一生ボロアパートでよかった【34】
あらすじ
自慢だった新築の白い家が、ゴミ屋敷に変貌していく。父はアル中になり、母は蒸発し、私は孤独になった。
ーーー1人の女性が過去を振り返っていく。
↓前話
↓本編
まさか本当に、足元の幸せがどこかに行ってしまうとは思っていませんでした。しかも、その教訓を教えてくれた母本人がいなくなるとは。
私は改めて母の部屋を見渡すと、まるで生活感がないと思いました。化粧台にのっていた香水などの生活用品がなくなったのがその原因の一つであることはすぐにわかりました。しかし、それだけではありませんでした。私は母の部屋にゴミが一つもないことに気がつきました。家の中はゴミで溢れているのに、母の部屋にはゴミ袋一つなかったのです。それから、クイーンベットの白いシーツに皺がないのが、一層生活感のなさを際立たせていました。
私は皺のないシーツを眺めて、このベッドで3人川の字になって寝ていた時が、私の人生のピークだったと思いました。それがいったいどうしてこうなったのか。この家に引っ越してきた時は幸せでした。このベッドで、父はたまに手を繋いで寝てくれて、母はトントンと私の胸で優しくリズムを刻み寝かしつけてくれました。それが、今日をもって誰1人このベットで寝なくなるのだと想像すると、あまりにも虚しいと思いました。
私はその虚しさを打ち消したくて、シーツの上にダイブして大の字になりました。どっと疲れを感じたのもありますが、シーツに思い切り皺を作ってやりたかったのです。それから、シーツに顔を埋めて、空気をめいいっぱい吸いました。このベットのどこかに、まだ優しい母の香りが残っているのではないかと期待したのです。でも、香水の匂いが肺いっぱいに満ちて、ゴボッとむせました。やはり、もうここに母はいないんだ、と思いました。
私はそのまま眠りました。足元にあった当たり前の幸せさえ消え去っていくその現実を受け入れたくなかったのです。だから、寝て誤魔化そうとしました。あと何より、思考を止めたかったのです。身も心もすっかり疲れきっていたので、私の現実逃避したいという願望を叶えるように、すぐに身体は寝入りました。
香水の匂いのせいか、いい夢は見られませんでした。夢で見たのは、幸せいっぱいにボロアパートを家族で出ていく日のこと、新築の白い家に引っ越してお姫様みたいな気分になれた日々のこと、ハナをペットショップで見つけて可愛い可愛いと言って買ってもらった日のこと。そしていつしか夫婦喧嘩が増え、ハナがいなくなり、足元がゴミだらけになって、遂には母がいなくなる夢を、まるで走馬灯のように見ました。
バタン、と玄関が閉まった音が聞こえて、目が覚めました。夢だったのか、と思って霞む目で辺りを見回すと、生活感のない母の部屋でした。母がいなくなったのは夢だったのではないかと一瞬思ったのですが、手元に母が残した"もう1人にしてください"のメモを見つけて、すぐに現実だと理解しました。
私は父に現実を告げねばなりませんでした。それは私の使命であると、自然に思うことができました。私は、父が帰ってきたであろうリビングに向かいました。
「おう、帰ったぞ。パン、買ってきたからな」
私が階段を降りてリビングに顔を覗かせるなり、父はこちらに顔を向けて言いました。それから、ビニールに入ったパンを差し出して、へらっと笑いました。
「昼飯、ちゃんと食べたか」
「お母さん、いなくなった」
私は父の会話の流れを、斧を振り下ろすように断ち切りました。父のへらっとした笑顔は真顔に戻り、わずかな間静寂がリビングを支配しました。父は私が何を言っているのかわからないようでした。
「は?」
「お母さん、いない、たぶん家出てった。これ、お母さんのメモ、お母さんの部屋にあった」
いまだに「よくわからない」といった風な父に、私は母が残したメモを手渡しました。
メモを見ても、父は尚も現実を理解していないようでした。ただ、ギョロリとした目が小刻みに動き、精一杯視覚情報から現実を読み取ろうとしているようでした。
「なんだ、お母さん、家出したのか」
「わかんない、でもいない、荷物がない」
「手紙、これだけか」
「手紙っていうかメモでしょ、これだけ」
「他には」
「他には何もない」
私は冷静でした。いや、心のどこかでは冷静ではなかったのですが、父に現実を伝える時は私は冷静でなければならないと直感的に悟っていました。だから、父が急に私に体当たりして、母の部屋へ階段を駆け上がって行っても、なんとも思いませんでした。私は尻餅をつきかけましたが、足元のビニール袋に入ったゴミ達によって救われました。そして足元のゴミ達を見て「ああ、これが現実だ」と、改めて噛み締めました。
父は、母の部屋に行くと、タンスもクローゼットも開け放ち、ひっくり返すようにして母の荷物を確認していました。私が母の部屋を荒らした時よりはマシな様相でしたが、父は生活感を演出する天才だと思いました。父はなりふり構わない、という様子でした。何かを探しているようでした。私が父を追いかけて母の部屋を覗きに行くと、父が言いました。
「おい、通帳、どこかにあったか」
つづく
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