伝説の「オープンレター」を解体する―猫又BBAのオープンレター読解講座
呉座-北村騒動(2021/03/17~)
それは2021年の春、そろそろ桜の開花が気になりだす頃に始まった。
北村紗衣氏が、歴史学者の呉座勇一氏(国際日本文化研究センター助教 当時)の、ツイッター(現X)鍵アカウント(アカウント主の承認がなければ見えない)での発言(北村氏に言及したもの)を、自身への「悪口」であるとして問題視し、ツイッター上で話題にする…というところからの騒動だった。
以下、どこまで無料か…というと、「オマケ」の150字と画像1枚以外は公開なので安心して読んでほしい。ただし、クソ長いw
お気に召したらご購入よろしく!
学者同士の内輪争いじゃないの?疑惑
ちょっと遡って3月20日頃の私の認識は
「また人文学者同士の内輪争いがなんか起こってるっぽい」
「どうやらフェミニスト絡みではあるらしい」
という程度である。
そもそも歴史クラスタではないので、せいぜいこの程度である。
一応視野に入ってはいたくらい。
が、2021年3月23日に、呉座勇一氏の大河ドラマ監修降板が報道されると、ちょっと様子が変わってくる。
まあ、この段階でも
「あー、うっかりもんの学者さんが、なんか舌禍おこしてケツ拭きやってんのね」
くらいである。
さらに翌日、日文研からの「処分」が報じられる。
ここにきて
「いったい何やらかしたんだ?」
と、野次馬としての興味がわいてきたので、ちょっと調べ始める。
すると「鍵垢」内の発言が、何者かによって引っ張り出されて北村氏の手にわたり、北村紗衣氏が、それを自身への「悪口」だと問題化し、それが引き金で大ごとになっていったということまではすぐ行き着いた。
北村紗衣氏といえば、2019年の「宇崎ちゃん献血ポスター騒動」での「すごく高い倫理」で名をはせた、英文学者・フェミニストである。
これを思い出した時点で、北村氏が独自の「すごく高い倫理」に基いて、呉座氏の発言を問題にしたらしい…ということまでは理解できた。
こうなると、横行している「萌え絵叩き」にも関連するだろうし、慰安婦問題やら、弱者支援問題にも関係しそう…というわけで、かねてより歴史問題では様々な論争があるので、そのあたりの学者同士の内輪争いの可能性も踏まえながら、少しクローズアップしてウオッチしてみることにしたのであった。
初期の流れ
初期の流れを追うと下記のような感じである。

北村氏が問題視し始めてから1週間もたたないうちに、呉座氏がNHK大河ドラマの監修自主降板というニュースが流れ、呉座氏の勤務先である日文研が呉座氏に厳重注意したとの報道。
ネット上は、呉座氏に対し「女性差別」との非難をする向きもではじめ、日文研への電凸を呼びかける声まで出る始末。
そして「電凸はやめましょう」の呼びかけをしただけの、木村幹氏に対し攻撃を開始してしまうといった珍事も
痕跡だけ残っている。
Web報道・論評の過熱とネットリンチ
3月23日、呉座氏の大河ドラマ歴史監修降板が報じられる。
そして、24日に呉座氏が所属先の国際日本文化研究センター(日文研)から「厳重注意」を受けたことが報じられる。
この時点で報道各社が、ほぼ全面的に「差別発言という不祥事」扱いをしていたのも少し変な気がする。
瞬く間に、呉座批判氏へのはエスカレートしていく。ことに酷かったと私が感じたのが3月29日、30日付の勝部元気氏の「論座」記事であった。
「呉座を擁護する者は人にあらず」といった論調である。
この時期、唯一、この炎上にそのものの冤罪性についてメディアに発信していたのは、3月28日付の與那覇潤氏の「論座」記事のみであった。
この二つが、同じ媒体で発表されたことは、不思議と言えば不思議である。
そのあたりの事情については、與那覇氏がだいぶ後に別の媒体で書いておられる。
ネット上はといえば、上記の記事で與那覇氏が書いておられる通りで、2021年3月17日に、北村氏が「違和感」を表明してから非常に短期間のうちに、呉座氏は「女性差別主義者」「ミソジニー」「人種差別主義者」「ネット中毒」など、様々なレッテルが貼られていき、與那覇氏のような「ネットリンチに対する危惧の意見」は、それを口にするだけでまた同様の「レッテル」での批判が飛んでくるという状態であった。
歴史学協会の声明
そして4月2日には「日本歴史学協会」が「ハラスメント憂慮」の声明を発表。「深刻なハラスメント」という話にまで話がデカくなっていいく。
これもなかなか珍妙な声明である。
呉座氏を名指ししてはいないものの、タイミングから見て、呉座氏をさしているのは明白であろう。
明言の避け方が巧いといえば巧いのであるが、そうであるからこそ、往年の左翼臭が漂ってくる。
こういう懸念も出た。

協会が事情をどのくらいつかんでいたか?、その裏に何か別の側面がかくれていなかったのか?等、傍目にはわからないことだらけである。
(これにより、後に呉座氏が歴史学協会を訴える…ことになるわけだが、一審二審敗訴だったそうだが、その後は聞こえてこない)
そしてオープンレター発出
2021年、4月4日、学者・メディア関係者18名の連名でオープンレターが発出された。

オープンレターのアーカイブはこちら
呼び掛け人は以下の人たち
隠岐さや香 名古屋大学大学院教授
小木田順子 編集者
金田淳子 やおい・ボーイズラブ研究家
北村紗衣 武蔵大学准教授
木本早耶 出版社勤務
河野真太郎 専修大学教授
小林えみ よはく舎
小宮友根 東北学院大学准教授
清水晶子 東京大学大学院教授
関戸詳子 勁草書房
津田大介 ジャーナリスト/メディア・アクティビスト
橋本晶子 勁草書房
松尾亜紀子 エトセトラブックス
三木那由他 大阪大学講師
宮川真紀 タバブックス
八谷舞 亜細亜大学講師
山口智美 モンタナ州立大学准教授
代表者というものは存在せず、「傘連判」といったカタチである。
Twitter(現X)での拡散
2021年4月4日、オープンレターが発出されると同時に、呼び掛け人らがツイッターで告知をはじめる。
津田大介氏など、非常にフォロワー数の多い方も呼びかけ人に含まれているので、それなりに拡散力はあっただろう。





速攻で賛同表明する有識者、著名人もそれなりにいた。





ただし、リアル人間関係や、内輪のメーリングリスト等を通じた「拡散のお願い」等が回っていなかったかどうかはわからない。
風の噂によれば、あったという話もw。
そして、大学教員を中心に1316人の賛同者筆の署名が集まった。
学者同士の争いごとという、訳の分からない話にも関わらず、開始からわずか数日で1200人以上の賛同者が集まったそうだ。

オープンレター本文を読み解く人は意外に少ない。
これまで、オープンレター案件について論評した記事は沢山書かれてきた。
かなり詳細に触れられているのは、與那覇潤氏だろう。アゴラでの連載、初期のものから数えるとかなりある。
ぶっちゃけ、かなりのボリュームである。
これでも相当のことがわかる。
とはいえ、案外格調高くて読むのに教養を求められる。
そして「本文」よりも、事件の流れ上の事実関係に焦点が当たっているものが多い。
オープンレターは特有の読みにくさがある。
そして、オープンレターは読みにくい。
ガッツリ読んでいこうとすると頭がクラクラしだす。
「広く呼び掛ける」にしては、わざと読みにくくしてるんじゃないか?
と勘繰りたくもなる。
まあ、この原因は複合的なものだ。
学者先生の書いたものにありがちな回りくどい言い回し
責任追及されないようにするための表現技法の多用
時代錯誤の左翼的な表現技法の多用
無理に「ですます調」に押し込んだことによる違和感
そこかしこにあるロジックのジャンプ
などなど、なかなか面倒臭い。
読むのを断念してしまった人もいただろう。
この読みにくさをものともせず、本文の精読・講解を試みたツワモノに雁琳氏がいる。
彼はオープンレター発出後間もないうち「賛同者の読解力問題」をとり上げていただけあり、かなり精度は高い。
だが、これでもまだ学者特有の「格調の高さ」があって、一般大衆には敷居がかなり高い。
というわけで、この猫又BBAが、昔取った杵柄で(え、なにやってたんって?、はい、参考書や問題集の巻末の解説書き屋さんや解説校正屋さんとかの内職を少々w)、格調の低い、国語の読解ライクな解説方式で説明してみたいと思う。
猫又BBAのオープンレター読解講座
【1】呼び掛け文であればこそ
この「オープンレター」は「呼び掛け文」なので、いわゆる読書向きにコロコロしている小説とか随筆や評論といった文章ではない。
この背景を踏まえた読解が必要になってくる。
そして署名を集めてもいるようでもある。
そこで
①呼びかけ対象はだれか
②応答の意思表示はどういったものか
③賛同者のタスクはどういったものか
の三つは基礎情報として最低限読み取る必要がある。
そして、できれば
④呼びかけ人は何を目的にしているか?
も、注意してみていった方がよさそうだ。そう、呼びかけるということは必ず何らかの目的がある。
目的がない「呼び掛け文」なんてものはない。
それはいくつかの目的が重複していることもあり得るが、実際に署名運動が行われていた呼び掛け文であれば、必ず何らかの呼び掛けの目的があるはずである。
では、冒頭から読んでいこう。
【2】タイトルとサブタイトル、読者対象

この部分までで、【1】②と、【1】④がうっすら、発見できるのではないだろう。

このくらいはスカッとぶち込めたろう。
この部分まで読んだ段階では③はでてこないので保留して後で読んでいくことにしよう。
④は、一応ぶち込めはするものの、これだけでは不完全である。
「女性差別的な文化を脱すべきなのは何か(誰か)」も判然としないし、
「女性差別的な文化を脱するムーブメントを作りたい」のか
「現状が女性差別的な文化であることを誰かに”わからせたい”」のか
「非女性差別的な文化を作るための方策をアピールしたい」のか
「女性差別てきな文化を脱するための集会でもひらきたい」のか
など、いろんなものが入りうる。
ここで言えそうなのは、「呼びかけ人らは、現状、どこかで女性差別的な文化が蔓延している、という認識をしていそうだ」ということくらいだ。
この辺を踏まえたうえで、読み進めていこう。
【3】第1段落 きっかけとなった事件の説明
先日、著名な日本史研究者である呉座勇一氏が、大河ドラマの時代考証から降板したことが報じられました。原因となったのは、呉座氏がツイッターの非公開アカウントで過去数年にわたって一人の女性研究者(このレターの差出人の一人である北村紗衣)に中傷を続けていたこと、また他の多くの女性への中傷を含む性差別的な発言を続けていたことが明るみに出たことでした。これによって、呉座氏は所属先である国際日本文化研究センターから厳重注意を受けています。
整合性に関するツッコミをいれずに読めば、
1)呉座氏が非公開アカウントで、過去数年にわたり、北村氏及び、多くの女性への性差別的な中傷をしていたことが発覚。
2)呉座氏が所属先から厳重注意を受ける。
3)呉座氏が大河ドラマの時代考証を降板
といった順番に思いこみやすい文章構成である。
こう理解するとあれば因果関係がストンと納得がいってしまう。
だが、2)3)の順序について、確定てきなことはこの段落では書かれていない。あくまで、読み手がそう読みやすいだけである。
そして、1-B)の発覚の経緯についても明言されていない。また、1-A)大河ドラマの時代考証からの降板についても、自主的な降板であるのか所属組織の指導によるものかが、この文章からは不明。
よって、この段落から読み取れるのは、オープンレター呼びかけ人らは呉座氏の長期間にわたる北村氏への鍵垢内での発言を性差別的な中傷として、非常に問題視しているらしいということと、「呉座氏の大河ドラマの監修降板」を、当該の案件に対する結果として呉座氏が当然受けるべきものと理解しているらしいということである。
これが「呼びかけ」に至った経緯である可能性は高い。


軽くツッコミを入れてしまうと、NHK大河監修降板が報道されたのは2021年3月23日であり、日文研が「厳重注意」を発表したのが、翌3月24日で同日中に報道がスタートしている。
となればオープンレター本文第一段落で、既に印象操作の疑惑がぬぐえない、ということになる。もちろん、時系列情報について無頓着or整理が下手で混乱しやすく、文章構成が下手くそなだけという可能性もあるので、断定はできない。
【4】第2段落 行動の呼びかけ
このオープンレターは、この問題について背景にある仕組みをより深く考え、同様の問題が繰り返されぬよう行動することを、広く研究・教育・言論・メディアにかかわる人びとに呼びかけるものです。
呼び掛けの概略についてまとめられている。
1文で1段落を構成していることにも注目しておこう。
「このオープンレターは」で始まるこの文が、それ以下の文章の「ガイドライン」的な存在であることがうかがわれる。
さて、骨格だけを抜き取ると
このオープンレターは
★★をより深く考え
▲▲という行動することを
こういう人々に呼びかける。
といったところ。

ここから、次の段落以降で
①②の具体的な内容に踏み込んでいく可能性が高いことが予測される。
冒頭の『研究・教育・言論・メディアにかかわるすべての人へ』を、省略せずに繰り返していることから、それを筆者が重要視していることも想定されるだろう(ここは選民意識を感じさせる部分でもある)。
「ものです」は、呼び掛け文にありがちな「ものである」を「ですます調」に変換したものであろう。呼び掛け文をソフトタッチにするためにしばしば使われるお手軽な手段であるが、若干違和感が発生してしまっているようだ。
「オープンレターの説明」といった形態をとったことが、その原因であろうと思われる。
「行動の呼びかけ文」であり、「呼びかけ人」も並んでいるにもかかわらず、表現上、その呼び掛け文の起草者、がハッキリしない、というところに違和感が発生してしまう余地がある。
いっそのこと「我々は…を、呼びかける!!!(文責)」という左翼檄文的表現であったほうがむしろ違和感は抑制できたように思う。

ともあれ、ここまでで、以下のまでは読み取れた。

もちろん背景色のついている部分はまだ完璧ではない。
が、とりあえず、これから読み取っていくべきものはかなり明確化してきた。
【5】本題に入る前に整理しておく。
そろそろ本題に入ってきそうな雰囲気である。
はやる気持ちを抑えて、オープンレターをサクッと読み直してみて欲しい。
オープンレターのアーカイブはこちら
https://archive.md/VeL1b
この手の文章になれていない人には正直言って読みやすい文章ではないと思う。トラップも多いので、わかったようなわからないような…になるのは当然だろう。
トラップはこれ以降解説していくので、あまりうんうんうならなくてもいい。まずはだいたいの構成を掴むところからスタートしよう。
難しいと思ったら、下記を参照しながら読んでみて欲しい。
このくらい把握できてりゃ準備オッケー。

準備ができたら次にいこう。
以下、まずは1段落ずつ引用しながら説明していく。
【6】第3段落 「私たち」の認識披露
私たちは、呉座氏のおこなってきた数々の中傷と差別的発言について当然ながら大変悪質なものであると考えますが、同時に、この問題の原因は呉座氏個人の資質に帰せられるべきものではないとも考えています。
この段落で「私たち(呼びかけ人ら)の立っている認識とが明らかにされている。

ここでは「個人の責任からの切り離し=社会問題化への布石」という定番のロジックが含まれていることに注意が必要。
このロジックは、その多くが「免罪」や「抒情酌量」の文脈で使われる。
『あの子は悪いことをしたけど、背景事情を考えると気の毒な面も多いので強く責められるべきではないかも、そういう背景を生み出す社会の方に問題があるのでは?』
といった文脈である。
オープンレター全体と、この段落の「個人の資質に帰せられるべき問題ではない」という文とで、矛盾がないもにするためには、固有名詞の使用をしない、あるいは最低限に抑えるといった工夫が求められるわけである。
だが、この「オープンレター」では、全体で14回『呉座』という固有名称が使われており、ほとんど糾弾会のような有様だ。
なかなか大きな矛盾である。

全体を眺めながらこの段落を読むに、短い段落ながら、
「悪質認定して糾弾はする、だが、「社会問題化」という大義名分をもって、自らの言動の責任については拒絶する」という謎の「自己免責」主張が含まれてしまっている。
文章の整合性を保つという発想がないだけ…という可能性もあるが、書き手が学者であることから、一応それは除外しておこう。
途中「同時に」が入っている意味は、あまりないように思う。筆者的には意味があるつもりかもしれないが…そこは、認知プロファイリングの領域なので、当座読む必要はない。
せいぜいもったいぶった印象を与えるだけであろう。
【7】 第4段落 戯画化という好ましくない文化の存在という背景
呉座氏の発言の中には、単なる「独り言」としてではなく、フォロワーたちとのあいだで交わされる「会話」やパターン化された「かけあい」の中で産出されたものが多くありました。たとえば誰かが、性差別的な表現に対して声を上げることを「行き過ぎたフェミニズムの主張」であるかのように戯画化して批判すると、別の誰かが「○○さんの悪口はやめろ」とリプライすることがあります。こうしたやりとりは、当該個人を貶めるために、「戯画化された主張を特定個人と結びつける」手法としてパターン化されています。そこには、中傷や差別的発言を、「お決まりの遊び」として仲間うちで楽しむ文化が存在していたのです。実際には、呉座氏の発言は大きな影響力を持っており、この「仲間うちの遊び」は3000人以上のフォロワーの目に見える形でおこなわれていたものでした。つまりその「遊び」の文化は、中傷や差別的発言をいわば公衆の面前でおこなわせてしまうものであり、そのことが今回の問題の背景にあると私たちは考えます。
ここから急に、1段落が長くなってきた。
注意しながら読み進めよう。
ここまでの文章から読み取れた、呼び掛け人らの認識を常に頭に置きながら読んでいこう。
第4段落は第3段落ででてきた「この問題」の背景分析のようである。
契機となった事象、これは北村氏が問題視した発言とみていいだろう。
筆者の主張としては、
大きな影響力をもつ呉座氏が
差別的なコミュニケーションパターンを仲間うちで楽しむ文化(≒好ましくない文化)の内にあり、
差別的なコミュケーションパターンを仲間と楽しんでいた
ここで、差別的なコミュニケーションパターン例として挙げられているのは
「差別的な表現に声を上げることを戯画化し」
「戯画化された主張を特定個人と結びつける」
というものである。
そして「呉座氏の中傷問題」が重大な問題である根拠?「問題発言は会話の中にあった」ことがあげられる。
……あれ、あれれ
この辺で、なんだかよくわからない…となってくる。
文脈が繋がるような繋がらないような…ループしているような…。
わからなくていいです。
ここでわかったような気になってはいけない!
この段落には、複数の文脈が混在している。
A「呉座氏はかくして重大な中傷事件を起こすに至った」という物語
B「呉座氏が重大な中傷が起こした背景はこういうものである」という説明
C「当該の背景とされる文化がいかに問題であるか」の説明
D「とにかく呉座氏のやったことは許しがたい」いうお気持ちポエム
こういった文脈が入り乱れてしまっているのでわからなくて当然である。
こういう重層構造の文章は時々あるが、巧い文章だと「アレ?」という印象が起こらないものだ。
少し詰め込みすぎなのである。
読ませる気あるのか?とツッコミを入れたくなる。
もう一度元の文章に立ち戻って読み直そう。
そのために「問い」を用意してみた。

問1 傍線部①で、多くあったとされるものは何か?
問2 傍線部②で「当該個人を貶めるため」とあるが、その根拠はこの文章中にあるか?ある場合はそれを述べよ。
問3 傍線部③で「手法としてパターン化されている」とあるが、その根拠は文中にあるか?ある場合はそれを述べよ。
問4 傍線部③で「手法」とあるが、これは何のための手法であると筆者は考えているか?
問5 傍線部④の文化を簡潔に述べよ。
問6 傍線部⑥「その遊びの文化」の影響としてどういった事が起こると筆者は考えているか?
問7 傍線部⑦「そのこと」とは何か?
解答
問1 中傷発言
直前の部分は、その中傷発言の発生場面についての筆者の解釈を説明したものである。明解にするのであれば冒頭部を「呉座氏の中傷発言は」とすべきところだろう。
問2 ない
筆者の想像力が豊かなのだろう。
問3 ない
筆者の観察によるものかもしれないが、この文中には記述はない。
問4 当該個人を貶めるための手法
問5 戯画化や掛け合いなどを駆使することで中傷や差別的発言を楽しもうとする悪しきコミュニケーション文化
問6 参加者に差別的発言を公衆の面前で行わせてしまう
問7 差別的発言を行いやすい場に参加することで、安易に差別的・中傷発言をしてしまいやすくなること。
さて、混在する文脈を整理していこう。
A「呉座氏はかくして重大な中傷事件を起こすに至った」という物語
呉座氏の鍵垢の空間において、戯画化や掛け合いなどを駆使することで差別的発言を楽しもうとする悪しき文化が形成されており、その結果、著名な歴史研究者であり影響力の強い呉座氏が、北村氏を貶める酷い中傷を数年にわたって行い続けてしまった。
根拠:なさそう
B「呉座氏が重大な中傷が起こした背景はこういうものである」という説明
呉座氏が交流していた集団(鍵垢の読者層)には、中傷や差別的発言を楽しもうとする悪しきコミュニケ=ション文化を属する者が多かった。
根拠:なさそう
C「当該の背景とされる文化がいかに問題であるかの説明」
大きな影響力を持つ歴史研究者の呉座氏が、大ぜいの前で安易に中傷・差別的発言をしてしまったのだから、当該の差別的なコミュニケーション文化には大きな影響力があるはず。
根拠:なさそう
D「とにかく呉座氏のやったことは不愉快」いうお気持ちポエム
おポエムであるので、断片的に拾っていくしかない。
どうやら「戯画化」が非常にカンに触っているようである。
そして「呉座氏の影響力」についても気になるようである。
呉座氏のフォロワー数について「3000人以上」という数字が上がっているがこれは、そんなに珍しくもない数字である。
対する北村氏は2021年の3月時点で35000人のフォロワーがいたわけで、ネット上の影響力を問題にする意味はよくわからない。

日本において、日本史は愛好者が非常に多いのは当然で、日本史ジャンルの新書でヒットを出していた呉座氏は書籍の著者としての知名度は高いが、ネット上では鍵垢であったこともあって、それほど知名度は高くなかったともう。


【8】 第5段落 SNS上のある種のコミュニケーション様式
日本語圏では以前から、ツイッターを中心にSNSやブログにおいて、性差別に反対する女性の発言を戯画化し揶揄すると同時に、男性のほうこそ被害者であると反発するためのコミュニケーション様式が見られました。たとえば性差別的な表現に対する女性たちからの批判を「お気持ち」と揶揄するのはその典型です。今回明らかになった呉座氏の発言も、大なり小なりそうしたコミュニケーション様式の影響を受けていたと考えられます。そこでは、差別をめぐる問題提起や議論が容易にからかいの対象となるばかりでなく、場合によっては特定の女性個人に対する攻撃までおこなわれる一方で、自分たちこそが被害者であるという認識によってそうした振る舞いが正当化され、そうした問題点を認識することが難しくなります。これにより、差別的な言動へのハードルが極めて低くなってしまうという特徴があるのです。
第4段落の補足説明でもあるかと思いきや、それはない。
ちょいと文脈の骨格を整理する下記のようになる。
①「ある場」において、こういったコミュニケーション様式が見られた。
②今回明らかになった発言も、そういったコミュニケーション様式の影響をうけていた。
③そのコミュニケーション様式の影響下では、差別を巡る問題提起や議論が、揶揄や攻撃の対象になる。
④また、その言動が正当化される。
⑤コミュニケーション様式の問題点を認識することが難しくなる
⑥これにより、当該様式下では差別的な言動へのハードルが極めて低くなる。
「これにより」とあるが、「前段落で著者の規定した「差別的物言い=悪」という前提に立ち、さらに①~⑤を無条件で飲みこむことにより」でしかない。
①~⑤の精査はあってはいけないことで、SNSにおいての「フェミニズム批判」を「フェミニストを揶揄し、反発するためのコミュニケーション様式」という枠に押し込め、それをよろしくないもの、としたい御意向のようである。
簡単に言ってしまうと
「呉座氏が鍵垢という見えないところで仲間とワチャワチャやってて、悪口いってる!気に食わないからまるごと全部「極悪」ってことにしてやる!」
ってのを、難しげな言葉で書いているだけだろう。
論拠や論理構成が不十分な場合に「これにより」で、精査する余地がないように見せかけて、結論を飲ませようとするのは、しばしばみられる詭弁の手法なので注意しておこう。
たとえば
第4段落、第5段落続けて「たとえば」が登場している。
この「たとえば」の使い方は、左派知識人が風呂敷を広げる時に多用するものである。


【9】 第6段落 想像力マジック
このような、マジョリティからマイノリティへの攻撃のハードルを下げるコミュニケーション様式は、性差別のみならず、在日コリアンへの差別的言動やそれと関連した日本軍「慰安婦」問題をめぐる歴史修正主義言説、あるいは最近ではトランスジェンダーの人びとへの差別的言動などにおいても同様によく見られるものです。呉座氏自身が、専門家として公的には歴史修正主義を批判しつつ、非公開アカウントにおいてはそれに同調するかのような振る舞いをしていたことからも、そうしたコミュニケーション様式の影響力の強さを想像することができるでしょう。
第五段落の「The悪しきコミュニケーション様式」を前提とする文章となる。
その見られる範囲として、性差別以外の例として挙げられているのが次のジャンルになる。
在日コリアンへの差別的言動
日本軍「慰安婦」問題をめぐる歴史修正主義言説
トランスジェンダーの人びとへの差別的言動
勝手に決めた「THE 悪しきコミュニケーション様式を」「こういうジャンルにも見られる」と規定してはいるものの、エビデンスは提示されていないままに終わる。
さらに後続の部分で、呉座氏の言動を引き合いにだし「The悪しきコミュニケーション様式」を「広範に歴史修正や差別的発言を助長するもの」と結び付けている。
さらに、この中に、呉座氏の言動について「歴史修正主義的」という断定的評価をも織り込んでいる
引き合いに出されているのは呉座氏の言動であるが、そう考えているのは「筆者」であり、呉座氏ではないところに注意が必要。
想像力要求
文章の最後が「想像することができるでしょう」でしめられる。
これは「想像できない奴はおかしい」という隠れメッセージとなりやすい表現である。一種のマウント型脅し論法である。
かのような論法
これは、明言をさけつつ、そうであるかのような仄めかしをする際によく使われる用法である。
これをつかうと、
『Aとはなんだ!』というクレームが来た場合に
『「Aであるかのような」とはいったが「Aだ」』とは断定していない。
といったカタチのごまかしの余地を作れる。


【10】 第7段落 仕組みのアラワレ、ハードルのアラワレ
他方で今回の一件は、日本のアカデミア、言論業界、メディア業界に根強く残る男性中心主義、すなわち中傷や差別的言動によって女性の正当な参加が困難になっていると同時に、そのことへの抗議に対しては強い「公正さ」が求められるような仕組みのあらわれでもあると私たちは考えます。
ここも非常にわかりにくい。
形式的に「今回の一件は」とあるが、その内容が明記されていない。そして誰に対して「公正さ」が求められているのかも、明記されていない。
読み解いていくためにまた問題を用意した。
【問題】
問1 「そのこと」とは何か?
問2 『強い「公正さ」』を求められているのは誰か
問3 「今回の一件」として最も不適当なものを次の中から一つ選べ
①呉座氏への処分が「厳重注意」に過ぎなかったこと
②フェミニストらが立ち上がり呉座氏やその職場に抗議したこと
③フェミニストである北村紗衣氏が呉座氏によって中傷されたこと
④呉座氏への抗議に関して批判的な意見が出てくること
【解答】
問1 コミュニティへの正当な参加が困難であること。
問2 抗議の声をあげる女性
ここで注意せねばならないのは、この「抗議」は単なる「参加要求」ではないということである。「正当な参加」のためには「(著者の主張する)適切なコミュニケーション文化」が必要となるので、それを要求することが「抗議」に含まれると考えるのが妥当だろう。
問3 ②
報道等に触れると「話題になった呉座氏」が厳しく世間に糾弾されたように思えてしまうかもしれないが、それでは文脈が全く通らなくなる。
逆に、著者らが、問題の発生した3月17日以降の状況の推移に不満であったのだとすると、あら不思議、文脈がするっと通る。
というわけで、不適切なのは②しかない。
そう考える「私たち」には、当然北村氏も含まれている。
「不満」だったからこそ、この、オープンレターが発出された。
ここでいう「公正性」は、「筆者の正しさ」に鑑みるに、発揮されてはいけなかったものなのだろう。呉座氏擁護も、北村氏への批判も、あってはならなかったのだ。
「仕組みのあらわれ」…ということで、表面上「社会構造」のようなものとして問題にする形がとられてはいるが、文脈中には「不満の表出」がしっかり含まれている。
「そういうつもりはなかった」という言い逃れは難しいと思う。
アラワレ論法
ちなみに「○○は★★のアラワレ」という言い回しは、知識人が昔からよく使ってきた論法である。
「生徒の非行の蔓延は、現代社会が消費社会に蝕まれていることのあらわれである」
「いじめの蔓延は…子どもたちが大人社会によって抑圧されていることのあらわれである」
等々。
もっと古典的には「天変地異は帝(天皇)の不徳のあらわれ」といった使われ方もした。
「あらわれ」は、社会問題化のマジックワードであると同時に「道徳性評価」としても使われるうる、評価する側に立つために使われやすい要注意ワードである。


【11】 第8段落「感覚・空気という重い事実」
呉座氏とともに中傷や差別的発言をおこない、あるいはそうした発言に同調していた人びとの中には、教育・研究やメディアにかかわる人びとが何人もいました。呉座氏が何年にもわたってそうした発言を続けることができた背景には、これらの人びとには彼の発言をたしなめようとする感覚がなかった、むしろそれを是認し時に一緒に楽しむような空気があった、という重い事実があります。
著者らいうところの「否定すべきコミュニケーションスタイル」をとっていた者が「教育・研究」の場に関わる人がいたことを挙げ、社会問題化されるべきという論の正当性を主張している。
しかし、論拠に繋がりそうな情報は提供されていない。
さらに「何年にもわたって」とあるが、がどの程度の年月か?というと2年もあったかどうか?であるらしいし、当たり前に「ずっと」ということではない。
言葉のイメージを巧みに使って「重大そう」に見せているに過ぎないだろう。
○○という事実がある論法
オープンレターでは「重大な事実がある」であるが、これもまたよく使われる論法の一つである。
「ここには、目を背けてはいけない事実がある」
「落ちこぼれと呼ばれる生徒の心がえぐられているという厳然たる事実がある」
等々、バリエーションはいろいろあるが、問題を大きそうに、取り組むべきものという主張の印象補強として使われることが多い。「事実」という言葉のイメージを利用するレトリックである。


【12】 第9段落 問題の社会化強調と「悪」の設定
それを考えれば、呉座氏の中傷発言を、いち個人の行き過ぎた発言であり氏と中傷された女性研究者とのあいだで解決すべき個人的な問題である、と主張することには大きな問題があります。それは、アカデミアや言論界、メディア業界におけるこのような男性中心主義を見逃してしまうことになるからです。
前段落で十分に筆者が「重大問題」というイメージ膨らませたうえでの、その「重大性」とやらを再帰的に利用しながら「個人化するのは問題(誤り)」主張を展開している。これ自体「オープンレター発出」の自己免責主張でもある。
そして放置した(=変えなかった)場合に発生するであろう悪、ここでは「男性中心主義を見逃してしまうこと」を設定している。
「誤り(問題)だ」論法
左翼運動家や、日教組教研運動の指導者・助言者がよく使うレトリックである。どういうときに使うかといえば、ある出来事から導き出される「問題」を、総員が取り組むべき課題へとでっちあげる移行させる際によく使われる。
例)このことを考えれば、○○町の学校で起こった混乱という事態は、、他の地域でも起こりうる問題であることはあきらかであり、これを○○町だけのことだと考えるのは大きな誤り(問題)である。この問題から目を背けるということは、私たちを信頼してついてきてくれる父母や子ども達への裏切りに等しい行為である。
といった具合に使う。
消極分子を積極分子へと駆り立てるレトリックだ。
「社会が善き方向に向かってほしい」という、だれしもが思う欲求をハックする手法であり、「間違ったことをしたくない」という、これまたよくありがちな「悪への怖れ」をハックし、連帯への圧を掛けるレトリックである。


【13】 第10段落 隠蔽はならぬ
同様に、呉座氏の一方的な中傷とそれに対する抗議とがあたかも適正な「議論」「論争」であるかのように扱おうとすることもまた、アカデミアの無自覚な男性中心主義のあらわれだと言えるでしょう。女性研究者への中傷を多くの男性同僚たちが見逃しているような性差別的な状況によって女性研究者たちはしばしば公正で冷静な学術的「議論」「論争」を阻まれてきました。中傷それ自体を「議論」の一環であるかのように扱うことは、そのような中傷が「議論」を成立させない効果をうんできた事実を、隠蔽してしまいます。
なにと同様?…というのを突っ込むひつようは、あまりないだろう。
「さらに」くらいの意味しかなしていない。
前段からの続きで「アラワレ論法、未来形」を使った「悪」の設定第二弾、第三弾といったところ。
圧がどんどん強くなってくる。
太線部「女性研究者への中傷を…しばしば公正で冷静な学術的「議論」「論争を阻まれてきました」とあるが、これは、断言による「もしかしたら」「そういえば」の誘導だろう。
被害感の増強効果を狙うときにしばしば使われる手法だ。
しかし筆者は、第7段落で、既存の「強い公正さ」を否定しているのである。
となれば、ここでいう『公正で冷静な学術的「議論」「論争」』での「公正」いうのは第7段落で言っているものとは異なると解釈するのが妥当だろう。
すなわち「公正性」そのものを、転換させるのが筆者らの希望:要求である可能性が浮上する。


【14】 第11段落 謎のままの「仕組み」と不幸の予言
要するに、ネット上のコミュニケーション様式と、アカデミアや言論、メディア業界の双方にある男性中心主義文化が結びつき、それによって差別的言動への抵抗感が麻痺させられる仕組みがあったことが、今回の一件をうんだと私たちは考えています。呉座氏は謝罪し処分を受けることになりましたが、彼と「遊び」彼を「煽っていた」人びとはその責任を問われることなく同様の活動を続け、そこから利益を得ているケースもあります。このような仕組みが残る限り、また同じことが別の誰かによって繰り返されるでしょう。
一応、前半のまとめっぽい雰囲気である。
①「今回の件」の機序が語られ、
②前の段落までで「社会的問題」と規定した、「悪しき仕組み?」を運用する人々がいまだ跋扈する様が描かれ、
③「仕組み」が変わらないままであった場合の「不幸」の予言が語られる。
この部分は物語的な記述であり、やや宗教的であると感じる。
①罪の発生と制裁の発動
②悪のはびこり
③不幸の予言
というような理解しやすい物語りである。
まあ、タイトル『女性差別的な社会を脱するために』から見ても、次に来るのが救済されるための教義のご託宣だろうことは予想される。
「善悪の確定」
「物語の確定」
「救い主の確定」
がこの段落の機能だろう。
もちろんそれは、筆者の解釈による一方的なものであり、その解釈は性差されるべきものであるが、あまり質の高くない受験予備校的な長文指導でよくある「”要するに”探せ」的な付け焼刃の読み方をしていると、この「要するに」以下を丸のみしてしまいやすいかもしれない。
以下、問題を作ってみる。が、今回は解答は作らない。
矛盾を矛盾と理解するための「問い」である。
「丸のみ」方式で読んでいる人は、こういう「問い」で詰まります。
問1 呉座氏は誰に対して謝罪したのか?
問2 この時点で公表されていた呉座氏への「処分」とはいかなるものか?
問3 呉座氏の謝罪・処分に関して、筆者は十分なものだと考えているか?
問4 ネット上の特定のコミュニケーション様式と男性中心主義文化が結びつくことでどのような「効果」が発生すると筆者は考えているか?
問5 ここでいう「仕組み」とは、どのようなものか?またそれは誰がつくたものか?
問6 筆者は『彼と「遊び」彼を「煽っていた」人々』が責任を問われるべきだと考えているか?
問7 筆者は、「筆者の求める校正さ」に反する者が、言論において利益を得ることを好ましいものだと考えているか。
明記はされてはいないが、呉座氏が謝罪したとすれば、北村氏に対してが一番妥当なところだろう。そしてここでわかるのは「謝罪があった」ことを北村氏側が認識していたということである。
処分については、この時点では日文研からの「厳重注意」だけであった。そして、それについて、前の段落までで筆者には不満があることが読み取れる。
「救い主」になるには「赦し」がいるのだが、どうみても、それを筆者は全うしていないようであるのが、これまでの文章から見て取れる。つまりこのオープンレター自体、冒頭の「女性差別的な社会を脱するために」の機能を果たし得ないものとなる可能性が高い(あくまでここまでの文章での判断である)。
ネット上の特定のコミュニケーション様式と男性中心主義文化が結びつくことで「差別的言動への抵抗感が薄れる」効果があるように書かれているが「仕組み」については、間接的に「それがあるもの」としてしか語られていない。つまり未だ判然としないままである。
筆者は「効果effect」と「仕組みmechanism」とを、しっかり弁別せぬまま文章をかいたのではないだろうか?
そう、これをあぶりだすためのいじわるな問いが問4と問5である。
もしかしたら「構造/structure」の代用として「仕組み/mechanism」を使った可能性もなきにしもあらずである。
筆者が「仕組み」とよぶものは、実のところ「効果/effect」でしかないことがここで判明した。これでは「仕組み」が語られないわけである。
そして「効果/effect」は変革すべき「仕組み」たり得ないだろう。
その「効果/effect」を
よって、以下の段落に何が出てこようと、その策は実際上有効性を持ちえないであろうことが推測される。
この段落でもう一つとり上げておきたいのが、「悪のはびこる様」の描かれようである。なぜか「利益を得ること」がその内容としてあがっている。
ここからわかるのは筆者が善とみなさない者の食い扶持は奪われるべきであるという、かなりの厳罰主義の倫理観であろう。
ずいぶん罰が好きだな…とは思う。


【15】 第12段落 私たちの考えた方法の実施の呼びかけ
以上により、私たちは、研究・教育・言論・メディアにかかわる者として、同じ営みにかかわるすべての人に向け、中傷や差別的言動を生み出す文化から距離を取ることを呼びかけます。
ここはそれほど難しくない。
注意しなければならないのは、「呼びかけ」に、賛同の署名をした者は、3段落~11段落の説明を、理解・了承していると、解釈されうるということである。
ここで呼びかけられている「行動」は、前段までで述べられている
「筆者らが悪とみなす行動様式の問題」
「「正当性」変革の意向」
「呉座氏の処分への不服」
に対応したものである。
筆者の厳罰主義もありそうなので、なかなか物騒なものになりそうである。


【16】 第13段落 村八分のススメ
「距離を取る」ということで実際に何ができるかは、人によって異なってよいと考えます。中傷や差別的言動を「遊び」としておこなうことに参加しない、というのはそのミニマムです。そうした発言を見かけたら「傍観者にならない」というのは少し積極的な選択になるでしょう。中傷や差別を楽しむ者と同じ場では仕事をしない、というさらに積極的な選択もありうるかもしれません。何らかの形で「距離を取る」ことを多くの人が表明し実践することで、公的空間において個人を中傷したり差別的言動をおこなったりすれば強い非難の対象となり社会的責任を問われるという、当たり前のことを思い出さなければなりません。
完全に村八分のススメである。
しかも、賛同者への責任丸投げと、脅し文句まで入っている。
「距離をとるということで実際に何ができるかは人によって異なってよい」とあるものの、後半で「責任を問われるという当たり前のことを思い出さなければならない」と、義務化する文言が含まれている。
求められる行動例として挙げられているものは次の三つ。
NGコミュニケーション様式に参加しない。
NGコミュニケーションをみかけたら傍観者にならない。
NGコミュニケーションをとる人と一緒に仕事をしない
くりかえしになるが、「何が中傷であるか」「何が差別的であるか」の定義は筆者の規定によるものだ。
そして、にもかかわらず「自分で考えてやれ」なのである。
「どこまでやるべきかは自分で判断していい」
+
「ちゃんとやってなければ責められるのは当たり前」
典型的な「ダブルバインド」が仕込まれている。
実は2の「傍観者にならない」は案外難しい。何をもって「傍観者的」であるかの判断が、ここまでの文章では明言までされてはいない。
ここが「エスカレート」を誘発しやすい部分でもある。つまり「声を上げる」という「証」を立てたくなる人が発生しやすくなる。
基本、賛同署名者は呼び掛け人に対し、「同調」の誓約をするようなものであり、賛同署名者は、署名の意思を撤回するだけで「強い批判」の対象にもなりうるというリスクを抱えることになる。
「署名者のみんながちゃんとやってんのに、署名者の1人であるアンタがちゃんとしてなければ、責められても当然だよね、ちゃんとやるよね」
といったところである。


【17】 第14段落 出るであろう「懸念(≒心配)」への予防線
このような呼びかけに対しては、発言の萎縮を招き言論の自由を脅かすものであるいう懸念を持つ方もいるかもしれません。近年では、そうした懸念は「キャンセル・カルチャー」なるものへの警鐘という形で表明されることがあります。すなわち、問題ある発言をした人物が「進歩的な」人びとによる「過度な」批判に曝され責任を追及されることが、非寛容と分断を促進するという懸念です。
「このような呼び掛け」は、前の段落に出てきた「行動の呼びかけ」の内容である。
「懸念を持つ方もいるかもしれません」と思っているのは誰か?といえば、筆者である。
この段落で、語られているのは「懸念を持つ人」すなわち、「賛同表明をするのに躊躇する人」が出るかもしれないという」筆者の予測である。
「躊躇する人」の気持ちを、一旦受け止めるといったカタチになるので、筆者の意見を受け入れやすくなるという、心理的効果「Foot in the doorにちかい」も発生しやすくなる。
一部分を再引用する。
近年では、そうした懸念は「キャンセル・カルチャー」なるものへの警鐘という形で表明されることがあります。
ここで「なるもの」という文言が出てくる。
この文言は、その前にある語と筆者の「距離の遠さ」を主張する場合によく使われる。
A「○○というものがあり、私はよく知らなかったが」
B「〇〇とワシらの★★を一緒にすんじゃねえ」(の、慇懃無礼バージョン)
のいずれかである。
が、この文の場合で、その後に説明をスルーして文を続けているのでのでAの「知らなかった」はあり得ない。必然的にBの意味に近いものになるだろう。
どうやら「私たちの提示した方法はキャンセルカルチャーではない」という主張が続きそうな気配である。
こういった場合後続の文章で、
①「だが、その懸念はない」(不安が不要である説明)
もしくは
②「その懸念こそが…問題の根源であり、我々はそれを克服する必要がある」(その不安は克服すべきものであるという説明)
といった文言で押すのが定番であるが、①②の中間を匂わせつつ、
③「あなたの想像するようなAとは私たちの提案するBは全く違う、なぜなら…私たちの意図は…」
と、筆者の「意図」を用いて、読者側のもつであろう懸念の焦点をぼやかして煙に巻く詭弁の手口もある。
さて、いずれがくるか?楽しみなところである。
それにしても、懸念の内容を表現する際に、なぜ「進歩的な」という用語を使っちゃうのだろう?筆者は「進歩的」を善いものと位置付けているのかもしれない。
でなければ、ここで「想定される懸念」に対応する必然性はないはずである。
ここで『問題のある発言をする人々(悪)』vs『それを批判する進歩的な人々(善)』という、潜在的な構図が浮上する。
筆者は、読者に後者に加わるように「呼びかけ」ているのであるから、当然「進歩的=善」という隠れていた設定が見えてくる。
さて、末尾の文だが「想定される懸念」の内容が述べられているが、分解すると下記のようになる。
『非寛容を促進するという懸念』
『分断を促進するという懸念』
だが、「非寛容」を否定するだけの材料を、筆者はもっているようには思えない。どう転がったって著者は「寛容」からは遠い。
筆者ら「寛容」であれば、このオープンレターにおいて「呉座氏」という個人名をもうちょっと控えめにするなどの表現の工夫もできたであろう(約3500字のオープンレターに個人名が14回登場する)。
そして、第11段落で筆者が不寛容であることが露見してしまっている。
さらに、第13段落での提案が「追放を含んだ排除」である。
よって、「非寛容を促進するという懸念」はどうみても晴れそうにない。
「分断」については、左派文化人がよく問題にするのであるが、「排除」は分断の促進そのものである。
この段落で、解消されそうにない、オープンレターの大いなる矛盾が二つも出てきてしまった。
「思ったよりやばいのがでえきたな、どうすんだこれ?」って感じ。


【18】 第15段落 アファーマティブアクションの予感
しかしながら、こうした懸念が表明される際にしばしば忘れられているのは、「問題ある発言」が生じてくる背景に差別的な社会の現実があるということです。差別を受ける側のマイノリティにとっては、多くの言論空間はそもそも自分にとって敵対的な、安心して発言できない場所であり、いわば最初から「キャンセル」されているような不均衡な状況があります。
冒頭の「しかしながら」は前段と繋がらない「しかしながら」である。
演説などでは、理想像を語った後に「しかしながら現実は…」と繋げるケースはよくあるが、理想像は語られていないのでちょっと繋がりが悪い。
「疑似逆説」かどうかを確認するためには「しかしながら」を抜いて読んでみればいい。
どうみても疑似逆説の「しかし」の類である。
「しかし…実はこうである」と、「しかし」に呼応する文脈を読もうとする読者を巻き込みんで持論を展開する場合にしばしば使われる。
さて続き。
『…現実があるということです』
『…不均衡な状況があります』
これは既に8段落で登場した「…という事実がある論法」である。
しかも二連続である。
「懸念の払拭」に入る前の下ごしらえ…にしても、「悪」がはびこる状況を並べ立てるだけでは埒があきそうにない。
また一部再引用する。
こうした懸念が表明される際にしばしば忘れられているのは、「問題ある発言」が生じてくる背景に差別的な社会の現実があるということです。
この部分、「懸念を表明した主体」が「忘れている」のである。
ここでは、「懸念を表明すること」自体が「背景:差別的文化を許容する文化という背景について考えないという不作為的悪」と暗に規定されていると解釈できる。
そして、その結果のしての「マイノリティのおかれた「実質キャンセル」という不均衡な状態」を述べている。
まとめると
「実質キャンセルされているのはマイノリティ」
「不均衡は是正されるべき」
を理由として「懸念の表明」それ自体を「望ましくないもの」と分類規定しているといったところ。
「公正」ではなく「均衡」が出てきたあたり、やや権力勾配論:朝田理論に近づいていっている印象がある。
ただ、この段落が、演説文の下手な真似で、うっかり上記のような文脈ができてしまったのか、意図的なゴリ押しなのかは、この文章をかいた筆者にしかわからないことであるので、その点は保留せざるを得ない。


【19】 第16段落 私たちは反差別の風紀委員だからいいの!
私たちは、政治的対立のある事柄について人びとが発言することを抑制したいのではありません。そうではなく、被差別カテゴリーに属する人びとを貶め気軽に個人を中傷することを可能にしている文化こそ、むしろ言論の自由を脅かし、ひいてはマイノリティの生を脅かしているということに注意を促したいのです。
文の構成自体はそれほど難しくはない。
「被差別者の権利が侵害されている」という話を持ち出し、道徳的に「善」の側であることを強調しつつ、「意図」をもって提案の正当性を訴えている。
14段落の解説で説明した、③の「意図で煙に巻く」というパターンである。
ここでは結論は明言はされていないもののの、
「このような意図はない」
「そうではなく、次のような意図である」
となれば、
「よって、筆者らの提案内容はキャンセルカルチャーではない」
が隠れているとみてよいだろう。
【問い】この段落直後に入れるとしたら、次のいずれが適当か答えよ。
①私たちの提案内容はキャンセルカルチャーではあるが、その手法をもちいるのは仕方がない面がある。
②よって、筆者らの提案内容はキャンセルカルチャーとは言えないものである。
第14段落の「キャンセル・カルチャーなるもの」という記述から、それとの距離が遠さを強調している。
ここで使われているのは「否定形」を使い、明言を避けつつ、読者側に筆者の解釈を推測させるレトリックである。言質をとられにくくするために昔から多用されてきた方法だ。
否定的表現を用いることで明言を避ける方法は、「反語」が多用される日本語圏ではよく使われるものである。それ自体は、明言するとトラブルになりやすいことを語るのためにしばしば使われる方法であるので、良いも悪いもない。
「saebou先生の悪口はやめろ」
と、同種のレトリックである。
このため、呉座氏の発言に端を発した「コミュニケーション様式」を問題にする際に使うことが適切か?というと、ちと疑問を感じざるを得ない。
さらにいえば、この文章では「行動の呼びかけ」をしているので、そこで、結論の明言を避けるというのは、賛同者に責任をなすりつけるものになってしまう面もあり、むしろ説得力を下げる効果が発生しかねないものと思われる。
被差別カテゴリー
そして、この段落でいきなり、「被差別カテゴリーに属する人々」という表現が出てくる。
前の段落までで出てきた「マイノリティ」に相当するものだろう。
文章のタイトルと考え合わせると筆者は、「女性」は「被差別カテゴリー」に属すると、考えているようである。
だが、「女性」は基本人口の半分いる。
母数を「日本国内に居住実態を持つ者」として考えてみよう。
前の段落までで筆者が出してきた「マイノリティ(少数派)」の男性と、トランスジェンダーを合わせると、必ず50%を超え、むしろやや「マジョリティ(多数派)」になってしまう。
これは、前段までの「マイノリティが攻撃されている」という話と矛盾してしまう。
不可視化の構図から
そしてもう一つ「女性=被差別カテゴリーか?」の精査も必要である。
第6段落を読み返そう。
サラッと「性差別」ゆえに「筆者が攻撃されるような(実際は「そう感じた」)悪しきコミュニケーション様式がある」といった話になっているが、
筆者に同調しない女性もいるかもしれない。
すなわち、筆者の論は、筆者に同調しない女性を「無視:不可視化」しないと成り立たない。(逆にいえば「同調しない女性が1人いただけで、矛盾が発生する)
となれば「筆者の意見」は「筆者と、筆者に同調する、女性と被差別カテゴリーにある者」という限定された者の、権益確保のためにあると解釈されよう。


【20】 第17段落 とにかくやれ、改革だ、行動だ!
また私たちは、中傷や差別的発言とそうでない発言との境界が時に明瞭ではないことも理解しています。しかし、事実として両者のあいだに明確な線が引けない場合があることは、その概念的区別を求めることが無意味であることを意味しません。むしろ明確な線が引けない場合があるからこそ、言動に注意を払うことが重要な意味を持つのだと考えます。
前段の続きで、筆者の主張の「正当性」の補足的が語られるとともに、「行動」を推奨する文である。
表面ヅラだけをなぞって「概念的区別を求めること=意味がある」とだけ捉えてはいけない部分である。
『また、私たちは………理解しています』は、筆者のいう「推奨行動」が「キャンセル・カルチャー」として批判されるリスクがないのであれば、必要のない文言である。
【問題】
問1 太線部の、行動主体は誰であると考えられるか?
問2 「言動に注意を払うこと」と、ほぼ同義の部分をこの段落中から抜き出せ
【解答】
問1 賛同者
この文章は「行動のよびかけ」をしていることは、第12段落で明言されている。したがって「行動主体」は「賛同者」である。
「この文章の呼びかけに賛同するあなたが」が省略されている。
問2 その概念的区別を求めること
表現をかえて、ややソフトにして繰り返しているといったところだろう。
後半のイメージのほうが頭に残りやすい人にはトラップになりやすい。
「意味がある」を強調し、賛同(とそれに付随する行動)を強く呼び掛ける部分であると考えられる。
ここの段落を読みはぐると「何となく意味がありそうだし差別はよくないし」と「うっかり賛同」をしやすくなる。
かなり重要な段落である。
前段落まで出てくる「呼び掛け文」にしては明言を避けるレトリックやら、賛同者に判断責任を丸投げするレトリック、そして第13段落に出てくる著者らの「批判権」の正当化などを併せて考えると、この段落の趣旨は以下のようなものになるだろう。
『問題性の有無の線引きは明確ではない(≒間違ってしまうリスクはある)が、とにかく私たちの推奨する行動は意味があるのでやれ!(但し、責任はとらないし、賛同した上で行動しても、筆者らが不十分と感じたら、非難もするし責任も問うが)』
よく読むとかなり恐ろしい内容である。

【21】 第18段落 締めの呼びかけ
中傷や差別的言動を生み出す文化を拒絶し批判することで、誰もが参加できる自由な言論空間を作っていきましょう。
サラッとまとめている…が、案外クセモノである。
タイトルにあった「女性差別的文化を脱するために」
が、いつの間にか「誰もが参加できる自由な言論文化」にすり替わっている。
『「誰もが参加できる自由な言論文化」であれば「女性差別的文化ではありえない』という、隠れロジックが埋まっていると解釈しうる。
「大は小を兼ねる論法」とでもいっておこう。
「文章で述べてきた意味内容」ではなく「一般的な意味」で何となく「正しさ」を印象付けていくレトリックである。これは「文章」の理路が整然としない場合の苦肉の策として使われることが多いものだ。
ここで精査すべきは「大は小を兼ねているのか?」である。
文章全体から、筆者の想定している「自由な言論文化」というものをまず読み取る必要がある。
そしてそれが「成立しうるか」を判断しなければならない。
問1「中傷や差別的言動を生み出す文化を拒絶し批判する」行動例を3つ挙げよ。(14段落参照)
問2 ここでいう「自由な言論文化」とはどのようなものであると考えられるか。次の用語をすべて使って400字程度で述べよ(公正性・戯画化・掛け合い・女性・差別・仕組み)(前半3~11段落参照)。
問3 ここでいう「自由な言論文化」は、一般的な意味での「誰も」が参加しうるものか?


【22】最終段落に到達したところで
【5】で下記のように概略を追うためのガイドラインを作ったが、

それが下記のようになった。

【23】全体を読んでいく
さて全体を見ていこう。
排除対象に依存する構造
前半で出てきた「仕組み(女性差別的文化」の、成立機序が明らかにされぬまま「それを脱するための行動をすること(=距離をおく、排除すること」が呼かけられている。
となれば、この文章の主張は『筆者が「悪しき文化」と呼ぶもの』の存在に依存し続けるしかない。
これは、常に排除対象を探し続けるという、なかなかに不毛な作業を、賛同者に呼びかけているということである。
解釈権の独占
そして、排除対象が排除対象であるかを規定するのは誰かというと、筆者(呼び掛け人ら)である。
筆者のお気持ちが傷つけば、筆者の期待する「公正性」に基いて「排除」が行われる必要がある。
筆者の考える、公正性が保たれた状態は「不均衡を是正せんとするフェミニストやマイノリティ側から批判」が、筆者の主観での「揶揄」「中傷」をされないことであり、「必要な排除」が滞りなく実施される状況であろう。
それが問題発言か?
だれが排除対象か?
必要十分な排除か?
は筆者(呼び掛け人ら)に決定権があり、彼らへの批判はまた差別であるかならまかりならぬ。
という誓約を賛同者はすることになる。
賛同者に求められているのは、筆者(=呼び掛け人ら)への無条件の同調・忠誠でしかない。
示威的文章
「オープンレター」は非常に示威行動な文章であるといえる。
そして、オープンレターの発出自体が「圧力」として機能する。
そもそも筆者らが「問題発言」とした呉座氏の発言は「鍵アカウント」内でのもので、それが、「何者か」の手によって北村氏に渡り、北村氏が「問題化」したものである。
鍵アカウント内の発言だからといって何を言ってもいいということにはならないが、こうして問題化したことによって
「筆者らに気に入らない発言があればどこからでも引きずりだして糾弾するぞ」
といういささか脅迫めいた、示威的な意味が発生してしまう。
呉座氏が「糾弾・排除」を逃れる条件は?
ここが問題だ。
『仮に』オープンレターが「呉座氏個人に対する糾弾や排除の意図がない」としても、オープンレターの意を汲んだ者が呉座氏を糾弾したり排除したりすることは妨げられない。
筆者が「もう十分である、その必要はない」といった明確な意思表示をしない限りは、糾弾・排除がエスカレートするリスクは継続するし、
筆者が、明確な意思表示をしたところで、別の理由で呉座氏を「排除・糾弾」しようとする者が「オープンレターの意を汲む」ということを大義名分にする余地も残る。
よって、呉座氏が「糾弾・排除」を完全に逃れられる条件というのは存在しない。
【24】読解講座の終わりにあたって
いや~、お疲れ様でした。
「オープンレター」は読みどころが豊富でしたね。
できるだけ平易に書くようにはつとめましたが、だいぶ頭を使う羽目になったのではないでしょうか。
「事実から読む」のも重要であるが、文章そのものから読み取れるもの、そしてレトリックから読み取れるものも結構あるということがお分かりいただけたのではないだろうか。
高校までの教科書の文章は「難解」な文章はあまりないし、学校のテストや大学入試問題では、問題が作りにくいため「オープンレター」のような難解な文章は素材になりにくい。
ここで、読者に一つ理解してほしいことがある。
「難解だから内容に価値がある」とは限らないことである。
「平易でも価値がある内容」という文章もいくらでもある。
難解な文章を読み切ることはある程度達成感があるが、それは「良いものを読んだ」ということとは直結しないのだ。「難解でかつ、内容がどうしようもない文章」に対する警戒は怠らない方がいい。
さて、クソ長い読解講座を生み出してしまったが、このほとんどは2022年の早春、オープンレターの閉鎖の前にだいたいのカタチができていた。実は雁琳氏と、オープンレター解体ツイキャスまではやっている。
明言を避けまくった文章や印象操作部分が多い文章なので、その軸を読み取っていくための読解講座をやるには、いささか意地悪い「問題」を作ったりする必要もあったのと、北村-雁琳訴訟がおこってしまったこともあり、テキスト化をずっと先延ばしにしていた(一応、変に影響してしまう可能性を考慮w)。
2025年の春、雁琳氏が北村紗衣氏に名誉棄損で訴えられた裁判が最高裁での上告棄却で確定し、1gannri=220万円という妙な単位まで生まれてしまったので、心置きなく書くことにした次第である。
読解講座は以上で終わりだ。
逆三段論法は反論にリソースを食う
ちょっとだけ捕捉をする。
三段論法をご存じだろうか?
①人間は必ず死ぬ
②アリストテレスは人間である
③ゆえにアリストテレスは死ぬ

これと似て非なる逆三段論法というものがある。
本邦では、憲法9条絶対論者がよく使う論法だ。
9条平和論の大半がこの類である。

文章となった場合、文章構造だけみてもこの区分が付かないので、論理的に考えるのが苦手な人は、この手の論法に惑わされやすい。
福田恒存は、進歩的文化人の平和論について「屠蘇の盃の如し」と言っている。ちょっと比喩が適切でないように思うが、この論理の矛盾を指しているようである。
私は「独楽のようなもの」表現したい。
回転運動をし続けなければ正立していられないのが「独楽」である。
「アベ政治を許さない!」もこの延長上にあるだろう。

だんだん話が整理されていくわけではなく、「排除」に向かうものは、こういう構造をとることが多いよう思う。
「我こそは被害者」という印象を作り続けないと、正立していられない。
論理だてて整理する必要はなく、悪のイメージをふくらませていくだけで何段重ねにもできる。そして回転しているうちは量産もされるので、反論しようにも読むためのリソースが食われるのでなかなか対抗しがたい部分もある。
ただ何らかの理由で「回転」が維持できなくなれば、倒れる。
そして、「オープンレター」もこのような構造に近いものがある。
下部が細く、上にのるものが大きくなる。

回転が強すぎると周りにとっては危険である。
オープンレターが発出されたことで「回転」がさらに強まり、
その結果として、2021年初秋には呉座氏の追加処分が発表されたといったところだろう。
2021年秋の呉座氏の職場に対する提訴や、オープンレターの不手際問題、オープンレターズの内紛(礪波亜紀氏の離脱)などで、多少回転が弱まったように思う。
雑感
たしか、このオープンレターを通し読みしたのは2021年の4月10日頃だったろう。
「オープンレター」が発出されたことは知っていたが、冒頭の「研究・教育・言論・メディアにかかわるすべての人へ」と文言に、うっすら漂う選民臭を嗅ぎつけた私は、オープンレター発出の日には数行で読むのを止めた。
急いで読むほどのものじゃないだろうと思った。
が、その後「署名が集まってるらしい」という話がタイムライン上回ってきたので、読む気になった。
ちょうどその頃、私が机に積み上げていたのは「集団主義教育」関連の本で、全く同じレトリックが含まれている本を数日前に読んだ(再読であるが)ばかりだったので、思わずその本を引っ張り出し、当該の部分とモニター上に映るオープンレターを行ったり来たりした。
こんな使い古された💩な日教組レトリックを今の時代に使うやついるのかよ?と、本当に唖然としてしまい、開いた口がふさがらなかったのを今でもありありと思いだせる。
そして、それにかなりの署名が集まってしまっていることにさらに唖然とした。
学生運動や労組のアジビラなどで、いわゆる左翼レトリック…というのがコロコロ転がっていたような世代のノンポリ層が、ちょっと鼻をつまみながら避けたくなるような、あのアジビラ的な文章を、大学の先生達や出版関係者が連名で出しちゃうのかよ…という驚きとともに、それが廃れすぎて、鼻をつまめなくなった若者がふえてきていたのか…。
本来、詭弁レトリック芸というのにも、それなりのお作法があって…とまでは言わんが、密度高く詰め込みすぎると見えやすくなってしまうという弱点がある。
オープンレターの「詭弁」や「誘導」「印象操作」をそれと気づかれにくくするためには、最低でも3~5倍くらいのボリュームは必要だろう。
編集を生業にするものが何人も呼びかけ人に名前を連ねていてこれかい?とこれまた唖然。
あの高圧縮ゴリ押しで、研究者を中心に1300人以上が署名したとなると、副次的に「人文系の学者や知識人の知的能力」に関する大衆の評価をさらに下げる、知的能力に関して疑いの目を向けることにもなっただろう。
案の定、「オープンレター署名者」というのは、一種のスティグマ化したし、しっかりデータベース化されて再利用されるまでになってしまった。
いったい、オープンレターズは何をしたかったのだろう?
お読みいただきありがとうございます。
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ちょっとだけ笑えるだろう…とは思う。
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