見出し画像

ヴォークルールは何故ジャンヌの出発地となり得たのか?

前回、ヴォークルールから始まるジャンヌの旅路にヨランド・ダラゴンの関与が大きかった可能性について述べました。

ヴォークルールから始まるヨランド・ダラゴンとジャンヌの関連について

この後ジャンヌ達はヴォークルールから450キロ以上離れたシノンまで、敵の勢力圏下を突破する旅に出ます。
ここで、ひとつ疑問が生じます。
敵勢力圏下にあるはずのヴォークルールは何故、王太子派だったのでしょうか?
もしヴォークルールが敵勢力下にあったなら、ジャンヌはそもそも旅立てなかったでしょうし、ヨランド・ダラゴンが介入する余地もなかったはずです。さらに、ドンレミ村が王太子派として存続することも難しかったでしょう。 仮にドンレミ村がブルゴーニュ派であったなら、ジャンヌの立場は異なっていた可能性があります。

1、ヴォークルール周辺の状況について

当時の勢力図がこちらです。斜線がイングランド勢力下、横線がフランス王の勢力下、濃い色で塗られているのがイングランドと協力関係にあるブルゴーニュ派です。
フランスの北半分が敵勢力に落ちているのが解ります。

当時のフランス全土の勢力図(ミズーリ大学法学部のオープンソースより)

ドンレミ村とヴォークルール周辺を拡大してみましょう。
ほんのちょっと横線があるのが解るでしょうか?

拡大図

拡大しても判別は容易ではありません。そのくらい小さなこのエリアが、この地方に飛び島のように残ったドンレミ村とヴォークルール周辺の王太子勢力です。
異質さが解ると思います。

さらに拡大し、色付けした地図があります。

当時のヴォークルール周辺の勢力図(ロレーヌ大学出版社のオープンテキストより)

西側に王太子領があるように見えますが、上二つの地図のようにすぐ途切れます。
この中で、黄色のヴォーデモン家はブルゴーニュ派のフィリップ善良公が味方しています。つまり王太子派の敵です。

ヴォークルール周辺のみが薄い水色で示されています。
これはこの土地がフランス王直轄地であった事を示しています。
この場所にだけ、フランス王直轄の飛び地が孤立して在ったのです。

薄茶色(Saint Empire)と濃茶色(Barrois non-mouvant)は「神聖ローマ帝国領」の帝国諸侯のエリアです。殆どは王太子の敵に回ってイングランド・ブルゴーニュ派と手を組んでいました。
つまり、飛び地の中でもヴォークルール及びドンレミ村は敵勢力との最前線にあったのです。

なぜ、そのような勢力図にあったのか、少し歴史を遡ってみましょう。

ヴォークルールがフランス王権と結びついたのは、中世フランスの領土拡大を推進したフィリップ4世の時代です。
1297年の主権譲渡
 
ヴォークルール領主であったジャン・ド・ジョアンヴィル(聖王ルイの伝記作家として有名)は、財政的・政治的な理由から、ヴォークルールに対する「宗主権(上級裁判権など)」をフィリップ4世に譲渡しました。
フィリップ4世は、この後さらに東のムーズ川(帝国との国境)へ進出する足がかりとして、この戦略的要衝を求めました。
王領への完全編入(1335年〜1360年代)
当初は「宗主権」のみでしたが、14世紀に入ると完全に王領(フランス国王の私有財産的領土)へと変わります。
1335年、フィリップ6世の時代に、ジョアンヴィル家からヴォークルール城と周辺領地の所有権が買い取られ、名実ともに「王国の門」となりました。その後、百年戦争の混乱期に入りますが歴代のヴァロア朝国王もこの地の戦略的重要性を認識し、手放すことはありませんでした。
「王国の門」としての特権付与
歴代のフランス国王は、要衝であるヴォークルールが敵方に寝返らないよう、住民に対して手厚い保護と特権を与えました。
この土地は近隣の諸侯(バル公やロレーヌ公)の干渉を受けない国王直轄の管理下に置かれました。※フィリップ・コンタミンの「Le Barrois et la Lorraine dans la guerre de Cent Ans」より
守備隊長ロベール・ド・ボードリクールは、単なる地方領主ではなく「国王の代官」として軍事・司法・行政の全権を握っていました。また、ヴォークルール及びドンレミ村地域の「フランス王領側」の住民は「国王直属の臣民(Sujets du Roi)」という立場でした。それは彼らの税の納める先はフランス王国であり、近隣諸侯の中間搾取を受けない構造を示します。ジャンヌが国王に会おうとした際に、まずボードリクールを頼ったのも頷ける話かと思います。

2、この地域の税制について

前項の最後でこの地域の税制について述べました。
ここを少し掘り下げたいと思います。

タイユ税(Taille / 国王への直接税)の免除または減額
タイユ税とは通常、軍事費として徴収されるものですが、ヴォークルール代官区は「自衛」を義務付けられた国境地帯でした。Philippe Contamine(フィリップ・コンタミン)の研究によると、王領直轄地では、住民は現金で税を払う代わりに、城壁の修復工事や、夜間の見張り役(Guet)を義務付けられていたとあります。ヴォークルールは四方を敵(バル、ロレーヌ、ブルゴーニュ派)に囲まれていました。戦況も厳しく、この労役は極めて実戦的であり、王室側も「現金を取るより、彼らに守らせる方が合理的」と判断していたと思われます。こんな地域の住人に重税をかけたら確実に寝返ってしまいます。義務、労役というと非常に重く感じられますが、収入に乏しい農民からすると、納税の代わりに労役を果たすのは経済的なメリットが大きい話です。
それはジャンヌの産まれるずっと前、恐らく1300年代中頃から続くこの地方の伝統となっていたはずです。ヴォークルール代官区のフランス王への忠誠は、この税制免除の上にあった可能性は大きいと思います。

3、ジャンヌの時代
税といえば、ジャンヌがランスでシャルル王太子を戴冠させた後にたったひとつ要求したという「ドンレミ村の税免除」を思い出す方もいらっしゃると思います。私は昔からこの要求が少し引っかかっていました。
何も解っていない村娘なら、村にもっと直接的な財産を要求したりするのでは無いかと。
1300年代から続く免税特権が、この地にフランス王家への固い忠誠を育て、その事が念頭にあるからこそ出てきた要求であれば、その思考にも納得がいきます。

さて、もう一度この勢力図を見てみましょう。

当時のヴォークルール周辺の勢力図(ロレーヌ大学出版社のオープンテキストより)

ドンレミ村の周囲の勢力図が非常に複雑な事が解ります。
ドンレミ村の中でさえ、ムーズ川の東と西で所属勢力が違うほどです。
ここには、百年戦争でフランスの中に在った全ての勢力が存在しているのです。
この地方は百年戦争の最前線であると同時に縮図とも言えるのです。

また、ドンレミ村の東にヴォーデモン家という領地が見えます。
ここはブルゴーニュ派の中でも積極的に王太子派と敵対している所です。
事実、ジャンヌ死後直ぐにここでルネ・ダンジューはヴォーデモン家との戦いで捕虜になってしまいます。その敵とドンレミ村の距離は40kmと離れていません。ジャンヌは私達が思うよりはずっと前線の空気を感じながら成長していったのだと思います。

そんな最前線で、フランス王家直轄の民として育ち、恩恵を肌で感じながら育ったからこそ、ジャンヌの強い信念が育まれたのでしょう。
それ故に、ジャンヌは旅立ちの相談と準備をヴォークルールで終えて、シノンへの旅に出るのです。
その旅の結果、ジャンヌは見事シャルル7世の戴冠を手助けし、褒美として「ドンレミ村の免税」を願い出ます。
それは、今までこの地方にあった直轄地の特権を拡大・明文化するものだったはずです。
ドンレミ村の税はジャンヌの功績によって免除されました。税帳には「乙女ゆえに無し」と記載されたそうです。
ヴォークルールの1300年代から続く国境を守ってきたという忠誠心とジャンヌの功績がこの場所を税制上の聖域化したといえます。
免除は1789年フランス革命まで(実質としては1766年のロレーヌ併合時かもしれません。)続きました。
しかし、フランスという国がこの地域を聖域化した記憶は生き続けます。
ボワ・シュヌ大聖堂で記載した通り、この免税廃止直後から大規模なこの地域の開発が国の援助の元始まります。
私は、(当然観光資源という側面はあるにしても)フランスという国がジャンヌの事を忘れないという意思をこの流れに見て取れると思います。

目次ページに戻る

いいなと思ったら応援しよう!