今月読んだ本 (25)
2025年4月
今月kindleで読んだ英語の本は、Yanis Varoufakis "TECHNOFEUDALISM" でした。「テクノ封建制」、なかなかインパクトのある書名ですね。著者のヤニス・バルファキスは財政危機に陥った当時のギリシャで財務大臣を務めたことがある経済学者ですが、一般の読者に対して分かりやすく経済学の知識を伝える名文家としても知られています。「父が娘に語る経済の話」は、日本を含む世界中でベストセラーになりました。私も読んで感心しました。その内容はもう忘れていますが。今回のこの本でバルファキスが語りかける相手は娘ではなく父親です。父ゲオルギオスは今年100歳。というわけで、この本は生身の父親ではなく、ヤニスの記憶の中の父親に宛てた著述だということになります。
ヤニスの父親は冶金技術者にして共産党の政治家、ギリシャ民主化闘争の闘士だった人物です。ヤニスは、子供の頃にこの父親から大きな影響を受けました。たとえば、アインシュタインの相対性理論を教えてもらったこと。特に、光が粒子であるとともに波動でもあることは、少年ヤニスに衝撃を与えました。バルファキスは、現在の自分の立場をリバタリアンにして共産主義者だと規定します。本来ならば相容れない二つの立場を一身に兼ねているのは、この教えの実践なのでしょう。
さて、バルファキスは父親に対して何を語ったか。父親が生涯をかけて目指したのは、マルクスの教えに従い、民衆を苦しめる資本主義を打倒して共産主義(あるいは社会民主主義)社会を建設することでした。息子は父親に対してこう現状を報告します。資本主義は打倒された。しかし、その後にやってきたのは共産主義(または社会民主主義)ではなく、より邪悪な「テクノ封建制」だったと。「テクノ封建制」とは何か。簡単に言えば、アメリカのGAFAMに代表されるビックテック企業が支配する世界のことですね。かつての封建制が資本主義に移行したのは、富の中心が、レント(地代)から利潤に移行したからだったわけですが、現代の富は再びレントに戻ったとバルファキスは言います。現代のレントはネット上の各プラットフォームにユーザーたちが自発的に提供する個人情報のことです。GAFAMは、それらの個人情報をビッグデータとして利用して利益を上げているというわけです。「テクノ封建制」社会において、私たちはかつての農奴と同じような存在になっている。そんな現代社会を「テクノ封建制」と名付けることで、打倒すべき敵の姿を明らかにし、まるで「共産党宣言」のように、人々よ団結して革命を起こそうという言葉でこの本を締めくくります。これは、父親譲りのアジテーションの書なのでした。でも、相変わらずバルファキスの語り口は巧みで、単なるポジショントークや無味乾燥なアジテーションではなく、読んで面白い、現代社会への理解が深まる書でした。

今月読んだ新書本の最初は、エマニュエル・トッド+片山杜秀+佐藤優「トッド人類史入門」でした。2年前に出版された新書ですが、かつては信頼していた著者たちである、トッドや佐藤氏が、ウクライナ戦争に関してあまりにもロシア寄りだという感じがして、今まで購入しないできました。今年、トランプ大統領が再び登場して、予想以上にロシア寄りというよりもロシアべったりの停戦案を提示して、長らく膠着してきた情況に変化が見られる今、改めて、彼らが主張していたことはどういう事だったのかを確かめるつもりで、この新書を手にしました。
この本は、ウクライナ戦争について語られた本ではありません。形としては、同じ文春新書の「柄谷行人『力と交換様式』を読む」と同じ体裁を持っています。その本にも寄稿している佐藤優さんが、エマニュエル・トッドのライフワークであり集大成である「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」と柄谷さんの「力と交換様式」が同じように現代の古典たる重要な著作であり、ぜひともその入門書が必要であると考えて、片山さんを誘って共に本を読むとともに、トッド自身の話も聞いたというのがこの本の成り立ちです。ロシアとウクライナに関する話はそこから派生したものに過ぎませんでした。
私は「力と交換様式」は文庫化されるのを待っている情況、「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」は英訳で読もうと思っていますが、kindleでもまだあまりに高価なので手にしていません。(トッドは英米圏では人気がないようです。)というわけで、トッドのその本の内容は知らないんですが、佐藤さんによると、ハラリの「サピエンス全史」はまがい物で、トッドの著作こそ本物の人類史なのだそうです。この新書を読む限り、トッドさんの家族人類学的な視点で見る世界はとても新鮮で、なるほどと思いました。トッドさんの主張は、それぞれの世界観の基礎となる各国の家族構造は多様で、現在の世界は、本来は一つのローカルな視点にすぎない英米の視点を普遍的な真理としていることに問題があるということです。ウクライナの情勢も、2年前にトッドさんや佐藤さんが指摘していたような方向に動きつつありますし、少なくとも、ウクライナは絶対善、ロシアは絶対悪という先入観からは自由になろうと思います。それでもやっぱりプーチンは極悪だと思うし、侵攻を認めてはいけないと思うんですがね。

次に読んだ新書本は、成田悠輔「22世紀の資本主義」。以前読んだ「22世紀の民主主義」の姉妹編です。日本を救うために年寄りは自殺しろなどという暴言で知られる成田さんは、ただのトンデモではなく、斬新なアイデアを持った立派な学者でもあることをこれらの著作は示しています。奇をてらった所はありますが、とても面白い本でした。ただし、著者によると、この本はプロの経済学者としてではなく、素人として資本主義の未来像についてフワフワした想像をしたものだそうです。
この本は3章から構成されています。第1章は「暴走 すべてが資本主義になる」、第2章は「抗争 市場が国家を食い尽くす」、第3章「構想 やがてお金は消えて無くなる」。最初の2つの章は、これまでも聞いたことのある議論でした。例えば、ハラリの「ホモ・デウス」はアルゴリズムが全てを支配する未来世界を描いていましたし、上記のヤニス・バルファキスも似たような議論をしていました。でも、成田さんは語り口が上手い。これらの章の中に思わず引用したくなるような言葉がたくさんありました。以下にその例を少し。これらがどういう意味か知りたい方は本書をお読み下さい。
●未来がインフレし、現在がデフレしている。
●お金の隠された核心がある。それは「過去の記憶」としてのお金だ。
●資本主義と一体だった古い物理国家から資本主義が離婚し、
新しい情報国家と再婚する。
●物理国家は斜陽の生身空間の治安維持のための公共警備会社
みたいな存在になる。
●測ることを止めなければならない。
そして、この本の核心である第3章は、それこそフワフワした想像でした。成田さんは、「お金を使わず値段をつけず、価値が高いとか低いとか比べない経済」を構想します。そのキーとなるのが、なんとアルゴリズムなんですね、そしてアート。詳しくは本書を読んでもらうとして、意外な事に、成田さんは最後に柄谷行人を引用します。柄谷さんの主張する「交換様式D」が、どうやら成田さんの構想する未来社会とイメージがダブるらしい。頭の良い人が考えることは似ているということなのかもしれません。本の最後に、どんでん返し。成田さんは、この「22世紀の資本主義」は失敗作だと断定します。なぜならば、本当に必要なのは暴走する資本主義の制御でも、故障した民主主義の修理でもなく、経済と政治の機能を単一制度で実行する新しい「○△主義」だから。だから本当に書くべきは、「22世紀の○△主義」という本だということになります。なんとも気宇壮大ですね。

今月読んだ新書本の最後は、河野龍太郎「日本経済の死角」。かなり話題になって売れているようですが、まだまだ足りない。ワイドショーなどが宣伝して大ベストセラーにすべき本だと思いました。なぜなら、この本には、すべての日本人が知るべきことが書かれているからです。この本の主な主張は簡単に要約できます。それはこの本の冒頭の「はじめに」に書いてあります。今まで、諸外国と比較して、長らく日本が低成長であり、実質賃金も低迷し続けてきたのは、日本の生産性が低いせいだと多くのエコノミストや経営者、識者らは口を揃えて主張してきました。私もまたそれを信じていました。生産性を上げるには、イノベーションしかないと。でも、それら全てを、河野さんは、データを示して説得力を持って否定します。
この四半世紀で、日本の時間あたりの生産性は3割も上昇しているのです。しかし、この間の実質賃金は横ばいどころか、最近の物価高によって3%マイナスに下落しています。何故そうなったのか?簡単に言えば、儲かっている大企業がその利益を社内に蓄積するだけで、社員に還元しなかったからです。それどころか、企業は非正規社員を増やすことで、積極的に人件費の縮小をはかってきました。大企業の経営者たちが邪悪だったから、こんな経営をしてきたのかと言えば、かならずしもそうではありません。元々は、不況時においても社員をレイオフしたり人員整理をしないために人件費を抑えてきたのだし、組合もそれを容認してきました。また、大企業の正社員には定期昇給というものがあって、実質賃金が長年横ばいだという事になかなか気がつかなかったという事もあったようです。これは経営者にも言えることです。もっとも割を食ってきたのは、終身雇用制度の枠外にあった非正規の労働者たちでした。
というような事がこの新書本には書かれています。イノベーションについても、河野さんは、こういう表現ではありませんが、イノベーションにも良いイノベーションと悪いイノベーションがあると言います。悪いイノベーションは仕事を効率化するだけで、結局、その利益は資本家に吸収され、労働者は人減らしと賃金抑制の脅威に向かわされることになります。その反対に、良いイノベーションとは、労働者の能力を補強して、その賃金を上昇させるものだということになりますね。先進国の落ちこぼれになった現在の日本を救うには、その生産性を上げること、それにはイノベーションが大事だと頭でっかちに思い込んでいた私は、この河野さんの本ですっかり蒙を啓かれた思いです。さて、生成AIは、良いイノベーションなのでしょうか、それとも悪いイノベーションなのでしょうか?

次に読んだのは文庫本、辻邦生「小説を書くということ」でした。今年生誕100年を迎えた小説家は三島由紀夫だけではありません。辻邦生もその一人でした。長年、私が数多くの小説やエッセーに親しみ、少年時代から敬愛してきた作家です。でも考えてみると、ここ十年くらい、辻さんの本を一度も開かなかった。申し訳なさと懐かしさで、この文庫本を手に入れました。中公文庫オリジナルということですが、主な文章は辻さんの没後に刊行された「言葉の箱」という本から再録されています。わたしは既にこの本を読んでいた。というようなことは、この文庫本を開いてから気づいたことです。
というわけで、再読というわけですが、元の本は25年も前に読んだので、まあ初めて読むようなものでした。素晴らしい本でした。作家志望者あるいは文学愛好者向けの、創作教室での講義が元になっていますが、いかにも辻さんらしい、姿形も端正だがその人柄も文体も実に美しかった作家が、ここまで創作の秘密を率直にさらすのかと思えるほど、小説への、そして作家志望者への愛に溢れた講義でした。これを読んだ時、私はまだ広告会社のサラリーマンでしたが、いつか小説を書いてみたいと思っていた時期です。これを読んで大いに啓発されたはずですが、結果的には定年後にいくつかの習作を書いただけに終わりました。まあ、これは辻さんのせいではなく、読者だった私の才能の問題です。才能の中には努力を継続する才能もあります。私にはそれがなかった。
ついでですから辻さんに関する個人的な思い出をいくつか書いておきましょう。私が辻邦生の存在を初めて知ったのは、北杜夫の「どくとるマンボウ航海記」においてでした。貨物船の船医になった北さんが、パリに住む友人を訪ねる。その友人が辻さんでした。二人は旧制松本高校の同級生でした。もともと辻さんが先輩だったのが落第して同級生になった。当時の辻さんは、北さんと同じく、医者になることを目指してドイツ語を学びながら同時に文学の道をもめざしていました。当時の二人の共通のアイドルがドイツの作家、トーマス・マンでした。旧制松本高校での寮生活については、私の青春の書でもある「どくとるマンボウ青春記」に詳しい。私は、信州大学に保存されているこの旧制松本高校の寮を見物しに行ったことがあります。辻さんは、その後、東大仏文に進んでフランス文学の道に入り、パリに留学して文学研究に励みながら作家となる道を探っていました。その時に、北さんが会いに来たわけですね。「どくとるマンボウ」シリーズで人気作家となり、芥川賞も受賞して先に作家になった北さんが、辻さんの作家デビューにずいぶん骨を折ったことはファンなら良く知っています。作家の友情物語として、この両人以上のものを私は知りません。
確か、山形の「斎藤茂吉記念館」を見物してホテルに戻った時だったと思います。この記念館で、斎藤茂吉と北杜夫(本名は斎藤宗吉)父子の物語に思いをはせるとともに、建築ファンでもある私は、この建物の本館を設計した谷口吉郎と新館を設計した谷口吉生父子の物語にも同時に感銘を受けていました。その私をいきなり驚くべきニュースが襲いました。辻邦生さんが亡くなったと。テレビの画面に、悲痛な面持ちの北杜夫さんが登場しました。なんということでしょう。その時、私は辻さんの小説「西行花伝」を読んでいたんです。しばらくして、新聞に辻さん追悼の文章が掲載されました。著者は池澤夏樹。池澤さんの父君は作家の福永武彦でした。その父親と学習院大学の教授として同僚だった辻さんを、池澤さんは実の叔父さんか兄貴のように慕っていたそうです。
この文庫に収録された創作教室での講義で、辻さんは漱石の文学論の「F+f」の理論を高く評価して、その理論を元に小説論を展開しています。ところが、漱石の専門家だった江藤淳は、辻さんや丸谷才一さんらの小説を、「フォニー」つまりまがい物だと非難したんですね。「フォニー論争」として文学史上の事件になりました。なんてことを書いていると切りがないので、このくらいにしますが、とにかく、この文庫本を読んで、とても懐かしくて、昔のことをいろいろと思い出しました。年をとると、こんな読書の楽しみがあるんですね。

辻邦生さんは、自分の趣味は哲学と語学だと、どこかで書いてておられました。私も、趣味だとまでは言えませんが、若い頃から哲学の本をできるだけ読むようにしてきました。(原文ではなく日本語訳で。)今週読んだのは、世評の高い哲学書である、國分功一郎さんの「中動態の世界」。文庫化されたのを機会に読む事にしました。國分さんによると、この本を書くために古典ギリシャ語を新たに勉強したそうです。西洋哲学を本格的に研究するためには、英仏独だけではなく、ラテン語とギリシャ語の勉強も必要なんですね。まさに、哲学と語学は一体のようです。國分さんの著書は難解ではありますが、とりつく島もないといった難解さではなく、読者の事を考えて、思考の道筋を一歩一歩説明してくれるような明晰な文章なので、(その点は柄谷行人と似ている)我慢強く後をついていけば思考の高みに到達できるといった性格のものです。
しかしながら、私のような年齢になるとその我慢が持続しない。頭脳的にも身体的にも忍耐力がなくなったから。というわけで、せっかくの著書が走り読みになってしまいましたので、この本をどこまで理解できたのか自信がありません。幸い、著者自身が本の内容を解説してくれているので、「文庫版補遺」の國分さんの文章を引用させていただきます。
『中動態の世界』はかつてインド=ヨーロッパ語に存在していた中動態、あるいはより正確に言えば、能動態と中動態の対立に注目することで、能動態と受動態の対立の自明性に疑問を呈するとともに、歴史上この後者の対立と強く結びついてきた意志の概念を批判した著作である。(略)意志によって根拠づけられる責任の根幹にあるのは、過失を誰かのせいにするという発想である。(略)責任は中動態によって描かれなければならない。つまり、中動態に注目することで見えてくるのは、無責任ではなく、責任である。
國分さんはスピノザが専門です。スピノザは、近代哲学の創始者であるデカルトと全く違った哲学の可能性を示した思想家ですが、そのスピノザ研究の途中で、國分さんはスピノザ思想解読の鍵となる「中動態」と出会いました。そして、「中動態」が存在した古代ギリシャには、「意志」という概念が存在しなかったことをアレントの著作によって知ります。「意志」がなければ「責任」も存在しません。現在の裁判でも、心身耗弱が認められれば処罰されませんね。では、古代ギリシャ人は責任をどうとらえていたのか、答えは「ギリシャ悲劇」にありました。というようなことが、この本には書かれていました(たぶん)。この本の副題は「意志と責任の考古学」です。でも、これは私の感想ですが、國分さんが本当に書きたかったのは「自由」ではないでしょうか。この本の最後は、こういう文章で閉じられています。「たしかにわれわれは中動態の世界を生きているのだから、少しずつその世界を知ることはできる。そうして、少しずつだが自由に近づいていくことができる。これが中動態の世界を知ることで得られるわずかな希望である。」

今月最後に読んだのは松家仁之「火山のふもとで」でした。この小説を私は五日間かけてゆっくり読みましたが、その間、実に幸せな時間を過ごすことができました。なにしろ、(あくまでフィクションですが)吉村順三をモデルにした建築家が主役の小説です。小説と同じくらい建築が好きな私にとっては、まさに待ちに待った作品でした。題名の「火山」というのは浅間山のことです。そんなわけで、堀辰雄以来の「軽井沢文学」の系譜をも受け継ぐ本格ロマンである(さらに言えば漱石の「三四郎」や、「続明暗」の作者であり辻邦生との対談本もある水村美苗さんの小説群の影響を想像させる)この小説は、できれば爽やかな風が吹き抜ける高原での緑陰読書にしたかったですね。残念なことですが、それは贅沢というもの。
新潮社の著名な編集者だった松家さんが突然小説家に変身して、最初に出版したこの小説がいきなり読売文学賞を受賞した時には驚きましたし、ぜひ読みたいと思っていましたが、十年以上経っても文庫化されず、記憶が薄れかけていた今年になってやっと文庫化されました。松家さん自身の「文庫版へのあとがき」でその事情がわかりました。松家さんは、この小説を書くために51歳で出版社を退職したそうですが、この小説はその最初の構想の一部にすぎませんでした。この「火山のふもとで」と合わせて全体となる本編ともいうべき、「天使も踏むを畏れるところ」が刊行されるのを待って、ようやく文庫化を承諾したということでした。文庫化すると単行本は再版されなくなるそうです。著者としては、単行本として、本来一体である「火山のふもとで」と「天使も踏むを畏れるところ」が並んでいる姿を見たかったんでしょうね。いかにも元編集者らしい望みでした。
さて、文庫本で「火山のふもとで」を読んでしまった私は、「天使も踏むを畏れるところ」が文庫化されるのを、あと数年待つべきかという問題が生じました。すでにとても世評の高いこの作品をすぐにでも読みたいという気持ちを抑えることができません。単行本で上下二冊の大作、さてどうしましょう。「火山のふもとで」は、若き弟子の眼を通して吉村順三をモデルとする建築家、村井俊輔の晩年が語られるのですが、壮年期の建築家を描く「天使も踏むを畏れるところ」は、どういう語りになるんでしょう。とても楽しみです。それと余談ですが、若い頃に建築家に憧れた私は、この小説を読んで、建築の道にすすまなくて(進めなくて)よかったと思いました。なにしろ私は不器用で、定規をつかってもまっすぐの線が引けないくらいだから、建築模型なんかとてもつくれませんからね。

最後はおまけです。今年、久しぶりに大阪で安藤忠雄展が開催されたので見物してきました。大病を経た安藤さんが、80歳を越えてもお元気なのが嬉しかった。会場でカタログとは思えないほど立派な記念本を買いましたが、会場では売られていなかった、展覧会と協賛したこの建築雑誌Casaも買ってしまいました。なにしろ安藤さんの大ファンなので。安藤さんは、無口だった上記の小説の建築家とはまるでキャラクターが違いますね。そこが面白い。

