見出し画像

ジャンヌ・ダルクのロレーヌ公訪問について

 1429年2月、ジャンヌ・ダルクは、王太子シャルルに会わせて貰いたいとヴォークルールに留まっていました。この頃に行われたロレーヌ公シャルル2世への訪問は、あまりクローズアップされていませんが、実際には彼女の広い世界に旅立つ初期段階の自信の獲得や軍事的・政治的支援の獲得において決定的な役割を果たしたのではないかと思います。
今回は、復権裁判の証言記録を軸に、この訪問について詳しくみてみたいと思います。

1、訪問の経緯と一次史料に基づく実像

 ヴォークルールに滞在するジャンヌの噂は、当時病に伏していたロレーヌ公シャルル2世の耳に届き、彼女はナンシーの宮廷へと召喚されました。この際の状況は、同行した騎士たちによって復権裁判時に詳細に記録されています。

1.1 同行者の供述に見るジャンヌの主体性

復権裁判において、ジャン・ド・メスは次のように証言しています。

「・・・ロレーヌ公シャルルからの通行手形を持って殿様に会いに行きましたが、私もトゥールの町まで同行しました。

復権裁判

 また、ジャンヌの叔父のデュラン・ラクサールは、公爵との具体的なやり取りを証言しています。

「・・・その後、彼女は通行証を与えられてロレーヌ公シャルルの許に赴きました。シャルルの殿様は彼女に会うと、話を交わしたうえ、4フランを与えました。彼女はそれを私に見せてくれました。

復権裁判

 これらの証言は、ロレーヌ公が健康を回復する奇跡を期待してジャンヌを呼び寄せ、ジャンヌはその奇跡が起こせることを否定した上でシノンまでの道程の援助を要請した事を示しています。
 特にデュラン・ラクサールの「(ジャンヌが)4フランを見せてくれた」という証言は、彼がジャンヌを引率したというよりは、むしろジャンヌが行動の主導権を握っていたことを示唆しているように見受けられます。また、ジャン・ド・メスがトゥールまでしか同行していなかった点も、注目すべき事実といえるでしょう。

1.2 地理的な分析

 前述の証言を地理的な観点からも検討してみたいと思います。
前回のヴォークルールは何故ジャンヌの出発地となり得たのか?で如何にこの周辺が複雑な勢力図になっていたかを記載しましたが、そこを念頭においてヴォークルール、トゥール、ナンシーの位置関係を見てみたいと思います。

グーグルマップより

ヴォークルールからトゥールは大体20km、ロレーヌ公国ナンシー首都ナンシーまでは25kmといった所です。そして、トゥールまではブルゴーニュ派の影響も強い地域であり、ロレーヌ公国に入れば文字通り「別の国」です。
45kmの旅は非常に危険な物であったはずです。
 同行者はジャンヌ、デュラン・ラクサール、ジャン・ド・メスの3人です。このうち軍人であるジャン・ド・メスが国境近いトゥールまでしか同行しなかった点もは興味深い点です。フランス圏内を彼が護衛したのだとすれば、それ以降の道のりを農夫であるデュランとジャンヌだけで進むのは心許なく感じられます
 ここから、公爵の通行証が極めて強力な効力を持っていたか、あるいはロレーヌ公側からの迎えがあった可能性も考えられるのではないでしょうか。それであれば、迎えに任せて後は引き返したジャン・ド・メスの行動も頷けます。もし後者であれば、既にジャンヌは大きな感心とバックアップを得ていた事になるのではないでしょうか。
 また、このロレーヌ公国訪問から帰った直後にジャン・ド・メスとジャンヌはその後ヴォークルールからシノンまで約450kmの敵勢力圏の移動に入ります。ジャンヌとジャン・ド・メスにとってはその後の大移動に向けた実践的な予行練習になった事でしょう。

2. ロレーヌ公シャルル2世との面談

ジャンヌがロレーヌ公に呼ばれたのは、当時ロレーヌ公が体調を崩していて病を治す奇跡を求めての事であったとされています。
実際、その会話は復権裁判の記録にもあります。また処刑裁判2月22日のジャンヌ自身の証言にも同様の記載があります。

私はまたジャンヌから、病気だったロレーヌ公が彼女に会いたいと言った時の話を聞きました。彼女はロレーヌ公と話に行ったとき、公の素行が行けないのだと言い、それを改めなければ病は治らないでしょうと述べてきたということです。

復権裁判のマルグリット・ラ・トゥールールドの証言

当時、ロレーヌ公は正妃と別居し、愛妾と同棲していました。この不品行は当時の価値観において「大罪」にあたります。 ジャンヌは奇跡を求められながらも、「そんなことはできない。健康を願うなら行いを正した上で神のご加護を待つべきだ」と、相手の地位に臆することなく素直な見解を述べたのです。もしロレーヌ公に彼女を見定める意図があったのだとすれば、ここで安易なまじないを弄さなかったことが、かえって彼女の信頼性を高めたのかもしれません。
 また、ロレーヌ公とルネ・ダンジュー、そしてヨランド・ダラゴンのネットワークが存在していたことを考えれば、ここでの評価は決定的でした。もしロレーヌ公から否定的な評価が下されていたならば、その後のヨランドによる手厚い支援も引き出せなかった可能性があります。
 一方で、ロレーヌ公がジャンヌに一定の評価を与えていたとしたら、彼が与えた「4フラン」という金額は少々ひっかかります。4フランというとジャンヌとデュランが見せ合うくらいですから少額とまではいかないとしても、その後デュランはヴォークルールの知り合いと共同で12フランをジャンヌの旅に供出した事を考えると、公爵の招待客に対してと思うと控えめな印象を受けます。しかし、当時のロレーヌ公国がまだブルゴーニュ派であった事を考えると(後にルネ・ダンジューが継承して王太子派になります。)表立って多額の援助を行うことは政治的に困難だったという事情も推測されます。先に挙げたのと同様に処刑裁判の2月22日のジャンヌの供述からすると自分をフランスに案内してくれるために、ロレーヌ公の息子(ルネ・ダンジュー)と従者を与えてくれるように依頼したとあります。その後従者はヴォークルールから与えられますが、ルネ・ダンジューの同行はありませんでした。ロレーヌ公が表立って動けなかったのも同様の理由によるのかもしれません。

3. 結論

ジャンヌ・ダルクのロレーヌ公訪問は、以下の三点において、彼女のキャリアにおける不可欠な転換点だったと考えられます。

  1. 公的に自らの立ち位置を表明: 地域の最高権力者に対し、まじないや奇跡ではなく「自らの使命への援助と行動」を真っ向から説いたことは、彼女の言葉の真実性を裏付けることとなりました。彼女は自らがペテン師ではなく、実効性のある行動を志していることを、ここで公に示したといえます。

  2. 政治的な後ろ盾の獲得: この訪問でジャンヌとルネ・ダンジュー、ヨランド・ダラゴンらに彼女は強く認識された、と考えます。単なる農民娘から、王室を支える駒へと変わったのです。(その後の彼女の運命を考えても駒という表現で正しいかと思います。)

  3. 自信: 敵対勢力が潜む軍事境界線を越えて行動した経験は、後のシノンへの移動、ひいてはフランス救済という大事業を遂行するための実戦的な経験となったでしょう。

ただの村娘であったジャンヌが初めて地元を飛び出して公的に動いたこのロレーヌ公訪問こそが、ジャンヌを歴史の表舞台に立たせるための「真の初陣」であったと私は思います。

目次ページに戻る

いいなと思ったら応援しよう!