・ハーパーの生活は、以下の要素で成り立っている。

第一に、安定した雇用。ディックは、グローボダインの広報担当部長に昇進する。これは、彼のキャリアの頂点だ。しかし、この「安定」は幻想だった。企業が倒産すれば、雇用は一瞬で消える。経済学者ハイマン・ミンスキーは、「金融不安定性仮説」を提唱した。ミンスキーによれば、資本主義経済は本質的に不安定であり、好景気が続くほど、金融システムは脆弱になる。エンロンもまた、好景気の中で膨張し、そして崩壊した。

第二に、信用。ディックとジェーンに限らず現代人の多くは、住宅ローンを組み、車をリースし、クレジットカードで買い物をする。これらはすべて、「未来の収入」を担保にした信用取引だ。しかし、収入が途絶えた瞬間、信用は崩壊する。社会学者デヴィッド・グレーバーは、『負債論』で、負債が人間関係を支配する構造を分析した。グレーバーによれば、負債は単なる経済的関係ではなく、権力関係だ。債権者は、債務者を支配する。ディックとジェーンは、銀行、自動車会社、クレジットカード会社に支配されている。そして、収入が途絶えた瞬間、その支配が暴力的に顕在化する。

第三に、消費。ディックとジェーンの生活は、消費によって定義される。郊外の一軒家、新車、ガーデニング、子どもの教育——これらはすべて、「中流階級のライフスタイル」を構成する商品だ。社会学者ピエール・ブルデューは、『ディスタンクシオン』で、消費が階級を再生産する仕組みを論じた。ブルデューによれば、人々は消費を通じて、自分の階級的地位を示す。ディックとジェーンは、消費によって「中流階級」であることを証明している。しかし、その証明が途絶えた瞬間、彼らは階級から転落する。

1.2 新自由主義という名の暴力――個人の責任と構造的な問題

本作が公開された2005年は、新自由主義が頂点に達していた時期だ。新自由主義とは、簡単に言えば、「市場に任せれば、すべてうまくいく」という思想だ。政府は規制を緩和し、企業は自由に競争し、個人は自己責任で生きる。この思想は、1980年代のレーガン政権とサッチャー政権によって推進され、世界中に広がった。

しかし、新自由主義には暗黒面がある。第一に、不平等の拡大。経済学者トマ・ピケティは、『21世紀の資本』で、資本主義が必然的に不平等を拡大させることを実証した。ピケティによれば、資本収益率は経済成長率を上回る。つまり、資本を持つ者はより豊かになり、労働に依存する者は相対的に貧しくなる。エンロンのCEOジェフ・スキリングは、倒産直前に1億3200万ドル(約145億円)の株式を売却し、巨額の利益を得た。一方、従業員は退職金を失った。

第二に、リスクの個人化。新自由主義においては、すべてのリスクは個人が負う。失業したのは、あなたのスキルが足りないからだ。貧困なのは、あなたの努力が足りないからだ。この論理は、構造的な問題を隠蔽する。社会学者ウルリヒ・ベックは、『危険社会』で、現代社会がリスクを個人に押し付ける構造を批判した。ベックによれば、リスクは社会的に生産されるが、個人が負担させられる。エンロンの倒産は、経営陣の不正と規制緩和の結果だった。しかし、そのリスクを負ったのは、従業員だった。

『ディック&ジェーン』は、この構造を痛烈に風刺している。ディックは、昇進のスピーチで、新自由主義的なレトリックを使う。「私たちは、チームです。一緒に成功します」。しかし、その直後、会社は倒産する。そして、CEOは逃亡する。ディックは、「チーム」の一員として称賛されたが、「個人」として見捨てられる。これが、新自由主義の本質だ。

"We are too poor to afford cheap things."
(私たちは、安物を買う余裕がないほど貧しい。)
―― アナトール・フランス

1.3 経済的な豊かさの定義――それは本当に「豊かさ」なのか

ディックとジェーンの「豊かさ」とは何か。それは、物質的な豊かさだ。大きな家、新しい車、最新の家電。しかし、その豊かさは、負債によって支えられている。彼らは、実際には何も所有していない。銀行が家を所有し、自動車会社が車を所有し、クレジットカード会社が家電を所有している。ディックとジェーンは、単に「使用する権利」を持っているにすぎない。

哲学者ジャン・ボードリヤールは、『消費社会の神話と構造』で、消費が「記号」の消費であることを論じた。ボードリヤールによれば、人々が消費するのは、物そのものではなく、その物が持つ「意味」だ。新車を買うのは、移動手段を得るためではなく、「成功」という記号を獲得するためだ。ディックとジェーンもまた、記号を消費している。そして、その記号が剥奪された瞬間、彼らは「何もない」ことに気づく。

経済学者アマルティア・センは、『不平等の再検討』で、豊かさを「ケイパビリティ(潜在能力)」として定義した。センによれば、真の豊かさとは、物を所有することではなく、「自分が価値あると思う生き方を選択できる能力」だ。ディックとジェーンは、物質的には豊かだったが、ケイパビリティは低かった。なぜなら、彼らの選択肢は、経済システムによって完全に規定されていたからだ。収入が途絶えた瞬間、彼らは選択肢を失った。

しかし、映画の後半、ディックとジェーンは新しい選択肢を見つける。それは、犯罪だ。彼らは、銀行を襲い、コンビニを襲い、そしてCEOを襲う。これは、経済システムの外側で、自分たちの生き方を選択する行為だ。もちろん、それは違法だ。しかし、映画は彼らを糾弾しない。むしろ、称賛する。なぜなら、彼らはシステムに抵抗しているからだ。

第2章 ジム・キャリーという装置――コメディアンが暴く資本主義の狂気

2.1 「こんな人いるよね」と思わせる説得力――日常の延長線上にある悲劇

ジム・キャリーの演技が素晴らしいのは、彼が「普通の人」を演じることができるからだ。もちろん、ジム・キャリーは普通ではない。彼の顔芸、身体能力、コメディセンスは、圧倒的に異常だ。しかし、『ディック&ジェーン』において、彼はその異常性を抑制し、「普通の会社員」を演じる。そして、その普通性が崩壊する瞬間を、見事に描き出す。

演技論の観点から見れば、ジム・キャリーは「メソッド演技」と「コメディ演技」の両方を使い分けている。昇進のシーンでは、彼は本気で喜んでいる。その喜びは、観客に伝染する。しかし、倒産を知った瞬間、彼の表情は一変する。その落差が、笑いを生む。同時に、恐怖も生む。なぜなら、その落差は、私たち自身の人生でも起こりうるからだ。

心理学者ダニエル・カーネマンは、『ファスト&スロー』で、人間の思考を「速い思考」と「遅い思考」に分類した。速い思考は、直感的で感情的だ。遅い思考は、論理的で慎重だ。ディックは、昇進の瞬間、速い思考で喜ぶ。しかし、倒産の瞬間、遅い思考が追いつかない。彼は、何が起きたのか理解できない。その混乱を、ジム・キャリーは身体全体で表現する。彼の顔は歪み、声は裏返り、身体は硬直する。これは、コメディだが、同時に極めてリアルな人間の反応だ。

2.2 身体が語る経済的転落――コメディとしての痛み

ジム・キャリーの身体は、経済的転落を可視化する装置だ。映画の前半、彼の身体は自信に満ちている。背筋を伸ばし、胸を張り、颯爽と歩く。しかし、倒産後、彼の身体は萎縮する。猫背になり、肩を落とし、うつむいて歩く。これは、経済的地位が身体に刻まれることを示している。

社会学者アーヴィング・ゴフマンは、『行為と演技』で、人間の日常生活を「演技」として分析した。ゴフマンによれば、人々は常に「役割」を演じている。会社員、父親、夫——これらはすべて、社会的に期待される役割だ。そして、その役割は、身体を通じて表現される。ディックは、「成功した会社員」という役割を演じていた。しかし、その役割を支える経済的基盤が崩壊した瞬間、彼は役割を失う。そして、身体もまた、その喪失を表現する。

特に印象的なのは、ディックが職業安定所で仕事を探すシーンだ。彼は、次々と不採用の通知を受ける。その度に、彼の身体は小さくなっていく。最後には、彼は床に座り込む。これは、文字通りの「転落」だ。経済的地位の転落が、物理的な転落として表現される。ジム・キャリーは、この転落を、笑いに変える。しかし、その笑いは、痛みを伴う。観客は、笑いながら、同時に胸が締め付けられる。

"Comedy is simply a funny way of being serious."
(コメディとは、深刻なことを面白く語る方法にすぎない。)
―― ピーター・ユスティノフ

2.3 コメディという仮面――笑いの裏側にある怒り

しかし、ジム・キャリーのコメディは、単なる笑いではない。その裏側には、怒りがある。映画の後半、ディックとジェーンは強盗になる。彼らは、銀行を襲い、コンビニを襲い、そして最終的にはCEOを襲う。このシーンで、ジム・キャリーの演技は、コメディから復讐劇へと転調する。彼の目は笑っていない。彼の声は、冷たい。彼の身体は、暴力的だ。

これは、コメディが持つ「攻撃性」を示している。文学理論家ミハイル・バフチンは、『ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』で、笑いの攻撃性を論じた。バフチンによれば、笑いは権力を転覆させる力を持つ。カーニヴァルにおいて、民衆は王を笑いものにする。それは、一時的に権力を無効化する行為だ。『ディック&ジェーン』もまた、カーニヴァル的だ。ディックとジェーンは、CEOを笑いものにする。そして、その笑いは、暴力に転じる。

しかし、この暴力は、正当化されるのか。映画は、明確な答えを与えない。ディックとジェーンは、犯罪者だ。しかし、彼らは同時に、被害者でもある。彼らが奪うのは、不正に得られた金だ。彼らが攻撃するのは、彼らを裏切った者たちだ。この両義性が、映画の複雑さだ。観客は、ディックとジェーンを応援しながら、同時に彼らの行為に疑問を抱く。笑いながら、考えさせられる。それが、この映画の力だ。

第3章 「愛と勇気」という名の生存戦略――それは美談なのか、それとも悲劇なのか

3.1 ジェーンという存在――夫婦の絆が試される瞬間

ジェーン・ハーパー(ティア・レオーニ)は、ディックの妻だ。彼女は、ディックの昇進を祝い、倒産に絶望し、そして復讐に協力する。彼女は、単なる「良い妻」ではない。彼女もまた、経済システムの被害者であり、同時に加害者でもある。

映画の冒頭、ジェーンは旅行代理店を辞める。なぜなら、ディックの昇進によって、彼女が働く必要がなくなったからだ。これは、一見すると「成功」だ。しかし、実際には「依存」の始まりだ。ジェーンは、経済的にディックに依存する。そして、ディックが職を失った瞬間、彼女もまた転落する。

フェミニスト経済学者ナンシー・フォルブルは、『見えない心臓』で、家庭内労働が経済システムに組み込まれていないことを批判した。フォルブルによれば、女性の無償労働——育児、家事、介護——は、資本主義経済を支える「見えない」基盤だ。ジェーンは、旅行代理店を辞めた後、専業主婦になる。彼女は、家事と育児に専念する。しかし、その労働は、経済的に評価されない。ディックが職を失った瞬間、ジェーンは「収入ゼロの主婦」として、経済的価値を持たない存在になる。

しかし、映画の後半、ジェーンは変化する。彼女は、強盗に協力する。彼女は、銃を持ち、車を運転し、CEOを脅す。彼女は、「良い妻」から「犯罪者」へと転じる。この転換は、彼女の主体性の回復を示している。彼女は、もはやディックに依存していない。彼女は、ディックと対等なパートナーとして、復讐に参加する。

3.2 「愛による支え」の美談化への抵抗――システムの問題を個人の美談にすり替えるな

そこを乗り越えられるのは少しの勇気と愛による支えだ——この言葉は、美しい。しかし、同時に危険だ。なぜなら、この言葉は、構造的な問題を個人の美談にすり替えるからだ。

社会学者C・ライト・ミルズは、『社会学的想像力』で、「個人的troubles」と「公共的issues」を区別した。ミルズによれば、失業は個人的な問題ではなく、公共的な問題だ。一人が失業するのは、その人の努力不足かもしれない。しかし、数万人が同時に失業するのは、経済システムの問題だ。エンロンの倒産で2万人が職を失ったのは、彼らの「勇気と愛」が足りなかったからではない。経営陣の不正と、規制緩和の結果だ。

しかし、新自由主義は、この区別を曖昧にする。すべての問題は、個人の責任にされる。失業したのは、あなたの努力が足りないからだ。貧困なのは、あなたの勇気が足りないからだ。そして、それを乗り越えるのは、あなたの「愛」だ。この論理は、美しいが、残酷だ。なぜなら、それは構造的な問題を隠蔽し、被害者に責任を押し付けるからだ。

『ディック&ジェーン』は、この論理を転覆させる。ディックとジェーンは、「勇気と愛」で乗り越えない。彼らは、犯罪で乗り越える。彼らは、システムを攻撃する。これは、美談ではない。しかし、それは誠実だ。なぜなら、それは構造的な問題を個人の美談にすり替えないからだ。

"It is not the strongest of the species that survives, nor the most intelligent, but the one most responsive to change."
(生き残るのは、最も強い種でも、最も知的な種でもなく、変化に最もよく適応する種である。)
―― チャールズ・ダーウィン

3.3 新しい生活を始めた人々の輝き――それは勝利なのか、それとも妥協なのか

終始馬鹿げた出来事の応酬で単純なコメディなのだが、倒産した企業に振り回されながらも、新しい生活を始めた人々が画面でたくましく輝いている。この「輝き」は、何を意味するのか。

映画のエンドクレジットには、実際にエンロンやワールドコムで職を失った人々の名前が流れる。彼らは、新しい職を見つけた。新しいキャリアを築いた。新しい人生を始めた。これは、「勝利」だろうか。それとも、「妥協」だろうか。

おそらく、どちらでもある。彼らは、システムに打ち勝ったわけではない。システムは依然として存在し、新たな被害者を生み出している。しかし、彼らは生き延びた。それは、小さな勝利だ。同時に、それは妥協でもある。なぜなら、彼らはシステムを変えたわけではなく、システムの中で生き延びる方法を見つけただけだからだ。

レジリエンス(回復力)研究者アン・マステンは、「普通の魔法」という概念を提唱した。マステンによれば、人間が困難から回復する力は、特別な能力ではなく、「普通」の能力だ。人間関係、コミュニティ、そして意味。これらがあれば、人は困難を乗り越えられる。ディックとジェーンもまた、この「普通の魔法」を使う。彼らは、お互いを支え、コミュニティ(元同僚たち)と連帯し、そして復讐という「意味」を見つける。

しかし、この「魔法」は、システムの問題を解決しない。ディックとジェーンは、個人的には勝利したかもしれない。しかし、エンロンのような企業は、今も存在する。規制緩和は、今も続いている。そして、新たなディックとジェーンが、今も生まれている。この構造的な問題に、映画は答えを与えない。ただ、問いを残す。

第4章 強盗という抵抗――犯罪は正当化されるのか

4.1 犯罪への転落、あるいは主体性の回復

ディックとジェーンが強盗になるプロセスは、興味深い。最初、彼らは抵抗する。「犯罪はダメだ」と。しかし、次第に、その抵抗は崩れる。なぜなら、合法的な手段では生き延びられないからだ。職業安定所では仕事が見つからない。銀行は融資を拒否する。友人は距離を置く。彼らは、システムから排除される。そして、システムの外側で生きるためには、犯罪しかない。

犯罪学者ロバート・マートンは、「アノミー理論」を提唱した。マートンによれば、犯罪は社会が「成功」を強調する一方で、その「手段」を提供しないときに生じる。アメリカ社会は、「成功=金持ちになること」と定義する。しかし、すべての人に金持ちになる手段を提供しない。結果、人々は「革新(イノベーション)」に走る。つまり、違法な手段で成功を掴もうとする。ディックとジェーンもまた、この「革新」を実践する。彼らは、強盗によって、金を得る。

しかし、彼らの犯罪は、単なる「革新」ではない。それは、「抵抗」でもある。彼らが最初に襲うのは、銀行だ。銀行は、彼らに融資を拒否した。次に襲うのは、コンビニだ。コンビニは、彼らが働こうとした場所だが、雇ってくれなかった。そして最後に襲うのは、CEOだ。CEOは、彼らを裏切った。つまり、彼らの犯罪は、ランダムではない。それは、彼らを抑圧したシステムへの、計画的な攻撃だ。

4.2 復讐の正当性――観客は誰に共感するのか

映画は、ディックとジェーンの犯罪を、コメディとして描く。彼らは、不器用だ。最初の強盗は失敗する。彼らは、素人だ。銃の使い方も知らない。しかし、次第に、彼らは上達する。そして、最後には、CEOから巨額の金を奪うことに成功する。観客は、この過程を笑いながら見る。そして、彼らの成功を祝福する。

これは、奇妙だ。なぜなら、彼らは犯罪者だからだ。しかし、観客は彼らを応援する。なぜか。それは、彼らが「正しい」からではない。それは、彼らが「被害者」だからだ。そして、彼らが攻撃するのは、「加害者」だからだ。

倫理学者ジョン・ロールズは、『正義論』で、「正義」を「公正としての正義」と定義した。ロールズによれば、正義とは、最も不利な立場にある人々の状況を改善することだ。ディックとジェーンは、最も不利な立場にある。彼らは、職を失い、家を失いかけている。一方、CEOは、最も有利な立場にある。彼は、不正に得た金で逃亡しようとしている。ディックとジェーンが、CEOから金を奪うことは、ロールズ的な「正義」に適っている。

しかし、それは「合法」ではない。法律は、私有財産を保護する。たとえその財産が不正に得られたものであっても。ここに、法と正義の乖離がある。映画は、この乖離を利用する。観客は、法律よりも正義を優先する。だから、ディックとジェーンを応援する。

"An unjust law is no law at all."
(不正な法は、法ではない。)
―― アウグスティヌス

4.3 コメディとしての暴力――笑いが麻痺させるもの

しかし、ここで注意すべきは、この「正義」が、コメディとして描かれていることだ。ディックとジェーンの犯罪は、深刻ではない。誰も怪我をしない。誰も死なない。すべては、軽やかに、楽しく、笑いとともに進行する。これは、暴力を「無害化」する効果を持つ。

文化理論家スーザン・ソンタグは、『他者の苦痛へのまなざし』で、暴力の表象が持つ麻痺効果を論じた。ソンタグによれば、暴力がメディアで繰り返し描かれると、観客はそれに慣れてしまう。暴力は、「普通」になる。そして、観客は、現実の暴力にも鈍感になる。『ディック&ジェーン』もまた、この効果を持つ可能性がある。観客は、犯罪を笑う。そして、その笑いは、犯罪を「許容」する空気を作る。

しかし、同時に、この笑いは、システムへの批判でもある。なぜなら、笑いは、システムの不条理を暴露するからだ。ディックとジェーンが犯罪をしなければならないほど、システムは不条理だ。その不条理を、映画は笑いに変える。観客は、笑いながら、システムの不条理を認識する。これは、批判的な笑いだ。

第5章 エンドクレジットの政治性――実名が持つ重み

5.1 エンロン被害者の名前が流れる意味――これはドキュメンタリーでもある

映画のエンドクレジットには、実際にエンロンやワールドコムで職を失った人々の名前が流れる。これは、単なる演出ではない。これは、この映画が「フィクション」であると同時に「ドキュメンタリー」でもあることを示している。ディックとジェーンは、架空の人物だ。しかし、彼らが経験したことは、実在の人々が経験したことだ。

映画理論家ビル・ニコルズは、ドキュメンタリーを「現実の表象」として論じた。ニコルズによれば、ドキュメンタリーは、現実を「ありのまま」に映すのではなく、特定の視点から「構成」する。『ディック&ジェーン』もまた、現実を構成している。それは、エンロン事件を、コメディとして再構成している。そして、エンドクレジットで、その構成が「現実に基づいている」ことを明示する。

この手法は、観客に強い印象を与える。映画を見終わった後、観客は気づく。「これは、笑い事ではない」と。ディックとジェーンの物語は、楽しかった。しかし、それは実在の人々の苦しみの上に成り立っている。この認識が、観客に批判的な視点を与える。

5.2 「人生は終わらない。設計が書き換わるだけ」という言葉の両義性

人生は終わらない。設計が書き換わるだけ。だけど眼の前の辛い現実は変わらない——この言葉は、希望と絶望の両方を含んでいる。

希望の側面は明らかだ。人生は、一度の失敗で終わらない。職を失っても、家を失っても、人は生き延びられる。新しいキャリアを築ける。新しい人生を始められる。エンロンの被害者たちも、そうした。彼らは、新しい職を見つけ、新しい生活を築いた。これは、レジリエンスの物語だ。

しかし、絶望の側面もある。「設計が書き換わる」ということは、元の設計が失われるということだ。ディックは、副社長になる予定だった。しかし、その予定は消えた。彼は、新しい予定を立てなければならない。しかし、その新しい予定は、元の予定よりも「劣っている」かもしれない。これは、下方修正の物語でもある。

社会学者リチャード・セネットは、『不安な経済/漂流する個人』で、現代資本主義が人々に「柔軟性」を強いることを批判した。セネットによれば、柔軟性とは、聞こえは良いが、実際には「不安定性」だ。人々は、常に変化に適応しなければならない。職を変え、住居を変え、人生設計を変える。しかし、その変化は、人々の選択ではなく、システムの都合だ。ディックとジェーンもまた、柔軟性を強いられる。彼らは、システムの都合で、人生設計を書き換えなければならない。

5.3 新しい生活を始めた人々——勝利か、生存か

倒産した企業に振り回されながらも、新しい生活を始めた人々が画面でたくましく輝いている——この「輝き」を、どう解釈すべきか。

一つの解釈は、これを「勝利」として見ることだ。彼らは、困難を乗り越えた。システムに打ち勝った。新しい人生を築いた。これは、アメリカンドリームの再生だ。失敗しても、立ち上がれる。これが、アメリカの精神だ。

しかし、もう一つの解釈は、これを「生存」として見ることだ。彼らは、勝利したのではなく、生き延びただけだ。システムは変わっていない。新たな被害者が生まれている。彼らは、個人的には生き延びたかもしれないが、構造的な問題は解決していない。これは、悲劇の継続だ。

おそらく、真実はその中間にある。彼らは、勝利も敗北もしていない。ただ、生きている。そして、その「生きている」こと自体が、小さな勝利だ。同時に、それは小さな敗北でもある。なぜなら、彼らはシステムを変えられなかったからだ。しかし、それでも、彼らは生きている。そして、その生は、価値がある。

"In three words I can sum up everything I've learned about life: it goes on."
(人生について学んだすべてを三語で要約できる。それは続く。)
―― ロバート・フロスト

第6章 予測できない明日を生きる——不確実性の時代の倫理

6.1 僕らはそこに少しだけ勇気をもらって、予想のできない明日を生きていくのだ

僕らはそこに少しだけ勇気をもらって、予想のできない明日を生きていくのだ——この言葉は、美しい。しかし、それは十分なのか。

哲学者ジャック・デリダは、『友愛のポリティックス』で、「到来するもの(l'avenir)」という概念を提唱した。デリダによれば、未来は「予測可能なもの」ではなく、「到来するもの」だ。つまり、未来は、私たちの予測を超えて、突然やってくる。エンロンの倒産も、まさに「到来」だった。誰も予測していなかった。そして、突然やってきた。

この「到来」に対して、私たちはどう備えるべきか。デリダの答えは、「歓待(hospitalité)」だ。デリダによれば、歓待とは、未知のものを受け入れることだ。予測できないものを、拒否するのではなく、迎え入れる。これは、倫理的な態度だ。ディックとジェーンもまた、「到来」を受け入れる。倒産という予測不可能な出来事を、彼らは受け入れ、そして新しい生活を築く。

しかし、デリダの「歓待」は、ナイーブではない。それは、常に「条件付き」だ。すべてを受け入れるわけではない。暴力を受け入れるわけではない。不正を受け入れるわけではない。ディックとジェーンもまた、倒産は受け入れるが、CEOの不正は受け入れない。だから、彼らは復讐する。これは、「条件付きの歓待」だ。

6.2 「少しの勇気」で済ませていいのか——構造的問題への無関心

しかし、「少しの勇気」という言葉には、危険がある。それは、構造的な問題を個人の問題にすり替えるからだ。エンロンの倒産は、個人の勇気の欠如の結果ではない。経営陣の不正と、規制緩和の結果だ。しかし、「少しの勇気」という言葉は、あたかも問題が個人にあるかのように聞こえる。

政治学者ウェンディ・ブラウンは、『いかにして民主主義は失われていくのか』で、新自由主義が政治を経済化することを批判した。ブラウンによれば、新自由主義は、すべてを「市場」の論理で考える。政治も、教育も、医療も、すべて市場だ。そして、市場においては、すべては個人の責任だ。成功するのも、失敗するのも、個人の責任。この論理は、構造的な問題を隠蔽する。

『ディック&ジェーン』は、この論理を批判している。ディックとジェーンの失敗は、彼らの責任ではない。システムの責任だ。しかし、映画は同時に、「少しの勇気」を称賛する。ここに、矛盾がある。おそらく、この矛盾は、映画が抱える限界だ。映画は、構造的な問題を批判しながらも、個人の物語に収束する。なぜなら、映画は、個人の物語を語るメディアだからだ。

6.3 私たちは何をすべきか——個人の勇気と集団の行動

では、私たちは何をすべきか。答えは、個人の勇気だけでは不十分だということだ。私たちは、集団で行動しなければならない。

社会学者マーシャル・ガンツは、『人を動かす言葉』で、社会運動の重要性を論じた。ガンツによれば、社会を変えるのは、個人ではなく、集団だ。公民権運動も、労働運動も、女性解放運動も、すべて集団の行動によって実現した。一人では、システムを変えられない。しかし、集団なら、変えられる。

『ディック&ジェーン』も、実はこの視点を持っている。映画のラスト、ディックとジェーンは一人で戦っているのではない。彼らは、元同僚たちと連帯している。彼らは、集団で、CEOを攻撃する。これは、集団的な抵抗だ。そして、その抵抗が、彼らに勝利をもたらす。

私たちもまた、集団で行動しなければならない。投票に行き、労働組合に参加し、デモに参加し、声をあげる。一人では、予測できない明日に備えられない。しかし、集団なら、備えられる。そして、その集団的な行動が、システムを変える。

終章 コメディの裏側にある真実——笑いながら、考え続けろ

終.1 この映画が残すもの——笑いと怒りと希望

『ディック&ジェーン 復讐は最高!』は、単純なコメディではない。それは、新自由主義への痛烈な批判であり、経済システムの暴力性の暴露であり、そして個人の生存戦略の記録だ。映画は、笑いを通じて、深刻な問題を提起する。そして、観客に考えさせる。

映画が残すのは、三つのものだ。第一に、笑い。ジム・キャリーの演技は、観客を笑わせる。その笑いは、純粋な楽しみだ。第二に、怒り。経済システムの不条理に対する怒り。CEOの不正に対する怒り。そして、その怒りは、正当だ。第三に、希望。人は、困難を乗り越えられる。新しい生活を始められる。その希望は、小さいかもしれないが、確かにある。

"The most radical revolutionary will become a conservative the day after the revolution."
(最も急進的な革命家も、革命の翌日には保守派になる。)
―― ハンナ・アーレント

終.2 ジム・キャリーが見せた「普通」の価値——特別ではない人々の物語

ジム・キャリーが『ディック&ジェーン』で見せたのは、「普通」の価値だ。彼は、スーパーヒーローではない。天才でもない。ただの会社員だ。しかし、その「ただの会社員」が、システムと戦う。そして、勝つ。これは、特別ではない人々の物語だ。私たち自身の物語だ。

私たちは、ディックやジェーンのように、予測できない明日に直面するかもしれない。職を失うかもしれない。家を失うかもしれない。しかし、それでも、私たちは生き延びられる。なぜなら、私たちは「普通」だからだ。そして、「普通」には、力がある。

その力は、勇気だ。愛だ。そして、連帯だ。一人では弱い。しかし、一緒なら強い。ディックとジェーンは、一緒に戦った。そして、勝った。私たちもまた、一緒に戦わなければならない。

終.3 予測できない明日へ——笑いながら、抵抗し続けろ

最後に、もう一度繰り返す。予測できない明日を生きるために必要なのは、「少しの勇気」だけではない。必要なのは、批判的な思考と、集団的な行動だ。システムの不条理を見抜き、声をあげ、連帯する。それが、真の抵抗だ。

そして、その抵抗は、深刻である必要はない。笑いながら、抵抗できる。『ディック&ジェーン』が示したように、コメディは、権力を批判する武器になる。笑いは、システムの不条理を暴露する。だから、笑え。そして、考えろ。そして、行動しろ。

僕らはそこに少しだけ勇気をもらって、予想のできない明日を生きていくのだ——しかし、その勇気は、個人のものだけではない。集団のものでもある。そして、その集団的な勇気が、システムを変える。笑いながら、怒りながら、希望を持ちながら、私たちは明日を生きる。それが、この映画が教えてくれることだ。


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