司令官ボードリクール【前編】王太子の名において
1. 序論:孤立した拠点の守護者
ジャンヌ・ダルクの1429年からの行動を語る時、初期で最も大事なキーパーソンがヴォークルールの守備隊長ロベール・ド・ボードリクールです。
今回は彼にスポットを当ててみたいと思います。
15世紀初頭、百年戦争末期のフランスにおいて、シャンパーニュとロレーヌの境界に位置するヴォークルールは、王太子(シャルル7世)派にとって敵対するブルゴーニュ派領土の中に残された「孤島の拠点」でした。
(参考記事:ヴォークルールは何故ジャンヌの出発地となり得たのか?)
この地の守備隊長ロベール・ド・ボードリクールは、ジャンヌ・ダルクの言葉を容認し、彼女を王太子のもとへ送り出した人物として歴史に名を残しています。しかし、彼の決断を単なる宗教的熱論への感化や、突然の奇跡(敗戦の予言)への信仰とみなすことは、彼の当時の判断から目を逸らす結果となります。
本稿では当時の政治的・軍事的な状況、ジャンヌ以前のボードリクールの行動と立場を掘り起こしながら、改めて彼の判断を顧みていきたいと思います。
2. トロワ条約による孤立と、1420年の外交使節団襲撃事件
ロベール・ド・ボードリクールは、シャンパーニュ地方の小貴族の家系に生まれました。彼がヴォークルールの守備隊長に任命されたのは1415年頃のことです。奇しくもこの年は、アザンクールの戦いでフランス軍がイングランド軍に歴史的な大敗を喫した年でもありました。
彼の指揮官としての真価が問われることになった最大の転機は、1420年に結ばれた「トロワ条約」です。
この条約は、当時のフランス王室を支配していたイングランドとブルゴーニュ派によって締結されたものです。その内容は、王太子シャルル(後のシャルル7世)から王位継承権を完全に剥奪し、イングランド王ヘンリー5世とその子孫をフランスの正当な支配者として認めるという、王太子派と真っ向から対立する条約でした。
この条約により、王太子シャルルは公式に「王室を追放された反逆者」という立場に転落します。そして、イングランド・ブルゴーニュ連合軍がフランス北部から東部にかけての支配権を堂々と主張できるようになります。
これはヴォークルールや周辺の王太子派の領主にとって致命的でした。周囲を完全に敵対勢力(ブルゴーニュ派や親イングランド派の領主たち)に包囲されただけでなく、法的な後ろ盾すら失った「絶望的な孤島」と化してしまったのです。しかし、ボードリクールはその状況の中で積極的な行動に出ています。
彼は「単独で孤立無援の戦い」をしていたわけではありません。近年、フランスの歴史家ヴァレリー・トゥレイユ(Valérie Toureille)の研究などでも再評価されていますが、当時の王太子派には、正規軍の支援が途絶えた辺境において、手段を選ばず敵陣営を荒らし回る過激な将軍・領主たちが存在しました。
ボードリクールの近隣であるコメルシー領主ロベール・ド・サルブリュックもその一人です。彼ら「二人のロベール」をはじめとする現地の同盟者たちは、時に結託し、抵抗を続けていました。後にコンピエーニュ包囲戦でジャンヌの運命に大きな影響を与えるギヨーム・ド・フラヴィも、フランス北部で同様の戦いを繰り広げた一人です。彼らは単に領地を守る受け身の役人ではなく、自ら火種を撒き散らしながら敵の憎悪を一身に集め、それでもなお拠点を維持し続ける「最前線の猛者」だったのです。
それを象徴する事件があります。トロワ条約締結と同年(1420年)に彼らが起こした「外交使節団襲撃事件」です。ボードリクールはロベール・ド・サルブリュックと共同して自らの陣地に近い街道を通過しようとしていたブルゴーニュ派の高位の使節団を襲撃・拉致するという大胆な実力行使に出ました。
この使節団は正式な「安全通行証」を所持していました。当時の戦時下において、通行証を無視した襲撃は騎士道や慣習法を完全に踏みにじる明確なルール違反(強盗行為)でした。当然、世間からも非難の対象となっています。
この一線を越えた襲撃により、彼はブルゴーニュ公フィリップ(善良公)の激しい怒りを買い、名指しで討伐の標的とされることになります。しかし彼にとってこの行動は、身代金による資金獲得や敵の政治工作を妨害する実利を得ると同時に、遠く離れた王太子への「揺るぎない忠誠」を物理的に示す最高のアピールでもありました。
3. 「王太子の名において」襲撃の背後の意図
この1420年の使節団襲撃事件について残された当時の公文書を紐解くと、まったく別の風景が見えてきます。
この拉致事件の際に交わされた文書(1420年5月の身代金に関する領収書や、バル公が発行した同年5月19日付の免責証書)には、明確にこう記されています。 彼らの行動は「王太子殿下のために、そしてその名において(pour et au nom de monseigneur le dauphin)」行われたものである、と。※出典:Siméon Luce(シメオン・リュス)著『Jeanne d'Arc à Domremy; recherches critiques sur les origines de la mission de la Pucelle, accompagnées de pièces justificatives』

この一文が意味するものは重大であると私は考えます。 通行証を無視した拉致という、騎士道に反する一線を越えた実力行使でありながら、彼らはそれを「私兵の強盗」ではなく「王太子の大義名分を掲げた公的な軍事作戦」として実行しました。
トロワ条約によって絶体絶命の窮地に立たされ、南方のシノンへと逃れていた王太子シャルルの陣営にとって、敵の外交工作を物理的に破壊することは喉から手が出るほど求めていた「勝利」でした。つまりこの襲撃は、王太子派中枢の意図に完全に呼応した、極めて高度な政治的・軍事的作戦でした。
しかし、当時わずか17歳であり、自身の安全すら危ぶまれてシノンへ逃避行していた王太子シャルル本人が、遠く離れたヴォークルール周辺の工作や作戦を緻密に指揮・計画できたとは考えにくいです。
ここで鍵を握るのが、当時、絶大な影響力を持っていた義母ヨランド・ダルゴンをはじめとする「アンジュー家」のネットワークです。
彼らは逃亡中の王太子陣営において事実上の政治的指導者かつパトロンとして政治・軍事の舵取りをしていました。
ボードリクールが死守していたヴォークルールが位置するバル公領周辺は、ヨランドの次男ルネ・ダンジューの継承問題が深く絡む、アンジュー家にとって絶対に失えない戦略的要衝でした。 彼が襲撃したブルゴーニュ公の使節団は、まさにそのバル公を英・ブルゴーニュ陣営に引き込もうとする外交工作が目的でした。つまりこの拉致事件は、単なる身代金目当てなどではなく、アンジュー家の東方戦略を脅かす敵の外交ルートを「物理的に切断する」という、極めて政治的な性質を持つ作戦だったのです。
シノンの王廷には、東部の果てまで正規軍を派遣する余裕は一切ありませんでした。だからこそ、自活しながらブルゴーニュ公の外交を破綻させ、その報復を一身に集めて「王太子の名において」敵陣営に確実に出血を強いてくれるボードリクールらの実力行使は、王廷にとってこの上なく貴重な防波堤でした。
この泥臭くも確かな働きによって、ボードリクールはシノンの中枢から「東部戦線における最も信頼のおける実行部隊」として確固たる評価を得ることになります。彼は単なる孤立した辺境の番人などではなく、シノン王廷と太いパイプを持つ「東方に打ち込まれた大切な楔」としての地位を確立していったのです。
後年、彼がジャンヌ・ダルクに男装をさせ、護衛をつけ、王太子への紹介状を持たせて手際よくシノンへ送り出すことができたのは、決して偶然や気まぐれではありません。彼にはすでに、中央と連携して動くための「長年の実績とネットワーク」が構築されていたのです。
しかし、自ら進んで憎しみを背負い、ブルゴーニュ公フィリップの怒りを煽り続ける泥沼の局地戦は、ボードリクールとヴォークルール周辺の戦況を徐々に悪化させていきます。彼を討伐しようとするブルゴーニュ派の圧力は年々高まり、ついに1428年、イングランド・ブルゴーニュ連合軍の命を受けたシャンパーニュ代官アントワーヌ・ド・ヴェルジーが大軍を率いて侵攻し、ヴォークルールは決定的な危機に見舞われることになるのです。
(後編へ続く)
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参考文献
高山一彦訳『ジャンヌ・ダルク処刑裁判』(白水社)
高山一彦訳『ジャンヌ・ダルク復権裁判』(白水社)
佐藤猛『百年戦争』(中公新書 2582)※特にトロワ条約への抵抗について
ヴァレリー・トゥレイユ『王国の辺境における二人のアルマニャック派』(Valérie Toureille, Deux Armagnacs aux confins du royaume : Robert de Sarrebrück et Robert de Baudricourt, 2007)※1420年の特務工作の史料的根拠として
シメオン・リュス『ドムレミのジャンヌ・ダルク』(Siméon Luce, Jeanne d'Arc à Domremy; recherches critiques sur les origines de la mission de la Pucelle, accompagnées de pièces justificatives, 1886)※1420年の使節団襲撃に関する公文書テキストの出典として
