桃の女④
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「杏奈はさ、眠れない夜どうしてる?」
夜7時。渋谷の大衆居酒屋。ねぎまを串から箸で取っていた杏奈は、私の方を見る。
「私、あんま眠れないことない。寝るぞって思ったらすぐ寝れる方」
「ええ、いいなあ。私昨日全然眠れなくて。5時に寝たの」
「大丈夫? 今は眠くない?」
杏奈は形の良い眉をひそめる。
「昼過ぎまで寝てたから、ちゃんと元気。この前飲めなかったぶん今日はいっぱい飲も」
私はビールのジョッキを持ち上げる。
杏奈と今週も会えるのが嬉しい。今日の杏奈は、上品に首元が開いた白いシャツに、黒いミニスカートを合わせていた。赤の大ぶりの丸ピアスがよく似合っている。
とっても素敵だ。
「桃、本当に就活してないんだね。」
「してないよ。困っちゃうよね。やる気全くないの。杏奈はしてるの?」
「インターンには行ってみたよ。あと何個か行くつもり」
杏奈はさらっと言って、モモを食べる。
おやおや、この子はちゃんとしているよ。こんなに可愛いのに将来のこともちゃんと考えているなんて偉すぎる。
杏奈の茶色い瞳を見つめる。将来へと歩みを進めようとしている杏奈が、急に21歳に見えた。そりゃこの前の誕生日から杏奈はずっと21歳だけど。私の中で杏奈はいつまでも杏奈で、21歳・大学生・女性・都内住み・などのカテゴリーに属する人間として、今まで杏奈を見たことがなかったのだ。
「すごいじゃん。すごい」
とにかく、すごい。
「そうでもないよ。まだやる気ないままやってる、って感じ」
杏奈はハイボールをかき混ぜながら、ピンク色に塗られた唇の隙間から小さく息を吐く。なんだか色っぽい。
中学の頃、杏奈は目立たない子だった。休み時間はずっと本を読んでいた。いつもブックカバーがかけられていて、何の本を読んでいるのか私にはわからなかった。
そして、太っていた。学年の女の子の中で一番太っていた。杏奈の後ろ姿は大きかったが、いつも背が丸まっていたので、弱そうだった。叩くと、もっと丸くなりそうだった。
杏奈に頻繁に声をかける人は私以外にはいなかった。杏奈は、自分のことを何も話さない。相手の話に相槌を打つのも下手だった。私は、杏奈が近くにいると、なるべく話しかけるようにしていた。杏奈を纏う、ほの暗い光はどこからくるのか知りたかった。この光の色は、生と性を主張する魂の色だった。私は杏奈に、惹かれていた。この子が、その光の使い方を知った時、私の目にはそれしか映らなくなり、全ては奪われる。そう感じていた。よくわからなかった。
その予感は当たらなかった。中三の冬から姿を見せなくなった杏奈が、次に私の前に現れたのは、高校生活最初の自己紹介の時だ。
「第二中出身の、三山杏奈です。」
美少女の自己紹介を、他の人の紹介以上に目と耳を開いて座っていた私は、小さく息を吸うために、口まで開いてしまった。一瞬信じられなかったが、声が絶対に杏奈だった。それ以外はほとんど違っていたが、それでも杏奈だった。
痩せて、髪を綺麗にして、整形もしたのだろうか。何より、姿勢が誰よりもよかった。頭から踵まで一直線に伸びる線が見えるようだった。その姿勢は、高校三年間、どんな時も崩れることはなかった。
しかし、私が惹かれたほの暗い光は消えていた。残念だった。誰が見てもわかる、明るく白い光に変わっていた。光を持っていることに変わりはなかったが、その性質の違いは、杏奈独特の魅力がどこかに仕舞われたことを表しているようで、私は宝物を一つ失ったような気分になった。
杏奈は私を好いてくれて、私も杏奈が好きだったので、高校生活はほとんど一緒にいた。私は、私の好きな光を、杏奈から再び見たくて、高一の頃はその光を探しながら生きた。しかし、全く現れないうちに、いつしか杏奈のしろく発光する光を愛しながら生きるようになった。その光の元で私は輝き、人は寄ってきた。とても楽しい高校生活だった。
「楽しかったよね、高校」
私は杏奈に話しかける。杏奈は長いまつげを少し伏せる。
「話急に変わるね。うん、楽しかったね」
と言ってにっこりと微笑んだ。少し酔っているようで、表情がいつもより豊かになって可愛らしい。姿勢は、今日も一輪挿しの花のように、まっすぐだ。
「杏奈はさ、中学は楽しかった? ずっと聞きたかったんだけど」
聞いてみる。少し胸がドキドキしているけれど。杏奈の気分を害すのは怖かったが、杏奈の口から聞きたかった。私が杏奈のことを深く知るために、重要な質問だと思っていた。
沈黙の間を、居酒屋のがやめきが埋める。
端正な杏奈の顔は、何も動かない。
陶器のように白く、透き通った肌の下に、血が通っているようには見えず、怖くなる。
私の体内を巡る血の流れが、激しく震える。
杏奈がわずかに息を吸う。
「うん」
そう言って杏奈は少し顔を上げて上を見た。
その顔は、私が今までに見た人間の中で、最も冷たさを感じさせた。肌はどこまでも透き通って白く、閉じられた小さな口からは呼吸をしているとは思えなかった。眼には、光も、物体も何も映っていない。よく磨かれた黒い玉。いくら磨いても、何も映らない。
恐ろしいものなのに。
私は、その中に入りたくてたまらない。きっとその黒の中で、私は、死ぬのだ。杏奈、杏奈。中に入れて。杏奈の中に。
「桃、行こう」
杏奈、杏奈。
杏奈。
白く柔らかな肢体が踊る。甘く、生々しい匂い。生きているものの匂いだ。
とろりとした水が、私の上を滑る。包まれる。
すべてが丸く、温かく、私に触れる。
杏奈は、快感に震える。杏奈の深奥からは血と水が湧き出していて、その生気を、ゆれる体から撒き散らす。
花を、私の手で、開かせる。
ぞくぞくするくらい、美しい。
花の最奥部を貫く生の光に、私は心の中で手を合わせる。
水に包まれ、溺れていく。
温かい、原始の場所だ。
夜中、母は、よく私に背を向けて寝ていた。私の寝る時の定位置は母の左側だったのだが、母は体を右向きにして寝る癖があったのだ。私を抱きしめて、眠りにつかせてくれるのだが、目が覚めると、母の体は私を向いていないことが多かった。
母が起きない夜は何度かあった。私は目の前にいる母が抱きしめてくれないのが寂しくて悲しくて、でも母を起こすわけにはいかなくて、母の背中に顔を埋めて目を閉じる。眠りが訪れるまでの時間は、深く、暗く、広い穴の中でうずくまっているような気分だった。母の長い髪が、私の顔をくすぐった。
柔らかな髪の毛が私の顔を撫でて、私は目を覚ました。
大好きな、母の背中があった。
と思ったのだが。杏奈の背中だった。服を着ていなかった。滑らかで白く、石鹸を彫ったかのような背中。女神様の背中なのではないかと思う。私が触れていいものではない気がする。神様には簡単にさわれない。
でも、この女神と私は昨晩セックスをしたのだ。私は、禁忌を破ったのだ。信じられない。恐ろしい。私みたいな俗物が。
ああ、告白しなければならない。とても気持ちが良かった、と。
杏奈の指と舌は、私のことをわかっていた。そして私も、杏奈をわかっていた。今まで私がしてきたセックスとは、比べものにならない。私の奥深くに、ペニスの肉々しい疼きがあったなんて、知らなかった。杏奈と裸で抱き合っていると、私のペニスは勃起して、杏奈を貫いた。溢れ出す欲望を隠そうともせずに求め続ける杏奈の顔。私は何度も何度も杏奈を開いて、その悦びは永遠に続いた。私を誘うようにゆっくりとくねる杏奈の腰。私は開いた花を、獣となって貪り尽くす。これで、杏奈は、私のものになった。
杏奈の指が、胸元のシャツのボタンをかき合わせるのをベッドの上からぼんやりと眺める。ふんわりとしてまとまっていない髪が、杏奈の顔に、はらりとかかる。私が見ているのに気がつくと、杏奈は小さく手を振った。
「おはよう、桃」
「おはよう」
「よく眠れた? 今日ちょっとひんやりするね」
そう言うと、杏奈は昨日の服に手早く着替え終えた。ハンドバッグからリップを取り出して、鏡を見ながら唇に丁寧に塗り、口をすぼめてぱっ、を繰り返す。髪を手櫛で何度かすいて、やっぱちゃんと洗わないとまとまらないなあと呟く。白く伸びた素足に日焼け止めクリームを塗りたくる。
お互いの家に泊まって遊んだ日の朝と何ら変わりない杏奈の様子は、むしろ私には知らない女の子みたいに思えた。
すっぴんの肌にリップの色が生々しく映えていて、杏奈が女性の特徴を備え、それを自分のものとして使っている女なのだ、ということをなぜか意識してしまう。
この子は、女なのだ。
杏奈は私を瞳の中に捉え、唇の端を少し上げる。
瞳に光が、宿っていた。
しろい光と、暗い光。
その光は杏奈自身を包み、その中にいる杏奈は、
——ああ、なんて、なんて美しくて、怖いの。
抗えないものってこんなにも恐ろしいのか。
杏奈って、そんな、私を捕らえるような目ができるのね。
その優しい笑みは、どうして。どうすればいいの。
なんで、そんなにも白く、滑らかなの。
杏奈、杏奈は私のものじゃないの。
違うのね。
決して手に入れられないのね。
女だもんね。
8月の半ば、ホテルを出て見上げた午前十時の空は、何も雲はなくて、太陽はいつものように世界を明るくしていた。杏奈はバイトのために私より早く出て行った。
都会の人々が、足早に私の前を通り過ぎる。
空をまた見上げる。
なかなか、一歩を踏み出すことができない。歩き出したら、もう今までの私ではないのだ。
いつもの世界に戻っても、そこにはいつもの私はもういないのだ。
私が求めていたもの、絶対的なもの。
それは、杏奈だったんだ。
私は杏奈にひれ伏すし、杏奈に死ぬ。
それが、私なのだと思う。
ペットボトルの水を一口飲んで、私は歩き出す。
あれから、一週間。杏奈とは連絡をとっているけれど、会ってはいない。
とても会いたいし、また杏奈の裸を見たい。
疼く心と体にじっと耐え、生き抜いている。
「桃、彼氏つくらないの? 可愛いのに」
沙里が、知りたがりの小さな子どもみたいに興味ありげな顔で、私を覗き込む。
大学の図書館に行ったらたまたま会ったので、近くのカフェに行くところだった。知っている人に会うのは久しぶりだったので、私はうまく話せている自信がない。
「別にいいかなー。沙里こそいないの?」
「いないよ〜。なんか、疲れちゃうよね、恋愛って」
沙里の声のトーンが少し暗く聞こえた気がして、沙里の方を見る。沙里は、まっすぐ前を見つめていた。いつもの煌めきに満ちた顔ではなく、普通の、ごく一般的な人の明度で微笑んでいた。
「なんかあった? 大丈夫?」
「大丈夫なんだけどね〜、少し消耗しちゃって」
沙里もきっと自分がいつもの顔ではないことには気がついていて、見られたくないかもしれないのに、顔を背けずに私の方を向いてくれる。
消耗。
沙里が削られるのは嫌だ。
「どうしたの? 話聞くよ」
「ううん、大丈夫。んー、ちょっと言うとね、男の子、よくわからないや、わかんない」
「わからないか、わからないよね。」
「うん、わかんない」
そう言って、沙里は足を止めた。堪えていた涙をぽろぽろと溢した。唇をきゅっと結び、これ以上感情が放出しないように必死で抑えているように見えた。でも、結局堪えられなかったようで、目をぎゅっとつむって、んんんー、と声を出してぼろぼろ泣き出した。
沙里を抱きしめ、背中をゆっくりと撫でる。沙里の体は熱を持っていた。
「沙里どうした、どうしたの〜。大変だったね」
「—— うん、大変だったの」
沙里はんん、と言いながら撫でられて、しばらくすると私から体を離した。
カフェでゆっくり話を聞くと、沙里はサークルの先輩のことを好きになったが、先輩は沙里を家に呼んだり、思わせぶりな態度をとったかと思えば他の女の子と遊んだりしているらしい。先輩に優しくされたり冷たくされたりしていて辛い、と言う。
長い話を、沙里は苦しげに笑いながら、時に涙をこぼしながら話した。
私は沙里の頭を撫でたり、少し口を挟んだりしながら聞いた。
あまり見たことのない沙里の色々な表情が、私の心にダイレクトに触れる。
恋をしている女の子はいつも独りよがりだ。
「沙里、もうそんな人やめな。沙里はとっても素敵な子なんだから、大丈夫。その人なしで楽しくなろうよ」
沙里は黙り込む。
「——うん、でも ———」
顔をあげて、
「——でも、楽しいの。いっぱい、感情を持つのが」
涙の跡を残した顔のまま、精一杯、微笑む。
感情。理性。記憶。衝動。欲求。
沙里のあらゆるものが凝縮されたその表情は、過激なほどに人間的だった。目を背けたくなるほどに、露出していた。
沙里はまた下を向いて、コーヒーに口をつける。
私は、何も言えなかった。
夏休みはあと一ヶ月も残っているというのに、私は動けなかった。
家でご飯を食べて、だらだらとして、寝る。
何の予定も入れなかった。入れる気になれなかった。
何も楽しくも悲しくもなかった。
このまま死んでいくのも悪くないと思えた。
ただ、ただ杏奈のことを考えていた。杏奈の細部を思い出すことに執着していた。
そして、あの夜のことを思い出して、頻繁に自慰をした。
日に日に私と杏奈との行為は鮮明になっていき、快感は増していった。
その代わり、ご飯を食べなくなった。食べるのを忘れてしまうのだ。
でも、死んでいくのも悪くないのだから。
杏奈とは会っていなかった。
快感に達したあと、いつも眠る。
この時間特有の充たされた安らぎに包まれて、目を閉じる。
杏奈が、花を食べていた。
あの花園で、一心不乱に。
開き切って中心部を露わにした白く丸い花は、杏奈の細い指が鷲掴みにしていて、逃れるように指から花弁を落とす。花の形が崩れていくことなんて、杏奈は気にも留めない。
目を爛々と輝かせ、唇と舌も使って、口の中に入れることに必死になっている。
力なくうなだれて喪われていく花に対して、杏奈は生のエネルギーの素晴らしさを体感しているように見えた。
時に美味しさに陶酔するような表情を見せながら、花の茎まで残さずに食べきった。
口の周りについたものを舐め取り、手を払う。
上気した顔が正面を向く。
木々の間から白い光が降り注ぐ。
一瞬、甘い、懐かしい香りがした。
杏奈は、微笑む。
慈愛に満ちた、優しく美しい女だった。
