ジャンヌの旗とそれを巡る人々
以前、私はジャンヌ・ダルクの象徴とも言える「旗」についての記事を書きました。
そこで示した通り、戦場で旗を持つという事は唯のお飾りであるという事にはなりません。冒頭の記事で彼女の兜に残る傷跡に触れた通り、最前線で旗を持つという事は、敵の激しい攻撃に晒されるという事を示します。
今回は、そんな過酷な役割の中でもジャンヌが愛し続けた「旗」について掘り下げてみたいと思います。
ジャンヌが持っていた2つの軍旗
後世の作品群のイメージからか、つい「ジャンヌの旗は唯一のもの」というイメージを持ちがちです。しかし、当時の軍事の慣習や資料を読み込むと2つの軍旗の存在が見えてきます。
・大軍旗(エタンダール / étendard)
軍団全体の象徴として持つ、戦場で味方を鼓舞するための巨大な旗。
・小軍旗(ペノン / pennon)
指揮官個人の目印。槍の穂先などにつける。部隊に具体的な動きの指示を出すための小旗。
彼女はこの役割の違う2つの軍旗を少なくともオルレアン戦開始時には持っていたはずです。
今回はそのうちひとつ、軍団旗に纏わるエピソードをひとつご紹介したいと思います。
時はポワティエの審査を終え、ジャンヌがトゥールの街でオルレアン解放のための戦いの準備を整えている頃のお話です。
この戦いの準備を整える期間、おそらく1429年4月5日から21日までの16日間、ジャンヌはトゥールに滞在しました。
この頃の準備として有名なのが、トゥールの鎧鍛冶コラ・ド・モンバゾン(Colas de Montbazon)によって作成された「白い鎧」です。
※私は2週間でオーダーメイドの鎧の発注から受領までを行えたとは思えず、ポワティエ以前から戦いの準備は始まっていたのではないかと考えています。
さて、同時期にジャンヌの軍団旗も作成されています。
今回のメインはこの軍団旗です。
この軍団旗の作成を引き受けたのは、スコットランド人の画家ハミッシュ・パワー(Hamish Power:※フランス語名ウーヴ・ポルノワール Heuves Polnoir等と表記されるようです。)でした。
町で絆を深めるジャンヌ
この2週間、ジャンヌは様々なトゥールの人と交流しています。
ジャンヌは、ジャン・デュピュイという富裕層の家に滞在しました。
彼の妻はマリー・ダンジュー王妃の侍女であるエレオノール・ド・ラ・ポーです。アンジュー家の支援の手厚さをここにも見る事ができます。
また、甲冑の試着のためにコラ・ド・モンバゾンの家を頻繁に訪れていた彼女は、同じ地区に住む画家の家にも何度か足を運び軍旗の制作を見守っていたことでしょう。 トゥールの古い地区の通りで彼らとの交流を深めたはずです。ジャンヌはおそらく、画家の娘であるエリオット(Héliote)と特に仲良くなったと思われます。それを示すエピソードが今回ご紹介したいエピソードです。
トゥール滞在の約1年後のジャンヌが示した友情
それから約1年弱、恐らくラ・シャリテの包囲戦の最中かその後、ジャンヌは一通の手紙を書きます。
手紙はジャン・デュピュイ卿とトゥール市の議員たちに対してのもので、エリオットが結婚するにあたっての結婚持参金として100エキュの額を援助する事をお願いするものでした。
2度に渡って招集された市議会によって、彼らは審議しました。
結果として、このお願いは否決されました。
その理由としては、「ジャンヌは王国の英雄ではあるが、市の予算は市の防壁などの修繕に使われるべきであり、他の用途に使うべきではない。」という物です。大変真っ当な理由であり、当時のフランスでの「予算」という物の捉え方は現代に近しい感覚だったのだろうと思わせます。
しかし、決定はさらにこう続きます。「乙女への愛と敬意のために、教会の者たち、ブルジョワ、そして住民たちは、来る木曜日に行われる彼女の結婚の祝福に参列し、市を挙げて祈りを捧げることとする。(中略)そして、その娘には祝福の日に、1セティエの小麦で作られたパンと、4ジャレのワインが贈られることとする」
結果として、エリオットの結婚式は無事執り行われ、市の有力者が参列する幸せな結婚式を執り行うことが出来たのでしょう。
市の議員が署名した領収書には、父親にはパン代を、甲冑師のコラ・ド・モンバゾンにはワイン代を支払っています。
「甲冑師コラ・ド・モンバゾン、および画家ウーヴ・ポルノワール(ハミッシュ・パワー)に対し(中略)合計4リーヴル10スー・トゥルノワを支払う。すなわち、コラには市から贈られたワイン代として40スーを、ウーヴには乙女ジャンヌの栄誉のために市が推奨した結婚式のパン代として50スーを支払うものである」
※何故ここで甲冑師コラ・ド・モンバゾンが出てくるのか解りません。
コラがワインを手配したとか?いずれにせよ、コラもエリオットの結婚式に何らかの寄与があった事が想像できます。分野は違えど職人同士の交流があったのでしょう。もしかしたらそれはジャンヌとの2週間が取り持ったものかもしれません。
この時期、ジャンヌはパリ包囲戦に失敗し、各地で転々と戦い続けますが戦果に乏しく厳しい状況にありました。
事実、この約3か月後にコンピエーニュで捕らえられ、火刑への道を歩むことになります。
しかし、そんな状況にあっても友人の事を思い出し、支えようとするのは美徳といって差し支えないと思います。(市の予算の使い道について配慮が足らない部分はあったかもしれませんが、彼女の年齢・経験からすると無理からぬことです。)
彼女は、親切にしてくれた各地の人々の事を忘れるような人ではなく、自分のできる範囲で力になりたいと思う女性だったのです。
"Les étendards de Jeanne" (1990) (オルレアン「ジャンヌ・ダルクの家(Maison Jeanne d'Arc)」の展示・研究解説。エタンダールとペノンの違い、および財務官の帳簿記録を参照)
シャルル7世の戦争財務官 エモン・ラギエの第13会計帳簿(1429年) (画家ウーヴ・ポルノワールへの25リーヴルの支払い記録)
トゥール市参事会記録(Délibérations)および 公金出納帳(1430年2月) (100エキュの要請の却下、およびパンとワインの現物支給・領収書記録)
