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一生ボロアパートでよかった【37】

あらすじ
自慢だった新築の白い家が、ゴミ屋敷に変貌していく。父はアル中になり、母は蒸発し、私は孤独になった。
ーーー1人の女性が過去を振り返っていく。

↓前話

↓本編



 父を孤独にさせたのは私であったと、今でも自責の念を抱いています。私が母の家出に肩入れすることが、同時に父を孤独にさせることにもなると気がついたのは、この後の、またさらに後のことでした。

 次の日、目覚めて自分の部屋からリビングに降りると、父がソファで寝ていました。私は昨日あれから、ゴミだらけの床から父の手によって拾いあげられ、立ったまま嗚咽混じりに泣きました。父はたぶん困った顔をしていたと思います。私自身、ひどい泣き方をしていると思いましたから。子どもがどんなに冷静を装っても、化けの皮が剥がれてしまえばやはり脆弱でした。父に半ば呆れたように「もう泣き止め」と言われても、そう簡単に涙を止めることはできませんでした。さらにそのあと、父に大きくため息をつかれて「お父さんももう寝るから、お前ももう寝なさい」と言われたので、私は溢れる涙を手の甲でぬぐいました。

 前日の記憶を思い返すと、自己嫌悪に苛まれました。私は首を軽く振って、前日の恥晒しな自分を払拭しました。それから父が起きるのを、前日に買ってきてもらったパンを食べながら待ちました。父が買ってきたのは、ツイストドーナツでした。割引シールが貼ってありました。包装をよく見ると、賞味期限は昨日でした。食べている間、砂糖がいつも以上にボロボロとこぼれました。

 私がツイストドーナツを食べ終わってまもなく、父のいびきが聞こえなくなりました。数分して、父がむくりと上半身を起こしました。

「なんだ、起きたのか」

 父はまだ眠そうな目で私を見つけて、そう言いました。それからすぐ、気まずそうに目を逸らしました。私も気まずく思いながら答えました。

「うん」

 僅かな時間、静寂がリビングを支配しました。互いが沈黙した後、先に口を開いたのは私でした。

「ねぇ、お母さん、どうする」

 私が父にそう聞いたのは、前日に父を困らせてしまった罪悪感からでした。避けて通れない話題を私からふることが、私なりの最大限の謝罪の意でした。

「ああ、そうだな」

 父は少し悩んだ様子で間を開けて答えました。

「今日はお父さん、仕事休むから。昨日おばあちゃんに電話しても話にならなかったからな。おばあちゃんの家に直接行って、心当たりがないか聞いてくるよ。お前、学校はどうする」

「こんな状態だし、私もしばらく学校は行かない」

 会話の流れでもっともらしい不登校の理由を見つけると、流暢かつ自然に、私の口からその台詞が出てきました。正直に言うと、私にとって母の家出は関係なく、もともと学校へ行く気なんてありませんでした。

 お互い前日の話はしませんでした。私は父のズボンに噛み付いたことを謝りませんでした。父も、私に怒鳴ったことを謝りませんでした。私はあえて昨日の話をしない事がお互いの利益であるかのような認識でいました。でも父は、唯一昨日のことに触れて私に問いました。

「腕、大丈夫か」

 実は、昨日の話にはさらに続きがありました。私は父の足にしがみついた際に、落ちていた皿で怪我をしていました。右肘下内側の柔らかい肉を、割れた皿がパックリと裂いたのです。私自身、すぐには怪我に気づきませんでした。必死だったからです。それに最初に気がついたのは、父でした。父が私に寝るように促した後、ギョッとした目で涙を拭う私の腕を見つめて指摘してきたのです。父に突然、「おい、血、出てるぞ」と言われても、私は最初何を言われているのか理解できせんでした。私は父の視線の先を追いました。涙で霞む視界に赤が滴る肘を捉えると、血の気が引くのを感じました。

 父は「おい、血、血。ティッシュどこだ」と言って、ただ狼狽えていました。直前までの怒りに満ちた様子と打って変わってなんとも頼りない様子に、私の涙は引っ込みました。私は冷静さを取り戻して、血が滴る右肘を左の手のひらで押さえました。

「大丈夫」

 大丈夫かどうかは、私にもよくわかりませんでした。でも、とりあえず父に落ち着いて欲しかったので、私はぽつりとそう呟きました。すぐに血を拭くものが見つけられなかったので、私はキッチンへ行き流水で肘を洗い流しました。キッチンペーパーが冷蔵庫横のホルダーにかけてあって、私はそれを切り取ってぽんぽんと傷に当てて水を拭き取りました。傷を見てみると、肘下の肉が5センチほどパックリと切れていました。それまで痛みなんて感じなかったのに、肉眼で傷をとらえた瞬間、私はしっかりと傷ついているのを感じました。私は思わず「痛…」と呟きました。

 その声が聞こえたのか、様子を見守っていた父が心配して、救急箱の所在を尋ねてきました。私は、アイロンと掃除機を取り出したクローゼットの中に、救急箱があったと記憶していました。私がそう伝えると、父はガサガサとゴミの海に入り、救急箱を探しにいきました。私が途中「たぶん、その辺りにお皿が落ちてる」と教えると、父が屈んで皿を拾い上げ、ダイニングテーブルの上に置きました。皿の一部に血がついていました。

「それにしたって、なんであんなところに皿なんか落ちてたんだ」

 救急箱を見つけ出した父が、私に言いました。私は返答に困りました。「おにぎり作ってくれてありがとうって、私がお父さんに伝えたかったからだよ」なんて、今更言えませんでした。

「なんでだろうね」

 私は父から救急箱を受け取りながら、そう答えました。その後、父は割れた皿を回収して、キッチンの流しにガシャンと乱暴に置きました。それからすぐキッチンからゴミの海を眺めて何かを思い出したように、再びゴミの海の中に入っていきました。父がゴミの海から携帯電話を拾い上げたのがわかりました。「事件ですか?大丈夫ですか?」と受話器越しの声がかすかに聞こえたからです。父がぽつりと「大丈夫です、間違えました」と静かに答えたのが聞こえて、続けて折りたたみの携帯電話を閉じたのがわかりました。

 私は父の様子を耳半分で捉えて、自分の傷を見つめていました。救急箱を受け取った後、自分で傷の手当てをしていました。じくじくじんじんと痛む傷は、私自身に"私は傷ついている"と主張しているようでした。

 傷を手当てしながら、一つ痛感したことがありました。行動で示そうとしても、言葉がないと結局何も伝わらないということでした。私は消毒したあと、ガーゼを当てテープでとめて傷を隠しました。

 私は無意識に右肘の怪我に左手を添えていました。ピリッとした痛みを感じ、記憶から現実に意識を戻すと、無言の私を心配そうに見つめる父と目が合いました。私は父に答えました。

「大丈夫」

 顔を洗い、しっかりと目を覚ました父は、その後、学校と職場に電話をして家を出て行きました。前日のやりとりを父がどのように受け止めたのかはわかりません。でも終始父は、母をこれ以上探さないとは言いませんでした。その日、父は9時前には家を出ましたが、夕方まで帰ってきませんでした。たぶん、ずっと母を探していたんだと思います。



つづく


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