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ジャンヌ・ダルク生誕の家

ドンレミ村にあるジャンヌ・ダルクの生誕地は、彼女が1412年1月6日に生まれた場所と推定されています。
彼女の生年月日は一般的に用いられていますが、その正確性には疑問が残ります。
しかし、現在の家はジャンヌの生前と全く同じ姿ではないかもしれませんがその信憑性についてはほぼ疑いの余地がありません。
僅かにジャンヌ・ダルク王族説など唱えられている方もいますが、ここで育ったことは間違いありません。

現在のジャンヌの生家

ジャンヌ・ダルクの生家とその庭園は、ジャンヌの聖女ではなく人間としてての日常生活をイメージできる稀有な場所です。
14世紀に建てられたこの家は、何世紀にもわたって保存・修復され、当時の雰囲気を忠実に再現しています。
家の内部は4部屋と少ないですがドンレミにおけるジャンヌ・ダルクの生活と、この家の歴史を鮮やかに伝えています。

ジャンヌ・ダルクほどの有名なヒロインの出生地としては、この村はとても静かで心落ち着ける場所です。

中庭も美しく整えられています。

ジャンヌの生家の中庭。黄色の〇のあたりで最初に神の声を自覚した

ジャンヌが13歳の頃、初めて聖カトリーヌと聖マルグリットそして大天使ミカエルの声を聴いたと自覚した(処刑裁判2月27日)のはこの位置になると考えられています。教会に向かって右側という証言とも一致します。

ジャンヌが『声』を聴いた場所であることを示すレリーフ

ただ、住宅自体に目を向けてみるとその建物は長い歴史の中で少々姿が変わってしまっているようです。

ジャンヌの生誕地

少しこの家の辿った道のりを遡ってみます。
ジャンヌの時代から恐らく16世紀まではジャンヌの残された家族の所有として使われました。
ジャンヌの父、ジャックの死後、ここにはジャンヌの母イザベル・ロメが住みます。イザベル・ロメが老齢になりオルレアンに招かれた後、此処を受け継いだのは息子のジャックマンまたはピエールと考えられます。少なくともピエールは1501年(93歳)まで生存しました。
ジャンヌの子孫は1500年代中頃までこの住宅を使用したようです。
ジヤックマンの直系の子孫のアンヌ(1505年生まれ)は「15、6歳くらいまでここで過ごした」と1551年に話しました。
1586年にサルム伯爵夫人ルイーズ・ド・スタンヴィルの手に渡り、1611年にジェルマン・トゥーサンに渡されました。その後、多分所有者不明の状態が続いて、1700年頃ジェラルダン家の所有となります。

私の見つけられたもっとも古いスケッチがこの19世紀初頭のものになります。

19世紀初頭、ジャンヌの生家付近の開発前のスケッチ

教会の位置から推定すると左手の建物がジャンヌの生家となりますが、今の形とは違っています。
余談ですがサンレミ教会の今の入口の前に建物がある事が解ります。
この時は入口は反対側(裏手)にあったのでしょう。

ジャンヌの生家は、単独で立っていたのではなくいくつかの家が寄り集まってたった集合住宅だったのです。

ジャンヌダルクの生家で貰えるパンフレットを画像翻訳したもの

別角度から見ると潰された入口が見えます。ただ、これは後世に開けられたものかもしれません。

別角度

私の解る範囲では、ジェラルダン家が所有していた1820年頃まで所有していたジェラルダン家が改築、増築を繰り返した結果今の形になりました。
1818年のジェラルダン家の当主、ニコラ・ジェラルダンは他に6000フランでこの家を買い取ろうとする話もあったのに、ヴォージュ県の総評議会に2500フランでこの家を売却しました。
それによりこの生家とサンレミ教会周辺の開発が進みました。

1820年のジャンヌの生家とサンレミ教会の見取り図

この時、ジャンヌの生家以外の部分が取り壊されました。今の形に近づいています。

周辺の住宅が取り壊されて、ジャンヌの生家のみとなった。

ジャンヌの家を見た時、誰もが「ちょっと変な形だな」と思うと思います。
それは、より大きな建造物のうち一部だけを残したから生まれた歪さから来るものだと思います。

中は天井が低めです。身長158㎝のジャンヌにとっては少し窮屈だったかもしれません。

ジャンヌのカトリーヌの部屋(仏版wikiより)

ジャンヌと妹キャサリンの部屋が此処とされています。
その家唯一の窓が此処にあって、そこから教会が見えたという証言とも一致します。(他の窓は後世に開けられたものと考えられます。)

1430年当時の姿をイメージする時、もうひとつジャンヌの幼馴染、マンジェットの復権裁判時の証言があります。
「私の父の家はジャネットの父の家とごく近くで、私はジャンヌの乙女ジャンヌの事を良く知っていました。彼女と一緒に糸を紡いだり夜となく昼となく彼女と他の家事もしたからです。」(白水社復権裁判P.104)
ここの原文の表現が良く分かりませんが、隣接していたと解釈している人もいるようです。
また、同じく復権裁判で証言したシモナン・ミュニエも「私は乙女ジャンヌの父親の家のそばに住んでいました」と発言しています。(同P.102)
家に隣接した可能性が高い発言に思えます。少なくともこの周囲には複数の住宅が集まっていたのだと思います。

リビングには暖炉があります。
ジャンヌはここで産まれた、とされていますが真偽の程は解りません。
暖炉がその時代からあったのかもわかりません。(あった可能性もあります。)

リビングの暖炉

※リビングの暖炉と扉についてはもう少し調べたいので後日加筆してみたいです。

ここまで読んで頂いた方は「なんだ、結局殆どの部分が作り直されて、当時の姿も解らないんじゃないか」と思われたかもしれません。
しかし、幼い頃のジャンヌがこの場所で育った事はほぼ間違いありません。

そして、何より注目したいものがあります。
もう一度この写真を見てください。
この中にあります。

もう一度

暖炉ではありません。その左上のこの棒みたいなものです。

ランプスタンド

これはランプスタンドです。
なんの変哲も無いただの棒のようですが、15世紀初頭の物だという事が放射性炭素年代測定で判明しています。
つまり、ジャンヌの時代にここにあったという事です。
毎日ランプをかけたり、置いたり、ジャンヌやその家族がしていたということです。

しかも、網の間からですが触れることができます。
ジャンヌが実際に触れた物が悉く失われている現代において、大変貴重な物です。

ただ、見た感じ本当に唯の棒なので見逃しやすいのが玉の傷です。
これから訪問される方は是非、そっと痛まないように触れて、彼女の日常の生活に思いを馳せてください。

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