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1200万円で人生のレールをぶち壊す──高校生を教えていたわたしが三十路で挑んだ「生きる力」の探究

「大人は、受験、受験、うるさいなぁ!!」

と叫んでいたのは、目の前にいる高校生……ではなく、29歳女性、4年制大学卒サラリーマン暦7年目、紛れもなく大人のわたしだった。当時、わたしは仕事で担当していた学校の教室の中にいたので、心の中でだったけど。

大学卒業後は外資系企業で働くも、「もっとみんなが自分らしく生きられる世の中にしたい!」という青い夢だけ持って、教育企業に転職。

「高校生の主体的な学びをサポートする放課後の自習室や探究講座の運営をしている」というと自分の心も、周りからの理解もすべて満たされているように見えた。

でも、現実では自分の気持ちは、思春期の高校生たちもびっくりな情緒の不安定さで、ゆれにゆれていた。

高校生は、どんな子も本当におもしろかった。ずっとタブレットと睨めっこしていると思いきや、プロ顔負けの絵を描いていたり。たまにしか自習室に来ない子がやっと現れたと思ったら、半年間かけてこしらえた大傑作を持ってきたり。

「普段ぜんぜん話さないんですよ」と大人から言われている子ほど、「嘘でしょ!?」と思うような唯一無二の素質を秘めていた。光り輝いていた。

でも、ダメなのだ。

周りの大人が気にするのは、高校生の5教科(英数国社理)の成績と、廊下に張り出された花飾り付きの進学先の短冊。そこを保護者の期待や学校の経営状況というベールがうっすら覆っている。

その裏側で生み出された探究結果も、高校生の諦めの表情も、気づかれることはなかった。

その気持ちもわかる。

わたし自身、5教科を使って大学受験し、自分が合格した中で一番偏差値が高かった大学に入学し、新卒で大企業に入社して、以来、毎月安定した給料が振り込まれている身分だ。

周りの大人だってみんな多かれ少なかれそう。それが唯一の幸せだと思っている。

目の前の高校生たちは、「将来の役に立たない」「安定して生きていけない」と大人に諭されて自分の好きなことを諦めていた。関心が持てない英数国社理を学び、「就職に良い」学部を目指す。それは本当に幸せなのだろうか。

そもそもこの分野は安定していて、あの分野は役立たずなんて、いったいどこの誰が決めた?

世の中にあるもので、無意味なものなんて本来ひとつもない。どんなにニッチな業界だったとしても、必ず生きる術はあるはずだ。

子どもの「こうなりたい」という夢を叶えるために、一緒に悩んで考えて、試行錯誤するのが大人ではないのか。

……という立派な理想論だけはあったものの、4年制大学からストレートで会社員になったわたしには、それ以外の道を応援する説得力が欠けていた。

自分自身、毎月の給料が振り込まれなくなったら、生きていけるのだろうか。自由を失うのも怖いし、死んじゃうかもしれない。

行動できずにいたわたしが変わったきっかけは、コロナ禍で生まれた余白と、30歳を目前に控えたタイムリミットだった。

「20代でやり残したことはないか?」と振り返ったときに、自分が高校生だったときを思い出した。あのときは部活の忙しさにかまけて、大人に勧められるがままに、日本の偏差値が高い大学を目指した。

でも本当は、小中学生時代を過ごしたオランダでの『自分の言葉で学び、議論する』体験が忘れられなかったのだ。いつかあんな風に学べる海外の大学へ行きたい。その願いに蓋をしていたことを思い出した。

自分が死ぬときに「わたし結局、一度も海外の大学に行かなかったな」と悔やみながら息絶える姿が脳裏にありありと浮かんだ。

そうだ、自分が直感的に死ぬときに後悔しそうなことを、叶えてみよう。日本以外の国では、みんなどのように自己実現の道を選ぶのか学んでこよう。

そう思ったわたしは、1200万円をドルに替え、アメリカ留学に行くことにした。留学に行く決断をしたことが、「自分らしく生きるとはどういうことか?」を考える上での人生のターニングポイントとなっている。

画像 「あなたはあなたの道を行くのよ」と励ましてくれた、留学先での仲間

このnoteは、4年制大学を出て会社員になり、毎月しっかり給料をもらって「安定」という名のレールをきっちり走ってきたわたしが、

「いや、待てよ? そもそもそのレール、わたしが選んだんだっけ……?」

と、29歳にして高校生からパワーをもらい、自分の人生を問うて問うて、ついにはレールごと乗り換えていった、2022年からの3年間の話。

誰もわたしと同じ道は歩めないし、歩みたいかどうかもわからない。

でも、「目が死んでいる大人には、絶対にならない!!」と誓って小さい選択を積み重ねてきたら、こんな人生になった。

わたしがどうやって人生のレールを選び直してきたのか、そんな3年間の記録です。


1200万円で、「自分らしさ」の原点を買った


仕事をしながら海外留学を目指したものの、自分が海外で学ぶことはどこか現実離れした、おとぎ話のような感覚だった。

……当時29歳だった2022年春に、留学先から合格の通知を受け取るまでは。

合格するのは嬉しいことだったけど、未知のはじまりはここから。なぜなら合格するまで後回しにしていた厳しい現実の数々が、一気に押し寄せてきたからだ。

まず、お金が足りない。

留学準備での最大の失敗は、奨学金の選考にすべて落ちたことだった。全部。箸にも棒にもひっかからなかった奨学金もあるし、書類審査は通ったものの面接であっけなく落ちた奨学金もあった。

そこに加わったのが、2022年の歴史的円安。

わたしがはじめて合格通知を受け取った2022年3月5日を境に、ドルは成長期の子どものごとく、ぐんぐん伸びた。目を手で覆って、指の隙間からおそるおそる為替を確認しているうちに、もともと高額だったアメリカでの留学費はさらに膨れ上がった。

わたしの合格が、円安を引き起こしたのかもしれない(?)

わたしの今までの貯金額では、どうあがいても足りない。

まず、親に頼むという選択肢は最初からなかった。高校時代に「海外大学に行きたい」とぼんやり打ち明けたこともあったけれど、親からは「うちにそんなお金ないでしょ」と一蹴された。

たしかに、親はわたしが「お金に困らない」人生を送れるように、精一杯のことをしてくれた。でもそれは同時に、あくまで「親が用意できる範囲」での安全な未来だったようにも思う。

わたしは、自分の力でどこまで行けるか試してみたかった。多少危なくても、結果がどうなるかわからなくても、知らない世界に足を踏み入れてみたかったのだ。

ここで、今回の旅路のキーパーソンが登場する。わたしの夫だ。

夫とは大学生からの付き合いで、結婚して5年。わたしが海外留学を心残りにしていたことは知っていて、出願中から応援してくれていた。

一方で、30歳目前となると「20代で子どもを産むのか」という葛藤があった。夫も会社員なので、「留学の1年間は離れ離れで大丈夫なのか」という不安もある。

そんな葛藤や不安にも、「自分が死ぬ前に後悔しそうなことをやる」好奇心が打ち勝った。そして結婚してからもずっと独立会計を守り続けていた夫婦間で、はじめて留学のために借金をしたいとお願いをした。

家族会議で夫は「“あのとき留学に行きたかった”って、ずっと言われるのはこっちもしんどい。だから今、まなみちゃんにしかできないことをしてきて」と言って、承諾してくれた。

こうしてわたしの口座には、一時的に1200万円の現金が集まった。今考えれば、家にでも車にでも使えただろう。

でもわたしは、「人は自分らしく生きることができる」という可能性に賭けることに決めたのだ。

震える手で、わたしの口座の円をドルに一括換金した。びっくりするくらいすっからかんになった口座に、血の気が引いた。もう後戻りはできない。

後にも先にもない、恐怖の口座明細

その後の1年間、わたしは定期収入なしで、一括換金したドルをひたすら食い潰す生活を送ることになる。

でもこの生活を体験したことが、わたしの生き方の探究に大きな影響を与えたと、今なら思う。給料のように毎月奨学金が振り込まれていたら、ここまでお金の大切さと使う難しさを身に染みて感じていなかったかもしれない。

実際にアメリカでの生活費は、日本とは比べ物にならないくらい高かった。ゴキブリが出る狭いアパートをルームシェアして、家賃は月20万円。

外食するとチップは20%で、ラーメン一杯3000円は当たり前。スーパーには味噌汁をつくる野菜もないし、気軽に食べられるコンビニスイーツもない。安定的に食事を得られない生活で、体重は逆に爆増した。

日本食が恋しくて、たまに日系スーパーで 買う1個450円のおにぎりがちょっとした贅沢だった

こんな生活だったら、一見不幸に感じそうなものだ。でも、留学していた1年間は毎日最高に幸せで楽しかった。

毎日図書館に行って、好きなだけ文献を読み込んでレポートを書く。いろんな国から来ている友達と、真面目なこともちょっとしたことも何でも話す。

わたしはずっとこういう生活がしたかった。高校生の自分が「海外の大学のほうが合っているかも」と思っていた直感はとても正しかった。

その直感は、頭だけじゃなくて、身体でも感じていた。留学中は-22°の寒さでも、一度も風邪を引かなかった。毎朝ワクワクして、6〜7時にパッチリ目が覚めた。

毎日、大学院と自宅を往復するだけのシンプルな暮らし。それだけなのに、「もしかして、これが理想なのかも…?」と思う瞬間が何度もあった。

自然が近く、わざわざ観光に行かずとも気晴らしができた

振り返ると、日本で会社員として稼いでいだお金は、ほとんど会社員としての生活を成り立たせるために消えていた。

オフィスへの利便性が良いところに住むためには、狭い家に高い家賃を払わないといけない。自炊する時間がないから、コンビニ飯や飲み会にお金が飛んでいく。普段自由に過ごす時間がないから、休みになると稼いだお金は旅費に。

一番顕著だったのが服で、今思えば日本ではオフィスカジュアルやメイクにけっこうなお金をかけていた。そんなわたしが、アメリカでは1年間最低限の服しか買わず、毎日同じようなトレーナーとズボンで過ごした。でも、これだけで全然生きていける。

そして気づけば1年かけて、わたしはとある「訓練」をしていた。それは、個人事業主の先輩である空想地図作家の今和泉隆行さんが名付けた「無収入トレーニング」

「貯金残高が減ることに耐えられる精神を持つことで、お金を気にせず自分の活動に集中できるようになる」──そんな感覚が自然と身についていた、というと聞こえはいいが、実際は目まぐるしく変わる毎日に必死に食らいついていただけかもしれない。

でもよく考えたら、そもそも人間はロボットではない。毎月一定のお給料をもらえるということはありがたいことだが、不自然なことでもある。

どんなにお金持ちでも、残高が減ることに耐えられなかったら、お金を増やすことにやっきになり、お金稼ぎ以外の行動が何もできない。これではいくらお金があったって、自分らしい人生を送ることはできないのだ。

残高の減り幅こそ、自由度の幅。お金が少ない時期も、「なんとかなるでしょ」の気持ちと暮らしの取捨選択で乗り越える──そう思えるようになったことが、この1年で得た最大の学びだった。

1年間、物価高のアメリカを貯金だけで生き延びることができたことは、その後の自信にもつながった。

授業で一緒だった大切な友達とは、今でも週一、オンラインでつながっている

「自分らしく生きる」と「家族と生きる」は、両立できるのか


留学体験記というのはたいてい受験のことが書かれ、たまに留学中の学びや暮らしのことが書かれている。卒業後のことが書かれるケースはレアだ。

でも海外留学は、実は卒業後の身の振り方が本当に難しい。

2023年5月に卒業式を迎えたわたしには、アメリカに残るのか日本に帰るのか、どこかに就職するのか自分で何か始めるのか、無数の選択肢が広がっていた。どの選択にもロールモデルはなく、手探りの状態だった。

アメリカの大学院の良いところは、日本のように卒業後一斉就職することを前提にしていないところだった。

同級生に卒業後どうするのか聞いたところ「1年間勉強しすぎて疲れちゃった!数ヶ月休んで、それから就活しようかなぁ」という返事だった。自分がいかにせっかちな時間軸で大事な決断を下そうとしていたかを思い知らされた。

アメリカの大学院を卒業したときに、普通考えるのはいわゆる「キャリアアップ」だ。わたしには借金もある。アメリカ企業、または日本の外資系企業で働くことも頭をよぎった。

でもこの選択肢は、わたしにとって致命的なところがあった。わたしはファーストキャリアですでに外資系企業で勤めていたのだ。

「もっとみんなが自分らしく生きられる世の中にしたい!」という青い夢を持って飛び出し、借金までしている。

それなのにお金のために戻ったら、結局「やりたいこと」より「やらないといけないこと」を優先したことになってしまう。

アメリカで享受させてもらった環境、そして何より夫が期待を込めて貸してくれた貴重なお金を活かした生き方を、誠実に模索したかった。

でも、一つ悩みがあった。それは、日本で働いている夫を置き去りにして、アメリカに残り続けるのかということ。

5年間結婚生活を送ってきて、30歳手前ではじめましての人とルームシェアする生活は、無理ではないが不安定で楽ではなかった。

でもこの先、夫がアメリカ転勤になる可能性、ましてや同じ都市に住む可能性は、天文学的に低い。大学院には夫が妻の留学に帯同している同級生もけっこういて、そんな柔軟なマインドセットを羨ましく思ったりもした。

もう一つネックだったことがあった。わたしが留学に出たタイミングで、夫が東京から地方転勤になっていたのだ。

わたしは幼少期に父の仕事の関係で、オランダに5年間住んでいた。当時小学生ながらに日本に残りたいと懇願したのだが、その要望は却下された。そのときから、「自分は絶対に会社の都合で引っ越す人生は送らない」と固く誓い、自分自身のキャリアはそれを貫いてきた。

夫と一緒に住むために日本に帰るのに、日本に帰るとなると自分の会社の都合どころか、家族の会社の都合で住むところを決められてしまう。これが本当に嫌だった。

いろいろ悩んだ挙句、いったん日本に帰国することにした。行き先は、夫の地方転勤先の家族向けの社宅。側から見たら、夫婦だけで地方の一等地の3LDKに補助ありで住むことができて、何が不満なのかと思うだろう。

でも、わたしは自分の住む場所は自分で決めることで、エネルギーが湧くのだ。わたしの心は、徐々に死んでいった。

会社の都合で住む場所を決められ、周囲も夫の関係者ばかり。夫に帯同して知らない地で孤軍奮闘している妻たちが、長時間労働やゴルフ三昧の夫の代わりに、社宅の雑務を当たり前のようにやらされていることも不満だった。

スーツケース2個で幸せに暮らせたアメリカ時代を思えば、社宅の広すぎる3LDKは檻のようだった。家具を揃え、生活水準を上げてしまえば、それを維持するためにサラリーマン生活をやめられなくなる。その未来が、透けて見えてしまったのだ。

スーツケース2個だけを引き連れて、2年間で6回も引っ越した

社宅の部屋に徐々に引きこもりがちになったある日、家のインターネットが途切れて大事な作業が吹っ飛んだ。挙げ句の果てに、突然ぎっくり腰に襲われた。

このとき、自分が何のためにこの社宅にいるのか、まったくわからなくなってしまった。薄暗い部屋で腰痛に苦しみながら天井を仰いでいると、この状況が情けなくて涙が出た。

夫と一緒に住むために、日本に帰ってきた。夫のことは大好きだ。留学にあたって、経済的にも精神的にもサポートしてもらっている。

でも、卒業後の進路を誠実に模索しようとしてもできていない現実を、このままではすべて夫のせいにしてしまいそうだった。

帰国後は何度も家族会議を重ねていた。この家族会議は、「お互いがやりたいことを続けるために、家事分担や家族計画、これからの働き方まで、ざっくばらんに話す」定例ミーティングだった。

そうした話し合いを重ねるなかで、自分の心が荒みきってしまう前に、離婚を切り出すべきか──その言葉が何度も喉元までこみ上げた。

その言葉はギリギリのところで、空気に触れることはなかった。なぜなら、そのタイミングで奇跡的に、夫がフルリモートの会社に転職することになったからだ。

このことで「自分が住みたい場所で、自分がやりたいことをやる」チャンスがめぐってきた。そのチャンスを、今度は迷わず自分の手で選び取る。

2024年2月、わたしたちは大学生のときにはじめて出会った東京・日野に越してきた。好きなところに住み、自分がやりたいことだけやってみる。

ついに本当の意味で、「自分らしく生きる」ことを探究する環境が整った。

「自分の暮らしをつくる」をはじめる

会社員のルーティーンを壊して、自分の暮らしをゼロからつくり直すということ


1年ぶりにアメリカから日本に帰ってきたとき、すべてに改めて感動した。

コンビニにはおにぎりが売っていて、100円台で買える。スーパーでは品揃え豊富な野菜が、これまた100円台から買える。

この感動をいつまでも忘れることがなければ、わたしは飢え死なずに挑戦し続けることができると思った。

お金がない。最新のものがない。良い教育を受けられない。高度経済成長期の考え方がいまだに根強い現代日本では、何かが「ない」ことは「悪」だとされる。

けれど、わたしがアメリカで学んだ「主体的な学び」は、「なければつくればいい」という考え方だ。食だって、住だって、自分が読みたい文章だって、自分でつくればいいのだ。

この二つの考え方が、わたしの個人事業主としての暮らしを支えている。

そういうわけで「フリーランスだったら〜〜をすべき!」「30代のキャリアでは〜〜をすべき!」という世の中の教えを全無視して、わたしは基本的に一日中いつ作業しても、いつ休んでも、いつ外に出ても自由な生活を送っている。

時間の使い方があまりに自由なので、自分が本当に何をやりたいのか、どういう生活スタイルだと自分の力が最大限発揮できるか、睡眠・運動・食事と人間の基本から色々と実験してきた。

留学前の生活習慣のうち速攻クビになったのが、都心への通勤電車だった。

わたしは疲れが溜まると肩こりにくるタイプで、今まで整体、鍼、ストレッチなど数多ある解決策にお金と時間を投じてきた。

けれど、アメリカで徒歩で完結する生活を送って気づいたことは、通勤電車に乗らないだけで肩こりは緩和する。知らない人同士が密着する空間は、わたしにとって相当ストレスだった。都心に通う仕事は基本的に引き受けない方針が決まった。

こうして自分の直感や健康を指針に、「自分がやりたいと思っていたこと」の中からさらに「一番やりたいこと」までそぎ落としていくと、徐々に二つのことに絞られてきた。

ひとつめは、「文章を書きたい」ということ。

帰国直後に受けていた仕事は会議や調整が多く、次第に手放すようになった。会議に参加していると、いつも「もっと時間がほしい」と感じていた。

その違和感を掘り下げていくうちに、わたしは「まとまった時間を確保して、創作したい」と強く思っていることに気がついた。ついに、お金になるかどうかに関係なく、自分がやってしまうことにたどり着いたのだ。

そう、わたしは文章を書くのが好きだった。

幼い頃から好奇心を刺激されたり、オランダでつらかったときに本に励まされたり──文章は、ずっとわたしのそばにあった。それでも、「安定しないかもしれない」「お金にならないかもしれない」という不安から、「仕事にしたい」と思うこと自体を、どこかで抑えてきた。

でも今は違う。書きたいことが毎日のように湧いてきて、追いつかないくらいだ。もう、書くしかない。

2024年からは、もともと細々とつくっていたZINEに本格的に取り組み、販売イベントにも出店。2025年からはnoteに全振りし、「自分らしく生きる」ことを追い続けてきた大人の自由研究を、言葉としてまとめている。

日野の水辺についてのZINEをつくり、一箱本棚で販売

ふたつめは、「自分の暮らしを自分でつくる」ということだ。

文章を書くのは好きだけど、ひたすら書く生活を試した結果、適度に運動しないと睡眠の質が落ちることがわかった。

運動もストレッチ、プール、ランニング、長距離散歩といろいろ試したが、せっかくなら同時に何か生み出せないか。

ここで辿り着いたのが、「自分の暮らしをつくる」運動だった。

2024年からはチェーンソーや刈払機を使って、自分が住む日野市の緑地を整備するボランティア活動に参加。2025年からは毎朝自主的に川沿いのゴミ拾いをはじめた。東京にいながら、自分の街の風景を自分で守っている。

それだけではない。アメリカで「食さえつくれれば生きていける」と感じたことをきっかけに、市民農園を借りた。そして今では日野の米農家さんで援農ボランティアもしている。自分の手で食をつくり、地域に根ざし、地球全体を耕している。

日野は、東京とは思えないほど「自分の暮らしをつくる」活動が身近にある場所だった。もともと川や用水路の景色が大好きで引っ越してきた。暮らしてみてわかった──あのときの直感は、まちがっていなかったのだ。

毎日、自分の好きな場所を、ちょっとだけよくする

夫もワークライフバランスを大切にしている会社に転職して、生活が激変した。夜には一緒に夕飯を食べ、週末にはボランティアに出かける。

もともとよく話してはいたが、余裕ができたぶん、家族会議の質もぐっと上がった。最近ではお互いに思いをぶつけて、泣きながら話すこともある。それも、わたしたちにとっては大切な日常の風景だ。

自分がやりたいことは、書くことと水辺の暮らしを守ること。それが、やっと見えてきた。わかるまでには時間がかかったけれど、わかってきたら、あとはその営みを日課にして続けていくだけ。

生きることは、案外シンプルなのかもしれない。

誰のものでもない人生を、誰よりも本気で使い切る


もともとは、「高校生が自分の唯一無二の才能を、存分に活かすような自由な進路選択をしてほしい!」と思ってはじまった旅路。

それなのに気づいたら会社を辞め、安定した給料はどこかへ行き、留学をして自分の幸せを問い直していた。

互いの「やりたいこと」を応援し合う同志のような夫と、暮らしをもう一度つくり直しながら──わたしはいまもこうして書いている。生きている。

こうして書いていることが他人に評価されるのかもわからない。もしかしたら、誰の目にも止まらず、ゴッホのように死ぬのかもしれない。でも、それでもこのnoteを書かずにはいられない。

それは、大人の都合で自分が好きなことが信じられなくなった高校生に、「好きなテーマを選んで、堂々と生きていいんだぞー!!」と伝えたかったからだ。

そして子どもにストッパーをかけていた大人たち。大人だって決められたレールにしがみついていようが、思いがけず外れてしまっていようが、「あなたが今立つ場所が、唯一無二のあなたのレールだぞー!!好きにやったれー!!」と声を大にして叫びたい。

この3年間を通して気づいたことは、生きる力とはお金を稼ぐ力だけではないということだ。

自分の衣食住をつくること。健康的な生活を送ること。他の人と意見をぶつけ合いながらも協力すること。助けが必要なときには頼ること。自分にとって大切な価値観は、世間が何と言おうと曲げずに伝え続けること。

どんな不確実なことが起きても、「自分は大丈夫だ」と信じられること。

自分らしく生きていくとは、自分が持っている生きる力すべてを、総動員していくことなのだと思う。

人生の道は、ある日突然ひらけるものじゃない。わたしも留学に興味を持ち始めたときは、人生がこんなふうになるとは思っていなかった。

心の奥底に秘めていた言葉を、ひとつ声に出してみる。前から気になっていたことを、ひとつ試してみる。それだけで、世界は少しずつ動き出す。

人生は一度きりで、わたしの人生をわたしらしく使い切れるのは──わたししかいないのだから。

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おくだまなみ|ライフデザイン研究家 応援ありがとうございます!ライフデザイン研究家としての新たな実験の原動力にさせていただきます。

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