一生ボロアパートでよかった【35】
あらすじ
自慢だった新築の白い家が、ゴミ屋敷に変貌していく。父はアル中になり、母は蒸発し、私は孤独になった。
ーーー1人の女性が過去を振り返っていく。
↓前話
↓本編
「おい、通帳、どこかにあったか」
私を振り返って見る父の形相は、鬼気迫るものがありました。不安、怒り、焦燥感。それら負の感情がギョロリとした目から飛び出しかけていました。
「通帳、お母さんが持ってるんだよ。いや、キャッシュカードでもいいんだ。どこにあるか、お前、知ってるか」
尋常ならざる父の様子に、私の身体は固まってしまいました。でも私は表面的な冷静さを装い、首を横に小刻みに振りました。父は手元に視線を移すと呟くように言いました。
「生活費とお前の学費はお母さんが払ってたんだ。家のローン口座はお父さんのだけど。お前、お母さんから生活費のこと何か言われてるか」
私が知るはずがありませんでした。もうしばらく母と口をきいていませんでした。母はただ自分の生活をこなしていました。私も自分のことで頭がいっぱいでした。ましてや、私は母の部屋を荒らした大罪を犯していました。
「何も知らない」
私がようやく返した言葉はそれだけでした。父は変わらず手元を睨むように見つめていました。
「とりあえず家のローンはなんとかなる。生活費は、いや、ローンの返済は待ってもらって、生活費の確保が先か、あれ、学費の引き落としはいつだ、なあ、おい、学費の引き落としがいつか知ってるか」
私が知るはずがありませんでした。母が学費を払っていたことも、その時初めて知ったのですから。私が「知らない」と答えると、父は「そうか」と言って、また考え込むように黙りました。少しして、父が部屋の物色を再開したので、私も一緒に通帳がないか探し始めました。
2人で母の部屋を荒してしばらくすると、父が言いました。
「くそ、やっぱりあいつ、金持って家出たのか」
父は一通り母の部屋を荒らし終わったのか、持っていた服を床に放り投げ、悪態をつきました。私は父のその一言に「そりゃぁ自分で稼いだ金は持っていくだろう」と思いました。でももちろん口には出しませんでした。私は手を止めて、ただ父を見守っていました。父は白髪混じりの短髪をガシガシと両手で掻き静止すると、呟きました。
「そうだ、お母さんを探しにいこう」
「え」
「こんなことしてるより、お母さんを探しに行った方が早い。お父さん、今から外出てくるから」
その時の父の目は焦燥感の色が強かったと思います。父の身体は身軽に、迷いなく玄関へ向かっていきました。私の身体は動かず、首と視線だけで父を見送りました。父がリビングをガサガサと蠢き、玄関の扉を勢いよく閉めた音が聞こえました。父のその慌ただしい様子を見て聞いても、私はその場から一歩も動きませんでした。別に私は父ほど必死になって通帳を探していたわけではありませんでした。たぶん、私は直感的に母を探しても無駄だとわかっていたのだと思います。
私は1人母の部屋に残り、ぼんやりと不思議に思っていました。母は一体いつ家を出たのか。前日までは玄関の靴が揃えて置かれていたので、それまでは母が家にいたはずでした。父は私と同様、靴を揃えて置く習慣はありませんでしたから、母が私の靴を揃えてくれていたことは確かでした。ということは、一昨日私が父を尾行した後から今日私が公園へ行くまでの間に母は家を出たことになります。母が家を出た時間の詳細までは分かりませんでしたが、たぶん夜の間に家を出たのだろうと思いました。母が家を出た後も、私も父もしばらく気が付いていなかった可能性さえありました。母は私や父と違って、ガサガサと物音を立てたりしなかったのでしょう。母は私や父と違って、そんなデカいゴキブリみたいな音は似合わないのです。
母は桜がよく似合う人でした。美しさと儚さを併せ持っていました。私は母にどんなに怒られても、どんなに嫌われても、母を美しい人だと思っていました。母はきっと、桜の花びらのようにヒラリヒラリとこの家の玄関の隙間から逃げ出してしまったのでしょう。
ぼんやりとそんな事を考えていると、ぐぅ、とお腹が鳴りました。そういえば父が作ったおにぎりがあったのだったと、私はそこでようやく思い出しました。パーカーのポケットに入れていた海苔なしおにぎりを取り出すと、ずいぶんと歪な形になっていました。今日の帰り道、無意識に握り込んでいたせいで、指の跡がおにぎり全体についていました。
このおにぎりを桜の下で食べたくて今日外に出たのに、まさかこんな事になるとは思いもしませんでした。母の部屋で父が作った海苔なしおにぎりを食べながら、結局桜を見れなかったことを残念に思いました。私は頭の中で、父を尾行した日に見た桜を思い描きました。
ふと、桜の花びらと一緒に散っていった海苔の欠片のことを思い出しました。それを足で捕まえて踏みにじった後、私は可哀想なことをしたと思ったのです。私は捕まえても食べられない海苔は捕まえるべきではないという教訓をそこで得ていました。逃げ出した海苔の欠片は、桜の花びらが舞う中に混ぜてあげるべきなのです。だってあの海苔の欠片はきっと、自由に舞う桜の花びらになりたかったのですから。もしかしたら、あの日散って舞い転がっていった海苔の欠片は、母だったのかもしれない。私は父の作った海苔のなしおにぎりを食べながら、そう思いました。
私はおにぎりを食べ終わると、父に「おにぎりを作ってくれてありがとう」と伝えようと思いました。もし直接「ありがとう」を言えなくても、「おにぎり全部食べたよ」と伝われば良いと思いました。私は自分の部屋に置きっぱなしにしていたお皿を取りに行き、それをリビングの父が座るダイニングテーブルの席に置きました。
つづく
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