【創作大賞2025 応募作品】 『偶然と螺旋の向こう側で』 (1/3)
プロローグ 見えない何かに押されて
地下鉄の車輪が静かに軋み、窓をかすめる光と影が流れていく。
その揺れの中で、ふと気づいた。
——僕は、表参道行きの電車に乗っていた。
見えない誰かに背中を押されていた。
本来なら、銀座のホテルで人と会うはずだった。
だが、突然のキャンセルが、その時間を白紙に変えた。
予定表の空欄が、ふと、あのトークイベントを思い出させる。
地下鉄一本で行ける距離。気づけば、足がそちらに向かっていた。
明日から学会が始まる。
いつもの僕なら、発表の準備のために、ホテルへ直行していたはず。けれど、そのとき、何かが僕を別の時間に押し出した。
表参道駅の改札を抜け、街のざわめきを縫い、会場の扉に手をかけていた。
——そして、彼女に出会った。
第1章 沈黙の瞳
トークイベント開始前の会場には、低い話し声と緊張の気配が漂っていた。
空席は最前列の丸テーブルにひとつだけ。
人目を避けたい気持ちを押し隠し、僕はそこに腰を下ろした。
天井からはやわらかな光が降りていた。
その正面に、彼女が静かに座っていた。
白いブラウスの柔らかな生地が、光を吸い込み、ほのかに透ける。まっすぐな背筋。
控えめなのに、周囲のざわめきを遠ざける気配をまとっている。
目が合ったわけではない。
それでも、なぜか視線が離せなかった。
会場の雑音が薄れ、時間の輪郭がぼやけていく。
深く澄んだその瞳は、僕の奥底に沈殿していた何かを、そっと撫でて揺らした。
——妻の瞳も、あんなふうに深かった。
白い病室、冷たいベッド。
目を開けて息をしているのに、妻の手はすでに冷たかった。
両手で包み込んでも、その冷たさは消えなかった。
あのとき、僕はただ、ゆっくりと閉じていく瞳を見ているしかなかった。
無力だった自分を突きつけるその瞳が、今も僕を縛っている。だから、誰の瞳もまっすぐに見られなくなった。
……なのに、彼女の瞳から目を逸らせない。
透明な静けさの底に、微かな痛みの色があった。
——彼女もまた、何かを失ってここにいるのかもしれない。
第2章 言葉の手前で
休憩時間。
丸テーブルを囲む笑い声の中で、僕の耳が拾っていたのは、彼女の声だけだった。
「この前、舞台の最終オーディションで落ちてしまったんです」
彼女は俳優として舞台や映画にも立っているという。
「母親を亡くした娘の役で、最後の独白がどうしても言えなくて……」
言葉が途切れ、彼女は唇をきゅっと結んだ。
グラスの水面に視線を落とし、小さく息を吐く。
そして顔を上げると、にこりと笑った。
「もうダメかと思ったけど、悔しくて……逆に燃えてきました」
快活に響く声。
しかし、その笑顔の奥で、ほんの一瞬だけ瞳の光が揺らいだ。
そして、遠くのどこかに視線をさまよわせ、ぽつりと呟いた。
「本当の感情を経験していないと、言葉が嘘に聞こえそうで怖いんです……でも、本当の感情を知っていると、嘘の感情を演じるのが途方もなく難しくなってしまうんです」
その声は、周囲のざわめきに溶けて消えそうなほどか細かった。僕だけが、その言葉を拾い上げた気がした。
彼女は、すぐに我に返り、少し慌てて話題を変える。
「だから、与えられるだけじゃなく、自分で表現の場を作りたかったんです」
透き通る声で、自分が立ち上げたウェブデザイン会社について語り始めた。
「でも、理想だけじゃ通用しないですね。
クライアントの要望と自分の作りたいものの間で、毎日綱渡りです」
情熱と葛藤を抱えながらも、前を向こうとする彼女。
僕はただ黙って、その横顔を見つめていた。
——彼女の透明さは、脆さと紙一重なのかもしれない。
会話を交わすことはなかった。
だが胸の奥で、名前のない感情が静かに揺れていた。
ふと、記憶がざわめいた。
数週間前、このイベント主催者のSNSで見た写真。
ぼんやりしているのに、なぜか鮮明に覚えている一枚。
そこに写っていた女性——それが、今、目の前に座る彼女だった。
第3章 光に溶ける背中
「次の予定があるので、ここで失礼します」
彼女は軽く頭を下げ、席を立った。
ほんの一瞬、僕の方を見た——そう感じた。
その仕草に、名残惜しさの影がわずかに滲んでいた。
言葉にならない焦燥が、喉の奥で小さく渦を巻く。
伝えたい何かがあった。
けれど、声にならなかった。
言葉は感情より、いつも少し遅れてやってくる。
完成された物語のページとページの隙間に、そっと挟まれる一枚の紙のように。
彼女の背中が、表参道の光と音に溶けていく。
僕は、グラスに残った白ワインを静かに飲み干した。
——芽生える前に、静かに消える出会いもある。
第4章 言葉の余熱
翌朝。
ホテルの薄いカーテン越しに、やわらかな朝日が射し込んでいた。
今日から二日間の学会が始まる。
僕の発表は明日だ。
本来なら余裕があるはずなのに、落ち着かない。
枕元のスマートフォンが小さく震えた。
画面に浮かぶ通知。
——彼女の名前。
友達申請のメッセージ。
「昨日はありがとうございました。もしよろしければ、繋がっていただけると嬉しいです」
それだけの短い文章だった。
彼女はウェブデザイン会社を立ち上げたばかりだ。
人とのつながりを広げようとしているのだろう。
だが、地方の大学で機械工学を教える僕と繋がったところで、彼女にとって得られるものは何もないはずだ。
それでも——
言葉を交わさない僕たちの間に流れていた空気から、彼女も何か感じ取っていたのだろうか。
名刺も交わさなかった僕を、後から探してくれた。
その小さな行為が、心のどこかで凍っていたものを、ゆっくりと溶かしていった。
第5章 交わる孤独
数日後。
午前中の講義を終え、気まぐれで開いたSNSのタイムラインで、ひとつの投稿に指が止まった。
彼女が投稿した、雨上がりの街角のスナップ。
濡れたアスファルトに滲む信号の赤。
その奥には、小さな煉瓦造りの花屋が映っていた。
「通勤中の一枚。なんでもない景色に救われる瞬間」
そんな言葉が添えられていた。
記憶の奥に沈んでいた情景が、静かに揺れた。
——この場所を知っている。
夏の朝、同じ角度から、この信号の向こうにある花屋を見ていた。
東京の大学で集中講義をしていた頃、毎朝この信号で立ち止まっていた。苛立ちの中で、花に心が和らいだことを思い出した。
僕は勇気を出して、コメントを残した。
「この花屋さん、通り道にあって、素敵だなと思っていました」
その夜、彼女から返信があった。
「嬉しいです。不思議ですね。場所が人を引き寄せるのか、人が場所を選ぶのか」
それをきっかけに、僕たちは少しずつメッセージを交わすようになった。
季節の空気や、彼女が見つけたカフェの小さなテーブル、仕事の舞台裏。短いやり取りが、日々に静かな彩りを添えていった。
ある夜、彼女がふと弱音をこぼした。
そんな言葉を聞くのは、これが初めてだった。
「新しい企画が行き詰まって、ちょっと心が折れそうです。
昨日もクライアントとの打ち合わせで、
『俳優業がお忙しい中、大変ですね』って労わるように言われてしまって。違うんです。大変ではあるけれど、それだけではないんです。
演じることも、作ることも、私の中では同じいのちの線でつながっているんです。
でも、それをちゃんと伝えるのがこんなに難しいなんて……」
彼女は「仕事のこと」を語っている。
けれど、その言葉の底には、大切な何かを置き忘れたまま、空っぽのステージに突き放された孤独が滲んでいた。
それは、妻を失って以来、僕が抱えていた感覚と重なった。
安易な励ましは避け、僕は慎重に言葉を探した。
「……遠くの灯りは見えているのに、足元の道が崩れていくみたいな感覚?」
「……そう。だから、立ち尽くすしかないんです」
その瞬間、彼女の孤独と僕の孤独が、静かに触れ合った気がした。
だが、それは僕だけの思い込みかもしれない。
彼女の心は、僕には確かめようがなかった。
2/3に続く
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