一生ボロアパートでよかった【36】
あらすじ
自慢だった新築の白い家が、ゴミ屋敷に変貌していく。父はアル中になり、母は蒸発し、私は孤独になった。
ーーー1人の女性が過去を振り返っていく。
↓前話
↓本編
父が家を出て2時間ほど経過した頃、玄関の扉が閉まるけたたましい音が聞こえました。次いでガサガサとリビングを蠢く音がしました。音だけで、父が1人で帰ってきたとわかりました。
私はおにぎりを食べてから暇を潰す方法も思い付かず、1時間ほど母の部屋で通帳を探していました。その後は飽きて自室に戻り、薄寒い布団を被っていました。日中に寝てしまったので、ぱっちりと目が覚めていて退屈でした。
父が帰ってきてまもなくリビングで、がしゃん、と音がしました。私の「ありがとう」が割れた音でした。私はそれを聞いてのそりと起き上がり、リビングへ向かいました。
父はダイニングテーブルのいつもの席に座り、顔を腕で隠すようにして俯いていました。私はその姿勢に覚えがありました。まるで私の降参の姿勢のようでした。いつもダイニングテーブルの上は物で溢れているのに、その時は妙にすっきりとしていました。ダイニングテーブル横の床に目をやると、テーブルの上にあっただろうゴミや荷物が落ちていました。それらに埋もれて、私の「ありがとう」の念を込めたお皿も割れて落ちていました。父は帰宅するなりダイニングテーブルの上のゴミを横殴りに床に落としたのだろうと推測できました。いつか私が母の部屋で化粧台の上の香水を横殴りに床に落とした時のようでした。それらの様子を見て、父と私は本当によく似た親子なのだと思いました。
「お父さん、」
私は声をかけたものの、何を話したら良いかわかりませんでした。父を呼ぶだけ呼んで、黙りました。父も黙っていました。でも、その反応で父が怒っているのがわかりました。父は怒ったり不機嫌になると黙るのです。昔からそうでした。嵐の前の静けさ、天変地異の前触れ。そんなようなものです。そして、地鳴りが響き始めると、一気に噴火する。
「いつだ」
「え」
「いつお母さんがいなくなったって気付いた」
「………今日の昼間、外に出て、帰ってきてから」
「昼間のうちにお母さんがいなくなったって、気付いてたのか」
父は顔を少しだけ上げて言いました。私は低く響いた父の問いに答えられませんでした。「うん」と答えたら怒られるとわかっていたからです。
「昼間のうちにいないとわかってたのかって聞いてんだ!」
何も答えなくても怒られるとわかっていました。それでも答えませんでした。私はただ黙って父の怒りを受け止めました。
「なんで早く言わなかったんだ!俺の携帯に連絡入れるくらいすればよかっただろう!早く探しにいけば、連れ戻せたはずだ!お前はお母さんを探しにも行かなかったんだろう!?学校も行かずに家にいたのに!」
私は黙っていました。本当は言い返したいことがたくさんありました。家の電話はリビングにあって、ゴミに埋もれていました。長い間家の電話が鳴るのを聞いていなかったので、使える状態にあると思っていませんでした。父の会社に知らせに行くのも無理でした。もう電車に乗れるお金はいっさいありませんでした。母を探しに行くのも無理でした。私は疲れていました。当たり前にあった足元の幸せさえ消え去っていく現実に、ほとほと疲れ果てていました。だから私は、母が家を出たとわかっても父に知らせられなかったし、母を探しにも行かなかったのです。
「まただんまりか!くそ!どいつもこいつも!もういい!」
どんっ!父が握り拳でダイニングテーブルを思い切り殴りつけました。私は殴られた気分になりました。いっそ殴られて気絶できた方が楽だったのかもしれません。その後、その大きな音は私の中で反響し続けました。そしてそれは、噴火した火山の上で雷が発生するように、自然現象的に、私にも二次的な怒りをもたらしました。私はボソッと「お母さんが逃げたのは、私だけのせいじゃない」と呟きました。父には私の声は聞こえていませんでした。父は携帯を取り出し、電話をかけ始めていました。
「あー、すみません、お義母さんですか。俺です、正造です。あの、ハルミそっちに行ってませんか」
父が電話をかけたのは、母方の祖母のようでした。母が家出したようだと説明すると、電話口から怒声が聞こえてきました。すぐに電話は切れて、まるで会話になっていませんでした。
母方の祖母とは幼少期以来ほとんど交流がありませんでした。母自身が祖母との交流を拒んでいたからです。祖母はたぶん、母からこの家の場所さえ知らされていないのだと思います。詳細は知りませんが、祖母はシングルマザーで、母との関係は決して良好ではありませんでした。昔、母は祖母に「お前なんか産むんじゃなかった」と何度も言われたと言っていました。母が、我が子にはあんな思いはさせたくないと言っていた記憶があります。そんなだから母は、今まで実家に帰るなんて言ったことはなかったし、今回家を出たからといっても、絶対にあの祖母の所には行っていないだろうと私は確信していました。
祖母との会話がほぼ不発に終わった父は舌打ちをして、呟きました。
「あとは、警察に言うしかないか」
私は父の言葉にゾッとしました。それは、絶対にしてはいけない。海苔の欠片は捕まえて踏みにじってはいけない。自由にしてあげなければいけない。
次に父が携帯を耳に押し当てた瞬間、私は父の腕に飛びかかるように両手を絡め、思い切り体重をかけました。
「もうこんなことやめなよ!お母さん、せっかく逃げたのに!」
私の体重に父はふらつきましたが、すぐさま腕の筋肉に力が入ったのがわかりました。父の顔は見ていませんが、戸惑いの後、すぐに怒りの形相に変わったことでしょう。「な、なにすんだ!」とすぐに怒声が飛んできました。
私は父が体勢を直す前に父の携帯を取り上げて、ゴミの海の中に投げました。
「お前何考えてんだ!」
私はまた父の腕に体重をかけました。この時の私は、私の手で海苔の欠片を逃がしてやらねばならないと思っていました。必死でした。でも私は、以前より痩せた割に力強い父の腕によって、床に振り落とされました。私は諦めずに、携帯電話を取りに行こうとする父の足にしがみつきました。父の足は、やはり昔より細いような気がしました。
「こんなこと警察に言ったってしょうがないじゃん!お母さん、自分の意思で家を出て行ったんだから!」
「探してもらった方がいいに決まってるだろう!お前、お母さんがいなくなっていいのか!」
「別にいいよ!そもそも、お母さん、全然お母さんしてなかったじゃん!もう今更じゃん!」
「この家はどうすんだ!」
「そんなの知らないよ!お父さんはなんで逃げた人を捕まえようとするの!?お母さんはここが嫌で逃げたんだよ!もう逃してあげなよ!可哀想だよ!」
私はキレると泣く癖があるようなのです。この時も大声で父に反抗しながら、最後の方は大粒の涙を流して泣いていました。鼻水も出かけていました。それでも私はこの時、自分のなけなしの正義を貫こうとしました。自由を踏みにじられる苦しみは、私自身が一番よく知っていたからです。
父は私の叫びを聞いても、一度は前に足を踏み出そうとしました。でも、私がまた腕に力を入れてそれを阻もうとすると、歩を止めました。私はともかく、父が海苔を踏みにじりに行くのを止めたくて、とどめとばかりに父のズボンに噛みつきました。本当は足に噛みつこうとしたのですが、菓子パンばかり食べている力無い顎では、ズボンに噛みつくのがやっとでした。ゴミに埋もれながら地べたに這いつくばってズボンに噛みつく娘を見て、父も思うところがあったのでしょう。しばらくの沈黙の後に、父は言いました。
「もういい、わかったから。
………痛いから、やめなさい」
つづく
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